4月12日朝、メンフィス・グリズリーズの今季最終戦の2日前に渡邊雄太はグリズリーズの本拠地、フェデックスフォーラムのコートにいた。3月1日の試合を最後にメンタル面の問題から欠場が続いており、3月半ばからはホームゲームでもベンチに座ることもなくなっていたのだが、この日はチームの集合写真撮影のため、久しぶりにチームメイトたちと共にグリズリーズのユニフォームを着た。
アメリカ時間6月30日、NBAのフリーエージェント交渉解禁日を、渡邊雄太はロサンゼルスで迎えた。5年前にNBAに入って以来、渡邊がフリーエージェントとして夏を迎えるのは3度目だが、初日にオファーがもらえる手応えを感じていたのは初めてのことだった。 昨季、ブルックリン・ネッツで過ごしたNBA5シーズン目、特にシーズン前半に、渡邊はNBA選手として自信を得た。リーグでもトップクラスの3ポイントシューターという評価を確立させ、強豪チームのローテーションプレイヤーとして、勝利に貢献できることを証明したのだ。 2月上旬にケビン・デュラントやカイリー・アービングがトレードになったのを境にシーズン後半は出番が減り、チームの成績も低迷するという残念な終わり方だったが、それはチーム事情によるもの。シーズン前半で得た自信は揺らがなかった。3月に話を聞いたときも、「(夏のフリーエージェントは)僕も個人的に楽しみ
「バスケはすっごい、すっごい楽しいです」 明成高校時代にウインターカップ優勝インタビューで八村塁が口にした名言だ。満面の笑みで言ったこの言葉は、日本のバスケットボールファンに大きな印象を残した。 しかし、この1、2年ほど、八村にあまり笑顔が見られなくなっていた。大好きで、楽しいはずのバスケットボールをしているときも、試合後のインタビューでも、チャームポイントのえくぼを見せることが減り、言葉数も少なくなっていった。 目標としていたNBAに入って1年目でコロナ禍という異常事態。想像以上のNBAの過密スケジュール。母国日本で行われた東京五輪のプレッシャー。ワシントン・ウィザーズのチーム編成が変わったことによる役割の変化。勝つより負けることのほうが多いチーム状況。そのどれが原因だったのか、あるいはすべてが重なってのことだったのか、苦しい時期が続いた。東京五輪が終わった後には、「個人的な理由」でシー
「本当はここにユウタ・ワタナベも連れてきたかった」 今秋、さいたまスーパーアリーナでNBAジャパンゲームズが開催され、ゴールデンステイト・ウォリアーズとワシントン・ウィザーズがプレシーズン試合を2試合戦ったとき、来日したウォリアーズの関係者がそう話していた。ウォリアーズは渡邊雄太にトレーニングキャンプ参加の契約をオファーしたのだが、渡邊は同じ契約条件でも、より熱心だと感じたブルックリン・ネッツを選び、ウォリアーズのオファーは断ったのだ。 パスとシュートを主体としたチームバスケットボールと、強固なディフェンスを武器とするウォリアーズは、プレースタイルとしては渡邊に合いそうなチームだ。昨季のチャンピオンという魅力もある。しかし、渡邊はきっぱり「ウォリアーズだけはなかったですね」と言う。 それは、ジャパンゲームズを盛り上げるためのメンバー入りだと見られたくなかったからだった。 「八村塁と渡邊雄太
今シーズンで創設75周年を迎えたNBAと日本との縁は意外と長く、始まりはリーグ創設2シーズン目に遡る。 1947年、日系アメリカ人のワット・ミサカがニューヨーク・ニックスにドラフト指名され、3試合に出場した。その後、1981年には8巡目で岡山恭崇がゴールデンステイト・ウォリアーズに指名された。ただ、当時はプロになるとオリンピックに出られない時代でもあり、岡山はウォリアーズのトレーニングキャンプに参加することはなかった。 そんな細い糸で繋がっていたNBAと日本の縁が、太く、強い繋がりになってきたのはここ30年ぐらいのこと。10年ごとに大きな出来事があり、そのたびに関係は深まってきた。 1990年代にはNHK BSでの試合中継が始まり、ドリームチームやマイケル・ジョーダン人気もあって日本にNBAカルチャーが浸透していった。日本で定期的にジャパンゲームが開催されるようになったのもこの時期からだ。
最後は穏やかな表情だった。 4月29日、日本のメディア向けに行われたシーズン終了のZoom会見に出てきた渡邊雄太(トロント・ラプターズ)は、シーズンを終えた充実感や安堵感からか、穏やかな表情をしていた。 ラプターズは、前日にフィラデルフィア・セブンティシクサーズとのプレイオフ1回戦に敗れ、2021-22シーズンを終えていた。NBA4年目にして初めて経験するプレイオフで、渡邊は4試合に出場したものの、すべて勝敗が決した後の数分のみ。シーズン半ばにローテーション外へと落ちてから悩み、苦しむ日々を送っていたが、最後まで挽回できなかった。 それでも穏やかな表情で会見に現れたのは、苦しんだなりの手応えがあったからだろう。3月に取材したときとは違い、前向きな言葉も多かった。 開幕ロスター入り→ローテーション外 今シーズンは、渡邊にとって長い、長い7カ月だった。自信と不安。充実感とフラストレーション。7
試合が終わり、アリーナの音楽が止まり、スタンドに清掃員が入って喧騒の跡片付けをしている頃、渡邊雄太(トロント・ラプターズ)は試合で流せなかった汗を、ウェイトルームで流していた。 ホームでもアウェイでも、試合で出番がなかったときは、残って練習をするのがルーティンだ。試合中は、いつ名前を呼ばれてもいいようにずっと気持ちを張り、試合が終わると悔しさを封じ込めてトレーニング場に向かう。緊張と失望と、その繰り返しの日々は精神的にかなり厳しいのだと、渡邊はもらした。 NBA4シーズン目の今季、渡邊は32試合に出場し、平均12.6分のプレータイムで、平均4.6得点をあげている(現地3月19日時点)。シーズンに均した数字だけ見るとわからないのだが、実は、これまでで最も波の激しいシーズンを送っている。 シーズン序盤は開幕前からの故障で出遅れたものの、11月下旬の復帰から1月頭まではほぼ毎試合出場し、10分以
「僕は13歳の時からずっとバスケットボールをしてきました。日本にはバスケットボールのシーズンというものはなくて、1年中プレーしています。オフシーズンがなかったんです。(ゴンザガ)大学に入ってからも、夏には日本代表で活動していて、去年もシーズン後に日本に戻り、(東京オリンピックで)代表としてプレーしました。きつかったです」 1月9日、今季デビュー戦となったオーランド・マジック戦の後に、八村塁(ワシントン・ウィザーズ)が語った言葉だ。 “個人的な理由”のためにチームへの合流が遅れ、今シーズン前半を欠場した八村は、「子供のときからずっとクレイジーな感じでやってきて、休みが必要でした」とも語っている。詳細への言及は避けたが、最近3年だけ考えてもNBA入り、FIBAワールドカップ、東京オリンピックと大きな出来事がいくつも続き、さらにそれらをコロナ禍という変則的な状況に中で過ごしたことも影響したことは
「僕は、日本のハーフの子供たちのためにプレーしたい」 八村塁は、最近、いくつかのアメリカの媒体の取材に答えて、そう話している。西アフリカの国、ベナン出身の父と日本人の母の血を継ぐハーフとして、同じようなハーフの子供たちのロールモデルとなると自ら宣言したのだった。 それで思い出したことがあった。4年前、まだ八村が仙台の明成高校にいたときのこと。夏に日本代表に参加していた彼を取材させてもらったことがあった。バスケットボールを始めたいきさつや、代表活動の経験、アメリカやNCAAに対する思いなどを聞いた後で、高校生に聞くには少し繊細な話題かと思いながらも、ハーフであることで苦労したことがあるか尋ねてみた。 「ハーフで苦労したことはない」 すると、八村はあっけらかんと「(苦労したことは)ないです。絶対にハーフでよかったです。それは、もう言い切れます」と、きっぱりと断言したのだ。 「こういう、いい身体
渡邊雄太のNBA初得点は、フリースローだった。 10月27日、メンフィス・グリズリーズ対フェニックス・サンズ戦。グリズリーズの2ウェイ契約選手の渡邊は、4Q残り4分31秒に交代で出場してコートに立ち、正式にNBA選手となった。田臥勇太が2004年11月と12月に合計4試合に出場して以来、実に14年ぶりの日本人NBA選手の誕生だ。 その渡邊の最初の得点機会は、残り1分36秒にやってきた。自分より13cm背が低いトロイ・ダニエルズ(サンズ)にマッチアップされた渡邊は、そのミスマッチを突き、アグレッシブに攻めた。スピンムーブからのシュートで相手のファウルを誘い、フリースローラインに立った。 すでにグリズリーズが22点の大量リードを取っており、勝敗を左右するような場面ではなかった。それでも、やることはいつもと変わらない。ドリブルを2回つき、ボールを回して手の中に収め、顔の前に構える。曲げた膝を伸ば
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