源頼朝の平家打倒の挙兵に参加して戦功を立てた 元久2(1205)年閏7月、江間(北条)義時は、父・北条時政を伊豆に追放し、北条家を継承した。 時政は、嫡男の北条宗時が石橋山の戦い(1180年)で戦死した後、スムーズに「次男の義時を当主に」と考えていたのではない。北条氏の苗字の地「北条」(静岡県伊豆の国市)の隣地である「江間」を義時は父から与えられていた。つまり、義時は本家である北条家から出されて江間家を継いでいた。 義時は北条家の正当な後継者ではなかったわけだが、その義時が一発逆転、北条氏の惣領となることができたのは、父を追放したからであった。 さて、北条氏は梶原景時、比企能員、畠山重忠といった有力御家人を排除、打倒してきた。では、義時が北条家を継承してから、最初に潰した大物御家人は誰であろうか。それは、和田義盛である。 和田氏は三浦氏の一族で、根拠地は相模国(神奈川県)和田であった。源頼
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