【望郷の鐘】は今も 中国残留孤児の父と呼ばれた山本慈昭さんは、阿智村・長岳寺の住職で 国民学校教員でした。阿智村の開拓団員215名、妻と二人の娘と共に、 満蒙開拓団・国民学校長として満州にわたったのが苦難の始まりでした。 時は、昭和20年(1945)終戦の年です。 阿智村・長岳寺 🚠 阿智村長岳寺 武田信玄は野田城の戦いで病に倒れ、甲斐への帰国途中亡くなった。 その場所が阿智村で、遺骸を安置したのが、この長岳寺です(遺品の展示あり)。 『騙す者と騙される者が揃わなかったら戦争は起きなかった』 記録を見る。阿智村開拓団が満州にわたって、3か月でソ連軍の侵攻が 始まり、逃げまどう。このタイミングって、どういう事? 山本慈昭(じしょう)さんは、逃避行中に妻子と離別、シベリアへ抑留となった。 2年後に帰国できたが、一緒に満州へわたった仲間・215人のうち 帰国できたのは、山本慈昭さんを含めて、た