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ブックマーク / someru.blog74.fc2.com (10)

  • Hang Reviewers High / ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

    さて、劇場で見てから一ヶ月以上経って、ようやく「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」について書くことができる。この一ヶ月の間に「破」については多くの意見が交換されたと思うが、僕は忙しくてあんまり見ていない。でも二次創作的だと言われているという意見をちらりと伝え聞いて、これはそんなに単純なものではないだろうと思った。では何なのか。それを、例によって今からこの文章を書きながら、考えてみたい。ただまあ、おそらく、僕の意見はこの作品を見た一ヶ月前から変わっていない。最初に僕が思ったのは鶴巻和哉がやってくれたんだということで、これは当にすごい作品だ、ということだ。 「破」が二次創作的だという意見に対して、僕は「序」が既にそうだったというしかない。「rebuild」の「re」に込められていた反復の含意はそういうことである。旧エヴァという母体を王道の物語へと焼き直す態度はそうであった。さらに、もともと旧エヴ

  • Hang Reviewers High / 相対性理論「ハイファイ新書」

    ずいぶん急な話で申し訳ないのですが、告知があります。日2009年1月25日(日)深夜25時30分よりTBSラジオの「文化系トークラジオ Life」にゲストで出演します。レギュラーの出演者はcharlieこと鈴木謙介さん、佐々木敦さん、津田大介さん、斎藤哲也さんです。津田さんにお会いするのは1年くらいぶりだろうか。テーマは「未知との遭遇2009」となっていて、僕はこのブログの内容に似通った話をするかもしれません。テーマや出演者にご興味を持たれた方、良かったら聴いてみてください。放送後に、ポッドキャスト配信によるダウンロードもたぶんできると思います。詳しくは番組ホームページでどうぞ。 と、大事な用があるときに限って風邪をひく。熱が出て喉が痛く、身体がだるい。最悪だ。 あと相対性理論「ハイファイ新書」も発売日には聴いていたのに、ここに書こうと思いながらこんなに時間が経ってしまった。聴いて、まず

  • Hang Reviewers High / ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

    速水健朗「ケータイ小説的。」は、僕が読んだここ1年ほどに上梓された批評に類する文章のうちで、最も面白い。ひょっとすると、ここ数年で最も面白いものの1つだと言っていい。 僕が書を高く評価する理由の最たるものは、これが単にケータイ小説というジャンルを批評したものだから、ということではない。それよりもむしろこのが、正しく批評であろうとしているからなのだ。速水健朗は、例えば、ケータイ小説を擁護するために、つまりそれを愛する人々が属するコミュニティの代表者としてなど、書を記述してはいない。同時に、彼はケータイ小説など唾棄すべきだという理由では書を書いていない。彼が書を記述しようとする動機はただ、次のようなものである。すなわち、今ケータイ小説は現代の日の社会にとって無視できない程度の支持を集めている。端的に言えば市場において十分に売れている。にもかかわらず、それは多くの論者によって無視され

  • Hang Reviewers High / 思想地図 vol.1

    「思想地図 vol.1」において、個人的に面白かったのは福嶋亮大による中国ライトノベル状況に関する考察と、韓東賢による「朝鮮学校はヤバい」という伝説から始まる議論だった。前者は僕がしばしば好む「自分の知らないところで何かが起こっている」ということについてのレポートであり、後者は90年代に社会学を楽しんだ僕としては見逃すことのできない現代のフォークロアから始まる話だったので、楽しかったのだ。 しかし最も考えさせられたのは黒瀬陽平による公募論文だった。僕はここで彼が書いているアニメ表現論は優れたものだと思うし、いま書かれるべきものとして正しいと思う。しかし、僕が注目させられたのは彼が自ら表現論を展開する動機として書いている内容だった。それは、現在のアニメ批評に表現論がなく、物語論だけが氾濫しているため「萌えアニメ」のようなものを扱えずに批評は停滞しているのではないかというものだ。黒瀬陽平の整

  • Hang Reviewers High / 新現実 Vol.1

    先日、SFマガジン6月号で連載が終了した宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて一気読みした。彼の展開する議論には、僕にとって賛同できるいくつかの部分と、そうでないいくつかの部分がある。それについて、まず一点を僕が思う状況を整理しながら考えてみたい。 彼の主張は、まず「90年代の『引きこもり』」があり、2000年代前半に「エヴァ」的感性の延長線上、あるいは残滓であるセカイ系があり、そしてゼロ年代においては 社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築しようといこうとする という、「DEATH NOTE」の夜神月に象徴される「決断主義」が来るという一連のフィクションの流れがあったという。 僕は現在、彼の言う「決断主義」のようなものがゼロ年代のフィクションとして大きく特徴付けられるという主張に異論がない(なお参考までに記しておくと、彼の主張は

  • Hang Reviewers High / 相対性理論「シフォン主義」

    「オルタナティブ」「ミクスチャー」「アブストラクト」などの言葉を「ジャンル」として認めたときから、音楽の世界では既にすべてのジャンルが相対化されていた。もっと前、その前から、DJではない、単なるリスナーが、そしてミュージシャンが、レコード箱を漁って音楽のシーケンシャルな進化を退けたときから、そうなっていた。「レア」とか「グルーヴ」という言葉で価値は順位づけられていたが、「オルタナティブ」や「ミクスチャー」以降の世界では、それすら意味を持たなくなった。サブカルチャーの分野では、おそらく、音楽には最も速く、早く、すべては相対化された。ファッションは、長きにわたって音楽の動きを観察し、それをモードとして採り入れ続けたが、やがてそれがすべてが等価になるということを意味するのだということがはっきりする頃から、それをやめたのだ。 相対性理論がなぜよいのか、ということについてずっと考えている。相対性理論

  • Hang Reviewers High / ユリイカ 第40巻第5号

    「ユリイカ」にて宇多田ヒカルの歌詞について書いた文章のことを、ここに書こうと思っている間に次の号が出てしまった。そうこうしているあいだに、もうすぐさらにその次の号が出るという。 今売っている号では、僕が「空の境界」について作者の奈須きのこさんに去年の夏行ったインタビューを掲載していただいている。これは僕が初めて奈須さんにお会いしてお話を伺ったときのもので、今になって読んでみるとずいぶん読者としての自分の思いが先走った部分がたくさんあって恥ずかしい。だからインタビューなのにやけに僕が話している部分が多い。何とも恥ずかしいが、時間が経っていることもあって修復のしようがないのでそのまま当時の理解を伝えるものとして掲載していただいた。 しかし見方を変えれば、このインタビューは、僕が現在、全七回上映される映画のパンフレットの中で七回に渡って奈須さんにインタビューを行えることになったきっかけになったも

  • Hang Reviewers High / パンドラVol.1 SIDEーB

    パンドラをフレッシュネスバーガーで6時間ぐらいかけて読んだ。SIDE-Aのときも思ったけど、雑多さがある。「ファウスト」は太田さんが「ひとり編集部」ということにこだわったせいかわからないけど、号を重ねるごとの変遷はあれども「太田さんはコレが見せたいのね」という統一感があった。しかしパンドラは分厚い中にいろんなものが入っているという印象。正直な話、なぜ載ってるのか僕には理解できないモノもある。だが、断じて言わねばならない。それは悪い意味ではないのである。僕は実際、雑誌としてはそういうものの方が好きなのだ。 個人誌に近いコンセプチュアルな雑誌は美しくて大好きだけど、雑誌というメディアを楽しむなら雑多すぎるほどに雑多な方が好きだ。誰か一人が凛として主張するのではなく、編集部全員が「世の中、いろいろと大変なことになってるんですよ!」と大騒ぎしているのが雑誌の醍醐味だと思う。だからパンドラは読んでい

    onanieCEO
    onanieCEO 2008/04/09
    「アンディー・メンテのじすさんが流水大賞」「僕の好きだった、あの、インターネット。」
  • Hang Reviewers High / モーニング 2007 NO.50

    先日、ある雑誌の編集者の方に「2008年に新たに注目されるコミック作家は誰だと思いますか?」と問われて、僕が挙げたのは水上悟志と福満しげゆきだった。水上悟志については、「惑星のさみだれ」がどんなに少なく見積もってもアニメ化ぐらいはされるに決まっていると信じているのだが、福満しげゆきについては、ちょうどその質問をされたときに出ていたモーニングの「僕の小規模な生活」に この漫画は、あと3回で終わります。「続けろ」とおっしゃっていただければ続ける覚悟はできております。 と書かれていて、それが大変気になっていたからだった。だからほとんど、注目されてほしい、そうあってほしいという気持ちから彼の名前を挙げたのかもしれない。でも結局そのことはしばらく忘れていて、それで今週モーニングを立ち読みしたら、このマンガは最終回だった。終わることが告知されてから、欄外には読者から寄せられたコメントがたくさん載ってい

  • Hang Reviewers High / SFマガジン 2007年 07月号

    別に映画が公開されるからというわけではないが、最初に少しだけ「新世紀エヴァンゲリオン」の話が必要だ。95年に放送されたあの作品は様々な問題提起を行ったが、当時僕が一番高く評価したのは物語が成立困難になってしまったということをはっきりと示したことである。あの作品はあらゆる物語としてのお約束を意識しつつ演出されながら、しかし主人公がロボットに乗る積極性すら獲得できない。作品にエンドマークがうたれても、作中人物は何らかの結論を視聴者に提供しない。むしろ結論を提供することができないという結論が提供される。 すべてはリアリズムの問題なのだと思う。90年代には(もとを正せば60年代から意識されていたことだが)フィクションが質的に現実ではあり得ないということが広く一般に意識されすぎた。要するにどんなヒーローも現実としては不自然である。絵空事であって、現実の問題解決の役にたちはしない。分かりやすい結論な

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