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ブックマーク / katari-mata-katari.hatenablog.com (177)

  • 音に満ちる - 語る、また語る

    Jポップの何が好きかというと、旋律のわかりやすさとか"さび"の煌びやかさとかいろいろあるけれど、そのわかりやすさとか煌びやかさがかえって「ものたりない」と感じるときがある。いや、Jポップは変わらず好きなのだが、ちょっと逸れた雰囲気のものも気になるといった感じである。 たとえば、15年以上思い出しては聞いているくるりのアルバム「NIKKI」*1。「Superstar」とか「Birthday」を選んでいたのが、「お祭りわっしょい」や「Ring! Ring! Ring! 」*2に向かっている。シングル曲よりアルバム曲がおもしろい、といってもいいかもしれない。もしくは、単にシングル曲は「もう十分に聞いた」ということかもしれない。くるりのカップリング曲だけ集めたアルバム「僕の住んでいた街」も買ってしまった。 そもそも十代のころに、重く厚い音に軽やかなボーカルというスタイルに感覚を射抜かれてからという

    音に満ちる - 語る、また語る
    neputa
    neputa 2024/06/13
  • 可もなく不可もなく - 語る、また語る

    あれよあれよと6月になった。午前6時、起きがけにカーテンを半分開けて台所に行こうとしたら、「ありふれた人生を探していた」とスピッツのボーカルが聞こえてきた。CDを持っていないのでタブレットをたたく。スピッツにしては珍しくストリングスが入っているようだ。 わかるようになった部分。 空回るがんばりで許されてた 現実は怖いな 逃げ込めるいつもの小さな部屋 点滅する色たち わかっているけど変われない 仕上がりのレベルを高くしているあまり、面倒になる個人的なことがまあまあある。やっと目処がついたと人に話したら、そこまでやったのねと言われた。彼女はそこまではしないらしい。 たとえばヨーグルトの紙容器を洗って捨てるかどうかであっても、そんなことはしない人もいるのであって、個人的なことをどこまでやるかは人によって違ったりする。そのどこまでの範囲を狭めたり、質を緩めたりして小分けにすれば取りかかるハードルも

    可もなく不可もなく - 語る、また語る
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    neputa 2024/06/11
  • 外をまなざす - 語る、また語る

    あるニュースサイトに行くとついゴシップばかりかっさらっているため、いっそアクセス制限をかけることにした。もはや朝刊とラジオとたまにテレビ、のような古典的なスタイルになりつつある。 数年、自分が遭遇したことや知りたいことだけを見たり聞いたり読んだりしており、とはいえ断片が入ってくる外の出来事もあって、しかし、どちらからもにも対立と分断の相を感じる。個人的なものについては、対立というより相対かもしれない。緊迫はしていないけれど、ただ自分と交わったり交わらなかったりする誰かがいる。ひとかたまりにした何人かと自分だったとしても、切り分けていくと個人と個人になっていく。 だから、外をまなざすことは、自分をまなざすことになるのだと思われる。自分の中で何か進めたいことがあったとき、遠い国のニュースから気づくことがある。ただ自分の内に内に入っていてもできなかったことだ。ほったらかしにすると「自分に都合のい

    外をまなざす - 語る、また語る
    neputa
    neputa 2024/06/08
    外をまなざす、素敵な言葉。ネットのお陰で簡単に好きなものを手にできる一方、偏った環境に陥りがちと日々反省しています。外への関心を広げる意識を私も持とうと思います。
  • 置くか、しまうか - 語る、また語る

    自分はめんどくさがりなため、使いたいものはすぐ取れるところに出しっぱなしで収納している。 ただ近ごろ、何でも出しっぱなしなのもどうかと疑問を持った。出しっぱなしにしていると埃がつく。よく使うものならそんなことはないけれど、あまり使わないもののことだ。使いやすいようにと出しっぱなしに置いておいたのに、次に動かしたのが埃を取るときだったわけである。しまうこともしたくないが、埃を取ることはもっとしたくない。しまっても埃は入ってくるけれど、出しっぱなしに比べて少ない。物をしまえば、障害物がないので掃除がしやすいのはよく言われることだ。 つい出しっぱなしにしたくなるのを、「出しっぱなしにしたら埃」と制止して、棚なり引き出しにしまう。あたりまえのようでむずかしい。

    置くか、しまうか - 語る、また語る
    neputa
    neputa 2024/06/06
    先週末、自分の机の上をモノがない状態にする!と突然思い立ち、昨日届いた引き出しに片付けました。片付けが苦手でこんなことは人生で初めてのことです。
  • おそらく御免だった - 語る、また語る

    「携帯電話を持ってきた人がいる。部屋長は、携帯電話を持ってきていないか確かめること。持ってきた人がいたら預かって、夕後のミーティングのときに出すこと」 林間学校二日目、午後に開かれた臨時の部屋長会で隣のクラス担任は言った。十人一部屋で、持ってきている同室のクラスメイトを何人か知っている。自分はそのことを伝え、携帯電話を渡してもらわなければいけない。伝えることはできたとしても、渡してもらうなんて無理だ。彼女たちは出すはずないし、そんな彼女たちを振り切るほど自分は肝が据わっていない。 誰も持ってきていないことにしてもいいけれど、それですむとも思えない。白状したら始めに嘘をついたことになる。かといって出せたところで、彼女たちからは非難の嵐だ。 どうしたらいいかわからないまま、夕を終えミーティングになった。 順に部屋長の名が呼ばれる。いくつかの部屋にあった誰かの携帯電話がじゅうたんに置かれた。

    おそらく御免だった - 語る、また語る
    neputa
    neputa 2024/06/05
    ご自身はとてもつらかったでしょうが、自分が悩み苦しんで結果として他者を助けたのはすごいことだと思います。そもそも携帯ぐらい持ってきてもいいじゃないとは思います。
  • "じゃんけん"を仕掛ける - 語る、また語る

    セダンの後部座席に乗って国道を行く。退屈だった。何かおもしろいものはないかと、体を時計の秒針のようにくるくると、いやそれにしては不規則だが回す。スーパーマーケットにレストラン、ホームセンターと、昼なのに明るい看板のネオンは小学生には黙ったままだ。信号は赤。家を出てからずっとだ。早く祖母の家に着いてほしいような、着いたところでかしこまってしまうからそうでもないような、でも事は楽しみなような、いつもそんなことを思っている。 また信号が黄色から赤になり、今度は後ろの窓をのぞいてみる。大型トラックだった。フロントガラス上部に緑の三連ランプがついている。しめた。隣に座っている弟を促し、運転席を二人で凝視する。どんな人であろうが、ここで"じゃんけん"を仕掛ける。まったく相手にされないこともある。しかし今日はのってくれた。何回か勝負したところで車が動き出した。ここで一旦中断し、車が止まるとまた始める。

    "じゃんけん"を仕掛ける - 語る、また語る
    neputa
    neputa 2024/06/04
    じゃんけんをしてもらったトラックの運転手の気持ちになって読みました。きっと忘れられない一日になっただろうし、この出来事を誰かに話したくなる。とても素敵です。
  • どこまでも言葉を試す - 語る、また語る

    日常的に遠回しな言葉を使いがちだ。遠回しから始めて、伝わり具合を見て直接的に言い換えたりしている。 婉曲した言葉は角が立たない分、ぼんやりしてしまい、言ってみたもののもやもやして、だったらはっきり言ったらよかったというときもある。いずれにしろ、相手の返しによるところもあって、使い分けたらいいのだろう。 きっぱり言うようにしてみると、言葉が自分のものでないような気がして、自分が用いている言葉とは、慣れているだいたい決まった感じがあるのかもしれない。 気持ちに合うような言葉にできなかったとしょげていたけれど、そういうことがあるからまたいろいろな言葉を使ってみるのであるし、どんどん言葉を使っていこうと思うのである。 「やらなければ上手くはならない」というTVから聞こえてきた台詞が、自分に向けられているようだった。

    どこまでも言葉を試す - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/26
  • 自分の基準もつくる - 語る、また語る

    職場で社会的地位をと目論んでいた。社会的地位が目的になり自分が何をしたいかもなく、自分はいったい何をしたかったのかといえば、ちやほやされたかっただけだ。 もう自分が働く職場はないし、身の回りのことをあれこれやっていることに後ろめたさがないといったら嘘になるけれど、特別な何かを目論むこともない、そういうことだ。 人はそれぞれ大切といったって、結果を出すことの価値が流布されていたり、何重もの基準があることに頭がこんがらがる。その基準に自らを当てはめて自らをジャッジして一喜一憂する。基準があることはあるけれど、その基準に自らを計ることは強制されているわけではない。基準というものはところ変わればまた変わるのだ。 世間で良しとされる基準から降りている自分だが、その基準を使わないことにしたから、もやもやすることもあるけれど、いくらかすっとした気持ちがする。

    自分の基準もつくる - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/25
    競争が最優先の営みはいずれ足を引っ張る行動にシフトすると気づいてから競うことへの興味が一気に失われてしまいました。競争を意識していなくても生きていけるもんだと最近思います。
  • 大人になってからは、挨拶でしのげる - 語る、また語る

    小学五年生のときに一人で映画を観に行った。単館だったこともあり、ロビーは出入りする客でごった返していた。ちょうど同級生二人と鉢合わせた。あまり親しくはない隣の組の子たちで、次の上映に向かっていたようだった。 二人「あ、〇(私の名前)ちゃん」 私「ああ」 (会話終了) そのくらいの年頃は、一人でいるところを見られたくないというか、友だちがいないと思われることを恐れていたものだった。実際に、そのときは映画に行ける友だちはいなかったので、会ってしまったというのが音だった。 それより何より、子ども同士はこういうときにどのようなやりとりができるのだろう。どうしたらいいかわからないし、どうするについても及ばなくて、いつも同じところで足踏みしていた気がする。現役小学生の様子を見ると、名前を呼んで手を振るとか、おーいと呼びかけたりして楽しそうだが、自分はそんなことは思いつきもしない子どもだった。 大人に

    大人になってからは、挨拶でしのげる - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/23
  • 本棚に布 - 語る、また語る

    棚をあまり人に見せたくない。 稀に来客などがあると、棚のを戸棚にしまう。だったら出しておかなきゃいいのだが、棚のは自分の分身のようなので見えるところに出しておきたい。あとはCDとか図書館の貸出履歴もわりと。小さな子どもがぬいぐるみを持ち歩くのと同じである。いつもやCDを持ち歩きはしないけれど。 子どものころ習い事に行っていた家の一室の棚には、決まって布がかけられていた。その部屋は窓のない壁一面が木製の棚で、花柄やストライプ、無地の布が鋲でとめられていた。まあ、自分はこっそり一部の中を覗いていたものだが、それらはすべて料理だった。おそらくが焼けないためにそうしていたのだろうが、すぐには見れないような牽制もそこにはあったのではと勝手に思っている。 棚はその人を映すという。棚をわざわざ見せたくないのも、自意識が人からどう思われるかを気にする、または自分を守ろうとしている

    本棚に布 - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/22
  • すぐに差し出せますか - 語る、また語る

    近くの席の人が飲み物を机にひっくり返したとき、さっと、拭くものを差し出せますか。 鞄の中を探ったものの、もったいないのでは、でもやっぱりと渡したけれど別の人が秒で早かった。何というか、もったいないなんて"けち"なものだ。私は"けち"なのでいいのだけど、少し自分に拍子抜けした。相手が困っているのにもったいないなんて。そういうときにすぐ動ける人は、日ごろからそうなのだろう。 拭くものを渡しただけでも伝わる人には伝わるかもしれない。やさしさのようなものが。でも、やはり自分がもったいないと感じたところが気にかかった。 手をあげた人たちの中から気遣いをいただいた人へのお礼と、手をあげた人たちにもその気持ちへのお礼がいるのだ。たとえ、もったいないとか、周りに合わせてとかであっても、その場を何とかしようとしてくれたということなのだから。今日の自分のためにそういうことにしておく。

    すぐに差し出せますか - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/21
    躊躇した自分に対してあと引く感じ良く分かります。今は躊躇しない、反省はその後でいい、と決めていますがやはりためらうときはあります。
  • 過去の問いを解く - 語る、また語る

    気忙しくてしばし関係ないことをしたくなる。勉強をしようとしたのに机を片付けたくなるのと同じである。 と、すごく愛してる人に愛してると言うだけで涙が出る心境について考えていた。もうお分かりの方もいらっしゃるかもしれないが、DREAMS COME TRUEの作品の歌詞である。 この歌が好きだった友人とよく歌いながら下校していたけれど、自分の恋愛はことごとく恋愛までいかず、当てつけに恋愛の曲を遠ざけていたことがあって気持ちが混み合っていたものだった。当然、愛してると言うだけで涙が出る心境なんていくら頭をひねってもわからなかった。 それからこの歌詞を聞く度に、よくわからないんだよなと思いながら二十年以上、これは別れても愛している人のことを歌っているのだと思うようになった。またそれは旅立っていて会えない人ともいえる。好きだったけれど離れていってしまった相手でもある。もうその人がどこにいるかわからない

    過去の問いを解く - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/20
  • お答えすることはできません - 語る、また語る

    触れられたくないことは触れられたくないのである。 自分が伝えたいと思って伝えるのはよいが、不意に尋ねられてなし崩しで伝わったり、噂がまるで事実のようになっていくこともある。 もう少し配慮してほしいといってもそれぞれの言い分もあるだろうから、自分としてできることは聞かれても答えたくないという意思の表示をすることくらいだ。 苦笑いでもよいし、「お答えすることはできません」とか「回答を控えます」のようなことでもいい。フランクな雰囲気であれば「秘密」とかもありだ。 相手は知りたいのだろうなと思って言ったものの、後悔している。 かといって、隠したいけれど知ってほしい気持ちもあって、そうなったのだろうけれど。 心情というものも、白か黒かではっきり分けられるものでもなく、曖昧なものなのである。

    お答えすることはできません - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/19
  • 素直さは、ときに甚く悲しい - 語る、また語る

    何かと予定が続く5月。朝になったら6月になっていてくれないものか。ならないことは知っている。 実家から沢山あるからと、幼いころの写真が届いた。父も母も弟たちも若い。当時の写真に写った子どもたちを見て、何かこの人は好きだった、この人はちょっとみたいな感情がよみがえった。 年中のころ、たしか私は後ろから三番目だった。遠足とか散歩とか、背の順の二人で手をつなぐことがあったのだが、あとの二人のうち前の子どもが、私と手をつなぐこともを頑なに拒んでいた。常にだったのか、手をつなぐことがどのくらいあったかも定かではないが、手をつなぐときには前の私ではなく、一番背の高い後ろの子どもと手をつないでいた。そんなことがあってかなくてか、一番背の高い子は私にやさしかった。どんな風にというと少し困るけれど、一緒に話したりした。自分から人に話しかける子どもでもなく、何なら一言も発さずに幼稚園から帰ってくるような子ども

    素直さは、ときに甚く悲しい - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/17
  • レミオロメン「春景色」~思いが彷徨う~ - 語る、また語る

    週末に天気が崩れ、そのまま月曜になった。雨の後に、強めの風が木々を揺らしている。太陽が恋しいような、しかし晴れて暑いと疎ましいような、しまえずにいる長袖のスウェットをかぶる。 こういう天気というか気温のときは、遠くに住んでいる人たちは今ごろ何をしているだろうかと頭が勝手に動くことがある。 レミオロメンの「春景色」という曲で「会いたい人にいつだって会いに行く」という部分があるのだが、会いたい人にいつでも会えるのは恵まれたことなのだなあと、いったいどのくらいの反芻かわからない。地理も予定も何もかもが小さいところにいたときは、そんなことあたりまえだったけれど、自分の会いたい気持ちだけで友だちの家に伺うような軽快さは、ないといえばないような。 「春景色」は春の嵐のようと配信サイトのコメントにあって、そこまで荒れていたわけではないものの似たような気象のときに「春景色」を聞いていることが、音楽の蓄えの

    レミオロメン「春景色」~思いが彷徨う~ - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/14
  • 趨勢の中にある - 語る、また語る

    小学校五年生くらいのとき、ブラジルからの転校生が三人来た。 私の地元は人口三万人くらいの市であったが、それなりに工業団地のようなものがあり、近くには海を越えてやってきた人たちによって建てられた、赤や青や緑の住宅がわずかに並んでいた。 少ししてから、そのうちの一人の家に行くことがあった。どうしてそんなことができたのかは忘れた。ただ、彼女は週に何回か校内で日語の授業を受けていたから、そのころには少し話せたのかもしれない。子ども同士であったし、遊んだりしているうちに、言葉が通じなくても打ち解けていったようにも思う。彼女は、おとなしいけれど芯の強い姉のような感じがして、一緒にいて居心地がよかった。実際に年上だったが。 ちなみにあとの二人は、踊ることが好きで陽気であったり、バスケットボールが上手でやさしかったりした。 転校生たちは授業中にガムを噛んでいたり、耳にピアスもあいていたけれど、ブラジルで

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    neputa 2024/05/12
  • 背表紙に感情が絡まる - 語る、また語る

    連休になると物を整理したくなるものでもあり、増えていく物に目をやろうとするのもまた連休である。整理することは楽しいのだが、着手するまでが長い。棚にあるとCDの背表紙を見ながら、もう手元になくてもいいものがないか考える。 十年くらい取っておいたがあった。ほんの数秒でもうこれは売ろうと思った。自分は、いらなくなったものは、よほどのものではないかぎり中古品を扱っているお店に売りに行く。オークションとかフリマアプリなどもあるが、売れるまで保管しなければならないのと、出品と発送が煩わしくてやっていない。あまり金額は期待できないが、すぐに物がなくなる方がよいのだ。 さて、その売ることにしたであるが、あなたはこれこれこういう人、というであった。自分がどういう人なのかを、誰かに決めてもらってそれを暮らしの糧のようにしてきたところがあったけれど、もう十分である。これからは別のところで誰かを助けてほし

    背表紙に感情が絡まる - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/11
  • 読んで書いてまた読んでいる - 語る、また語る

    4月はとてもブログを更新していて、少し一息のつもりが、他のブログを読むとまた何か書きたくなってくる。 もの悲しいときに、誰かのブログを読むことがある。それを生業にしている方の書いた小説や随筆や音楽にある言葉だけでなく、親しい人の言葉に助けられるように、遠くにいる専門家より近くにいる友人知人を頼りにするようなものだ。 ブログによるアウトプットは、書いて読まれるまで含めてのアウトプットである気がしてならなくて、そのアウトプットがなされるとまた読むというインプットをしたくなる。とはいえインプットが先かアウトプットが先かについては、やはりインプットが先であると思うから、タイトルにあるように、自分は読んで書いてまた読んでいるわけである。 自分が読むことで誰かのアウトプットに加担し、誰かのインプットが促すものの一つになっているならと勝手に満足している。

    読んで書いてまた読んでいる - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/09
  • 今日の日はさようなら - 語る、また語る

    五年振りに再開した露店で菓子を買い、「また会う日まで」と言って別れた。会話の流れで五年振りだとわかって、もういい年なので来年も来たいがどうだろうということだった。コロナはまあ三年くらいなので、五年というと、もろもろあったのかもしれない。 また会う日まで。 自分がつぶやいた言葉が意外に感じられた。焚き火を囲んで口にした、そんな歌もあった。 いろいろ"おまけ"も付けてもらったことだし、また五月になったら「また来たんですよ」とかいって、相手が覚えてなかったとしても驚かせてみたいものだ。そんなことを思いながら、菓子の袋をぶらさげて歩いて家に帰った。 www.youtube.com

    今日の日はさようなら - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/08
  • Nobody's Perfect - 語る、また語る

    完璧な人はいないということを、英語では「Nobody's Perfect」という。言葉数にしても聞こえにしても、これぞ英語である。読むにも話すにも肯定か否定かすぐにわかる。「いない、完璧な人は」でも意味はわかるけれど、日語としてはあまり聞かれない組み立てだ。終わりまで聞かせる日ののどかな島の感じも好きではあるが。 小さなことにも完璧主義が見え隠れしていて、そこに「Nobody's Perfect」をかぶせてみる。それだけで強さがある。頭で英語の会話をしないから明らかに目立つということもあるが、はじめに書いたように、端的なところが爽快なのだ。 「Nobody's Perfect」とは、カナダの就学前の子を持つ親のための支援プログラムのことでもあるらしい。完璧な親も子もいない、だから助けてもらったり助けたりしようという理念のようだ。とても自分が助けられる言葉である。 www.youtube

    Nobody's Perfect - 語る、また語る
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    neputa 2024/05/05