こうした気晴らしは、彼らの立場が永続的でないということの不安から逃れるために行われる。不確実性の高い、競争の激しいサッカーなどのスポーツが好まれるのも、そうした自身の置かれた立場をそこに写し取って見るからである。 アンチノマドはなぜ執拗にノマド批判を繰り広げるのか それにしても、ノマドとして生きることの厳しさを知る人が言うのであればまだしも、ノマドを知らぬ人が、なぜかノマド批判に花を咲かせる。この構造は滑稽ですらある。彼らは、ノマドで生きていく人たちのことが心配で言っているのではない。彼らの本心はそこにはない。彼らはノマドが増えることで、社会や会社の仕組みが揺らぐのを心配しているのであり、またそれによって自分の立場が失われる可能性を危惧しているのである。こうした相手への「愛のあるアドバイス」をかたったノマド批判は、保身のためのものであり、ノマドを謳歌する人への呪詛として語られるのである。
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