タグ

ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (21)

  • 仮名書きの御内書4 - 我が九条

    私が現在蒐集した仮名書きの御内書は琉球宛の「国書」と呼ぶべき文書を除くと五通。このうち三通は仮名を補助的に使っている程度なので、格的に仮名書きの御内書は今のところ次の二通である。 こんとそうけきにつきて二郎(赤松晴政)のほりてちうせつ候はゝ、しんへうのよし申くたし候。さうさう上らく候やうにいけんをくハへられ候へき事よろこひ入候。かしく あか松うはの局へ あか松こうしつの局へ(赤松政則娘) これを漢字混じりにすると以下の通りになる。 今度忽劇につきて二郎上りて忠節候はば、神妙のよし申し下し候。早々上洛候やうに意見を加へられ候へき事喜び入り候。かしく この文書は年月日を欠くが、収録されている前後の文書から判断すると、大永六年十二月二十七日付の文書である。足利義維擁する細川晴元軍が畿内に進出してくる中で赤松晴政が あふみくつ木にとうりう候。この時へつしてちうせつ候ハゝかんように候。そのためにも

    仮名書きの御内書4 - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2012/08/21
    『足利義晴も御内書を晴政にではなく「あか松うはの局」こと洞松院に発給したのである。「レディサムライ」には仮名書きの御内書が発給されたのだ。』
  • 鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条

    鎌倉幕府の成立年代には大きく分けて7つある。数少ないこのブログの読者ならば何回か読んでいらっしゃると思うし、新たな読者がいるともあまり思えないが、再び。 鎌倉幕府の成立については一一八〇年、一一八三年、一一八四年、一一八五年、一一八九年、一一九〇年、一一九二年の諸説がある。これは例えば学問研究が進んで、新たな史料が発見されればどれか一つに収斂されるのか、と言えば、それはない。何故かといえば、鎌倉幕府の開設年代のズレは、「鎌倉幕府とは何か」という問いに対する解答が異なるからだ。 一一八〇年説を支える史実は「源頼朝が鎌倉に邸宅を構えた」ということである。頼朝の邸宅は単に頼朝が居住するだけではない。頼朝に従う「侍」を管理する機能も持っている。「侍所」というのはある程度の権門勢家ならば備えている機構であって、侍所を備えた邸宅を構える事は、頼朝が鎌倉を中心とする南関東を実力で支配しようとする意思を明

    鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2012/02/27
    『全国紙は意』はタイポでしょ/『つまり「鎌倉幕府」なる実体は存在しないのである』道元が曹洞宗を開いた、なんてのもそうだろうな。法然や親鸞も含めてご当人たちはそんな意識はまるきりなかったと思う
  • 大河ドラマ『平清盛』のツッコミ所 - 我が九条

    「王家がどう」とか「色彩がどう」とかツッコミがあるが、一番のツッコミ所はやはり吹石一恵演じる舞子が院御所で殺されたところだろう。ケガレを極度に忌む彼等が御所内で血を流させるわけはない。吹石一恵が忙しくて初回しか出演できないのであれば、御所の外で殺される、とかやりようはあったはずだ。 かつて『北条時宗』で近衛基平が御所内で自害するシーンがあり、それについて郷和人氏は次のように述べている。 平安末にラーメンが存在したか否か。これは知っている・知らないの問題にすぎない。清盛が白河上皇の落胤か否か。これは学説の分かれるところですので、どちらを採ることも可能です。でも何十年も研鑽を積んでいるはずなのに、天皇や朝廷の質を理解していないとなれば、これは中世史研究者としてのこの上ない恥辱です。関白に御所で切腹させるとは、考証役の私はダメな研究者だと、満天下に広言しているのに等しい。ですから、こうした根

    大河ドラマ『平清盛』のツッコミ所 - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2012/01/12
    『関白に御所で切腹させるとは、考証役の私はダメな研究者だと、満天下に広言しているのに等しい』時代考証に名を連ねる方も大変だ
  • 高岡蒼甫氏ツイート雑感2 - 我が九条

    こんな記事が(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110801-00000008-jct-soci)。そら宮崎あおいさんは火消しに走るのも止むを得ない(笑) 著名人の中でも、高岡さんの主張に共感を示す声も出てきた。 元航空自衛隊幕僚長の田母神俊雄さんは、ツイッターで7月29日、「テレビで韓流ドラマが一日中流れていることに私も違和感を感じています」と明かした。そして、「公共の電波を使って韓国の情報戦略に協力することは止めてもらいたい。しかし、どこからかカネでも出ているのかもしれません」とつぶやいている。 また、元横浜市長の中田宏さんは、ツイッターで、「正論言ってるよね。ずっとそう思ってた。一体どこの国のテレビって感じ」と高岡さんを支持。元国交相の中山成彬さんは、ブログで「乗っ取られているテレビ界の内実を知って我慢ができなかったのでしょう」と書き込み、自民党

    高岡蒼甫氏ツイート雑感2 - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2011/08/04
    共感を示している『著名人』の顔ぶれがなんともはや・・・
  • 中島久万吉商工相辞任事件−北朝抹殺のその後− - 我が九条

    中島久万吉は斎藤実内閣の商工大臣。斎藤実内閣は犬養毅内閣が5・15事件で首班暗殺という事態を受けて組閣された内閣。犬養毅暗殺後は同じ政党の党首が就任する慣例に従って元老西園寺公望は当初は立憲政友会総裁の鈴木喜三郎を首班にしようとしたが、政党政治の継続は当時の政治情勢を考えると、再び軍部によるテロを惹起する危険があった。軍部は検察出身の法務官僚平沼騏一郎を推薦する。しかし西園寺と昭和天皇は平沼のファッショ傾向を嫌い、リベラルで軍部にも抑えの効く人物として、前朝鮮総督で元海軍大臣、海軍予備役大将の斎藤実を首班に指名する。 斎藤実は一旦は国際連盟脱退と満州国承認など、軍部の意向に沿いながら、国際連盟復帰を目指そうとする。その動きに対して様々な政局が仕掛けられた。その一つが中島久万吉がかつて足利尊氏を評価した随筆攻撃である。十三年前の同人誌に掲載された随筆を、講談社の雑誌「現代」が中島に無断で転載

    中島久万吉商工相辞任事件−北朝抹殺のその後− - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2011/06/12
    『そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います』今上陛下の洞察さすが。
  • 北朝の天皇が抹殺されるまで - 我が九条

    明治政府はそのイデオロギー主柱が水戸学であったことが、北朝ではなく、南朝が正統であると考えられた根にあると思われる。江戸幕府の歴史意識では、後醍醐で王朝は終了して武家の世になっているのである。王朝交代の思想に基づけば、南朝正統の方が何かと好都合であった。松平定信の大政委任論から始まって、幕末の政治情勢の中で攘夷を決行できない「征夷大将軍」に対する不満が高まり、「尊王攘夷」から「尊王討幕」へと政治動向が変わり、明治維新に至る。明治維新では水戸学の影響やら、国学、特に大国学(おおくにがく=大国隆正の学派であって、「だいこくがく」ではない。念のため)を中心とする国学がヘゲモニーを一時的に握る。いわゆる祭政一致の段階で、神祇官が太政官の上に置かれた時代である。神武の昔にもどろうとしたらしい。やがて文明開化の中で彼等は非主流派に転落して行くのだが、彼等の思想は民間右翼団体やその影響を受けた地方の保

    北朝の天皇が抹殺されるまで - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2011/06/12
    黄門様の呪いだな。平成の御世なんだからいいかげん自由になった方が。/コメ欄『『大日本史』では神功を歴代に数えていなかった』え?そーなのか。
  • デブの言い訳 - 我が九条

    高血圧治療に乗り出した。デブの「頑張っています」アピールがことごとく粉砕された。事療法は減らした分は覚えても、増えた分は頭から消える。運動療法は頑張った分はアピールしても、さぼった分は抜ける。一週間ならすとあまり増えていない。そういうものらしい。普段の事を一口か二口残す、ということと、毎日の通勤であと十数分歩く領を増やすことが必要なようだ。降圧剤で減らすのは簡単だが、三十年、四十年服用を続けることを考えると金がもったいない、といわれた。とにかく一ヶ月で0.5キロ減らせ、とのこと。

    デブの言い訳 - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2010/09/16
    俺の場合はデブもあるが母方からの遺伝もあってもう17年ARBを飲んでる。結構高くつく。ARBは今のところジェネリックもないし・・・頑張ってください
  • 永福寺の建立事情 - 我が九条

    永福寺の建立事情について、修理の時に北条時頼が述べている。 当寺者、右大将軍、文治五年討取伊予守義顕、又入奥州征伐藤原泰衡、令皈鎌倉給之後、陸奥出羽両国可令知行之由、被蒙勅裁。是依為泰衡管領跡也。而今廻関長東久遠慮給之余、欲宥怨霊。云義顕云泰衡、非指朝敵、只私宿意誅亡之故也。仍其年内被始営作。(『吾鏡』宝治二年二月五日条) 「怨霊を宥めんと欲す」というのは『吾鏡』文治五年十二月九日条では「且宥数万之怨霊」とある。「数万の怨霊」とは言うまでもなく源頼朝のために死に追いやられた人々のことであるが、文治五年十二月というのが、奥州征伐の後のことである。奥州征伐は頼朝にとっては自身の政権の確立のための総仕上げであった。そのために頼義故実(前九年の役での源頼義の行動)を再現し、自身が関東の「王」であることを内外に宣言する行事だったのである。その戦いは即ち治承の自身の挙兵以来の戦いの総仕上げであった

    永福寺の建立事情 - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2010/08/17
    『永福寺の建立事情について、修理の時に北条時頼が述べている』いや、時頼クンこそ自分(及び自分のオヤジ)の犠牲になった方々の御霊を祀るお寺でも建立すべきじゃなかったのかね/あ、建長寺がそうなのか教示感謝
  • 鎮魂の寺院 - 我が九条

    恨みを残した死者は祟る。その祟りを避けるために鎮魂が行われる。 戦没者は自らを死に追いやった国家に祟る。だから祟らないように鎮魂を行う必要があるのである。秋山哲雄氏は『都市鎌倉の中世史』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)で鎌倉に寺院が多い理由を考察しているが、そこで「鎮魂の寺院」について述べている。 円覚寺は「蒙古襲来」で戦死した全ての人々(日・高麗・元・旧南宋など)を、敵味方関係なく鎮魂するために北条時宗が建立した寺院である。永福寺は源平合戦や奥州合戦で戦死した全ての人々(源氏はもとより平家や源義経・藤原泰衡も)を、敵味方関係なく鎮魂するために源頼朝が建立したものであった。宝戒寺は鎌倉で滅亡した得宗家の人々を鎮魂するために後醍醐天皇が建立した寺院である。 秋山氏は次のように指摘する。「鎌倉時代から戦死者の供養は敵味方の区別なく行われていることに現代人は注目しなければなるまい。現代にお

    鎮魂の寺院 - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2010/08/15
    『鎌倉時代から戦死者の供養は敵味方の区別なく行われていることに現代人は注目しなければなるまい。』にゃるほど
  • 保元・平治の乱 - 我が九条

    軍事貴族のプレゼンスが向上するのは、この二つの戦乱である。これを通じて軍事貴族は中央政界における存在感を強めて行く。 藤原忠実の娘の泰子の入内をめぐって白河法皇と鳥羽天皇の関係が疎遠となる。一旦は白河主導で泰子を鳥羽天皇のもとに入内させようとしたが、忠実が断る。にも関わらず、数年後、白河が熊野詣で不在の間に鳥羽天皇主導で泰子入内が計られ、面子を潰された白河は忠実を追放する。これによって摂関が院に従属する存在となったのだが、同時に白河は鳥羽に不信感を抱き、鳥羽は白河に不満をつのらせることになった。 白河は当時19歳の鳥羽天皇を退位させ、自分が認めた顕仁親王を即位させる。崇徳天皇である。鳥羽天皇は白河と崇徳を憎み、『古事談』によれば「叔父御」と崇徳のことを呼んだと言われる。 1129(大治4)年、白河は77歳で死去する。その後、天皇の直系尊属として朝廷の主導権を掌握したのは鳥羽上皇である。11

    保元・平治の乱 - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2010/06/29
    なんせこの辺は馬琴の『弓張月』で得た知識?しかないもんで
  • 院政のはじまりー白河院ー - 我が九条

    院政を始めたのは白河上皇である。白河上皇は子どもに譲位した後、自由な立場から院政を行った。 これがよくなされる説明である。しかし実際にはそれほど単純に院政が成立したわけではない。白河天皇が自分の皇子善仁(たるひと)親王に譲位したその背景には、白河天皇の妄執があった。 発端は後三条天皇親政に遡る。後三条天皇は藤原摂関家を外戚としない天皇であることは、有名である。後三条が実際に院政を行おうとしたか否かについては、議論の分かれるところであるが、後三条の皇位継承計画によれば、とりあえず白河天皇を即位させ、時期が来れば皇族を外戚とする実仁親王を即位させようと考えていたようだ。 白河天皇は自分が愛した賢子の血を引く善仁親王に皇位を継承させたいと考えた。そういう中で皇太弟の実仁親王が死去し、その機を捉えて善仁親王の即位を強行した。堀河天皇である。ここに院政が成立した、と言われる。 しかし白河上皇自身、院

    院政のはじまりー白河院ー - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2010/06/25
    まあ、その当座の御当人としては我が子可愛さや嫉妬やら使命感やらに任せてやった事でも後世からみりゃエポックメーキングてのはあるわな
  • 本村健太郎弁護士の冤罪対策 - 我が九条

    テレビ番組を見ていると村健太郎弁護士が出て来て、法律知識について話していた。その中でなるほどと思ったこと。 痴漢冤罪で自分がやっていないのであれば、駅長室に同行してはダメ、ということらしい。駅長室に行くと、まず警察に突き出され、警察では拘留され、否認しても今の日の刑事裁判は99.9%有罪、否認していても97%有罪という現状では、まず勝ち目はない。やっていないのであれば、速やかに現場を立ち去らなければならない、ということであった。出演者の「免許証などを出せばいいんですよね」という質問に対しては「どうしても出さないと、という雰囲気であれば仕方がない」というニュアンスであった。基的にはそのようなことも必要ないのだろう。それはそうだ。任意同行のレベルだから、応じる義務はない。村弁護士は「話せば分かる、ということはありません。向こうは決めつけてきますから」と注意喚起していた。刑事裁判を多く手

    本村健太郎弁護士の冤罪対策 - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2010/06/23
    お役立ち
  • 権門体制論と天皇制 - 我が九条

    権門体制論それ自体は天皇を【国王】とすることは必ずしも前提としない。だからこそ権門体制論の枠内で天皇ではなく治天を【国王】とする議論も可能なのである。しかし黒田俊雄は断固として天皇を日中世国家の【国王】とすることを譲らない。 これについて次のような意見がある(「唯物史観 | Japanese Medieval History and Literature | 5488」)。 唯物史観を信奉するのに、なぜ権門体制論なの? 権門体制論は、天皇の地位を必要以上に高く評価しているじゃないか。 それは、唯物史観を奉じる研究者が「従三位」とかの位階を授けられてる (そういう人は少なくないそうです)のと同じくらい、ヘンじゃないか。 「唯物史観を信奉するのに、権門体制論」は「自分の思想と研究とが同一のベクトルをもつべきだ」という意見と対立するのだろうか。私はそうは思わない。権門体制論は唯物史観に立脚して

    権門体制論と天皇制 - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2010/06/15
  • 顕密体制論理解のために - 我が九条

    中世における「社会的意識諸形態」を理解するための概念が顕密体制論である。「社会的意識諸形態」とは、イデオロギーと記せば分かりやすいだろう。イデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためのものである。 そのことを頭において郷和人氏の顕密体制論に対する見解をみてみよう。 仏教はそもそも何のためにあるのだろうか。国を鎮護するため?天皇や貴族に日々の安寧をもたらすため? 非常にイデオロギーとしての顕密仏教の特質を押さえた議論である。中世の「実在(ザイン)」においてはまさにそうなのだ。「ザイン」に注目する限り、仏教は鎮護国家のために存在するのであり、王法と仏法は相依相即なのである。そして概念としてもイデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためにある。支配階級との関係で言えば、それが顕密仏教の正統である。顕密仏教の正統に位置づけられるのが、国家鎮護と王法仏法相依

    顕密体制論理解のために - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2010/06/09
    法然や親鸞や道元や日蓮自身は何らかの思想運動をやってる積りはなく、多分衆生救済のため叡山学僧として自分の学んだ事を役立てようとしただけだと思う、その行為の社会/歴史上の意味や役割は別の問題
  • 権門体制論理解のために - 我が九条

    中世における国家体制を説明する概念として「権門体制論」というのがある。大阪大学教授であった黒田俊雄が1963年に「中世の国家と天皇」という論文で提唱した概念である。黒田は権門勢家という概念を用いて、中世における公家政権から武家政権への移行を説明した。黒田によれば公家・武家・そして寺社勢力は相互補完的に権力を行使した、と考えるのである。 これに対する議論はいろいろあるが、私はいずれも権門体制論の基を外したうえで議論されている、と考えている。権門体制論は国家論であるが、それ以上に社会構成体史を前提としている。権門体制論を独立に取り上げても仕方がないのだ。 権門体制論に対する厳しい批判を近年活発に展開している郷和人氏は『天皇の思想』(山川出版、2010年)の中で次のように述べる。 ぼくは言いたかった。あなた(「アカデミズムの総家を自認する出版社の、ある高名な編集者」)が高く評価している

    権門体制論理解のために - 我が九条
  • 「こいつにdisられたら勝ち」の解説(←違) - 我が九条

    昨日のエントリの解説。もともとは千葉県英会話講師殺害遺体遺棄事件の犯人逮捕のニュースをみて、「こいつの弁護きついよな」と思ったのが原型。この案件に関しては「殺人罪」の適用に反対する弁護方針を取らざるを得ないと考えていたから。弁護士としては被疑者が殺意を否認すれば、傷害致死を主張しなければならないだろう。あとは光市母子殺害事件のようなことが起こるかもしれない。それこそ「裁判前から有罪確定。冤罪や暴力が無くならないわけだ。やっていることはレイプ犯と同じ勝手な思いこみによる暴力だな」という弁護士に対して懲戒請求を煽った橋下徹氏及び懲戒請求をして弁護活動を疎外した人々に対する批判としては非常に的確な批判がある。しかしにも関わらず、感情的な厳罰化を主張する声は大きく、下手をすれば懲戒請求が来るかもしれない、という危機感を抱いても不思議ではないだろう。私も「裁判前から有罪確定。冤罪や暴力が無くならない

    「こいつにdisられたら勝ち」の解説(←違) - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2009/12/12
    某大王陛下とか名前が色々浮かんで題名で噴いた
  • 阪神ファンの一番楽しい時期2 - 我が九条

    弱かった時代、シーズンは大体ゴールデンウィークで終わり。あとはエキシビジョン。阪神ファンはFA補強に胸を躍らせた。山沖之彦投手・石嶺和彦選手・星野伸之投手とオリックスから獲得するケースが多かった。名前だけならば清原和博選手が西武を出る時に「縦じまを横じまにしても」とか、巨人で二度目のFAをとったときとか、夢を見たなぁ。江藤智選手も夢を見たなぁ。片岡篤史選手が来たときには一種のフィーバーだった。デイリーの投書欄には「3割30だ」とか。いや、東京ドームをフランチャイズとする日ハム時代も達成していないことを、左打者に不利な甲子園球場をフランチャイズとする阪神で達成できる、と考える方が(以下ry)。結局「五万人を敵に回す」(片岡篤史氏談)結果に終わった。阪神のFAがはまったのはやはり金知憲選手である。よその球団のファンには阪神ファンのFA選手への期待は奇異に映るらしい。確かにFA選手への期待は

    阪神ファンの一番楽しい時期2 - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2009/10/21
    『結局「五万人を敵に回す」(片岡篤史氏談)結果に終わった。』確かに現役晩年のYahoo掲示板阪神トピでは酷い言われようをしてたな。他チームファンながらこりゃねーわと思った
  • 自民党敗北の原因に関する森田実氏の考察 - 我が九条

    自民党の下野の理由に関する森田実氏の見解(「http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C05650.HTML」「http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C05651.HTML」)。なかなか興味深いと思ったので。 森田氏は「自民党はどうなっているのか」ということで「自民党の中枢部で働いている党員」に取材をする。その党員の答え。 【森田】マスコミの世論調査をどうみていたのか。 【A】大多数の党員がそんなはずはないと思い込んでいた。なかには「マスコミはおかしい」「マスコミの世論調査はおわりだ」という人もいた。麻生総理が遊説に行くと多くの人が集まる。このため、総理周辺は国民は麻生総理を支持していると思い込んでいた。総理ご自身、そうだったのではないでしょうか。 これは既視感たっぷり。 さらに 【森田】選挙戦に入ってから、自民党は民主党

    自民党敗北の原因に関する森田実氏の考察 - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2009/09/08
    『自民党はイデオロギーを表面に出して、多くの「本来の保守」にドン引きされた、』敗戦の主因じゃないが最期のトドメ
  • 「知里幸恵日記」を読む・序 - 我が九条

    中途半端にやりはじめて中途半端に終わる恒例の連続もの。今回はどこまで続くか分からないが「知里幸恵日記」を読んでみる。 「知里幸恵日記」は知里幸恵が東京に来てからの日々が描かれている。東京に来たアイヌの少女がどのような思いで東京での日々を過ごしたのか、を考えたい。幸恵が東京に来たのはいうまでもなく金田一京助に誘われたからである。このあたりの考察はすでに多くの先行研究が存在する。 特に金田一と知里姉弟の問題に関しては、知里真志保による師匠の金田一批判があり、それに乗っかる形でのいささか人格攻撃的な、感情的な批判がなされている。しかし知里真志保の金田一批判は、両者、特に知里真志保の金田一への個人的な複雑な思いと無縁ではなく、この師弟の感情のもつれにそれこそ乗じる形での議論は、極めて不毛である、としかいいようがない。 現在の研究水準では、金田一の問題点として挙げられるのが、金田一のアイヌへの関心が

    「知里幸恵日記」を読む・序 - 我が九条
  • 「元寇」は北条軍の侵略に対する自衛戦争(笑) - 我が九条

    もちろんネタ。まじでこれを主張する人がいたらまじで心配(笑)。陰謀脳全開、電波ゆんゆん、反日工作員、何とでもレッテル貼り放題。というかボーガスネタか。 「元寇」というのはもちろん元・高麗連合軍が九州地方に襲来したいわゆる「文永の役」「弘安の役」を中心とする「モンゴル戦争」と現在呼称されている歴史上の事件。元軍が日の領土にやってきて、対馬や壱岐で守備軍を全滅させ、おそらく民間人も多く巻き込まれ、博多が炎上した「文永異国合戦」、博多湾に「元寇防塁」と後世呼称される要塞を構築して元・高麗連合軍を防ぎ、台風によって被害を受けた元・高麗連合軍を追撃して退却せしめた「弘安異国合戦」。何となく「神風」のイメージが強いが、文永異国合戦においては神風の実在が疑問視され、弘安異国合戦でも台風で大きな被害を受けたが、その後の追撃戦も注目される。まぎれもなく日に襲来した元・高麗連合軍が攻撃してきたのであり、明

    「元寇」は北条軍の侵略に対する自衛戦争(笑) - 我が九条
    norton3rd
    norton3rd 2009/06/15
    『北畠親房のような反天皇制サヨクは殲滅されなければならない』し・・・知らんかった