垂直に偏光した光に対するハイディンガーのブラシのイメージ。 大きさと濃さは強調されている。 ハイディンガーのブラシ (Haidinger's brush) は内視現象のひとつで、偏光している可視光を見たときにヒトの視野の中心部にかすかに現れる束状の模様をいう。 横波である光は、電場・磁場がある方向に振動している。 太陽光のような一般的光はこの振動方向がさまざまに入り混じったものだが、青空や反射光はある特定の方向へと振動が偏った偏光した光である。 一部の渡り鳥や昆虫の眼はこの偏光した光の振動方向を感じとる力があり、太陽が直接見えなくても青空の偏光によって方角を知る手掛かりとしている。 また、タコやイカの眼にも偏光を感知する力があることが知られている。 ヒトには通常こうした偏光を感じとる力がないと思われがちだが、実はヒトの眼も光の偏光がわかる。 偏光した光をよく観察するとハイディンガーのブラシ
眠ることと死ぬことは、意識が無くなる、という点においては同じではないでしょうか? このことに関して、たいていの方は否定されるのですが、 これがいまだに良くわかりません。 質問① 客観的には、睡眠では、脳や身体は生きているのですから、死とは違います。 しかし主観的には、「私」の意識は途切れるのですから、死と同じではないですか? 質問② 以下では、主観的意識の上では、眠りと死は同じ現象だと仮定します。 私は死について考えると怖くてしかたがなくなります。 しかし、眠るときはべつに怖くないですよね。 この違いは何でしょうか。 回答案1 眠るときは、また目覚めることが出来るのだという確信があるのだから怖くない。 ・・ということは、死後の生がある。あるいは死んだ後もまた生まれ変わる、という確信があれば、死は怖くないのでしょうか? 回答案2 眠るときは、眠気に襲われて、いつの間にか意識が途切れるので怖が
素朴実在論(そぼくじつざいろん、英:Naïve realism)とは、実在論の一形態で「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」とする考え方のことである[1]。 子供などが持っている素朴な実在論である。 「道路上に水がある」 「トンネルのむこうに川と木がある」 この実在観の例をあげると、例えば、木の葉を見て、ミドリの葉が実在していると思ったりすることである[1]。 また、例えば右のような場面において「水がある」と思ったり、「トンネルのむこうに川と木がある」と思うのも素朴実在論と言える。 素朴実在論が哲学者によって未熟だと烙印を押されるのは、一つには、上の木の葉の例で言えば、木の葉は夕日の中や薄暗がりの中では黒かったりし、ミドリ色として決まっている木の葉があるわけではない、ということからでもある[1]。 人間というのは素朴な状態なままだと、自分が肉眼で感じられた内容をそのまま
鈴木俊貴 白眉センター特定助教らの研究グループは、鳥類の1種であるシジュウカラにおいて、2つの連続する鳴き声を1つのまとまりとして認識する能力を実験的に確認しました。 ヒトの多彩な言語表現は、2つの要素を1つにまとめる力のもとに成り立ちます。例えば、「小さくて黒い犬」という表現は、「小さくて」と「黒い犬」が1つにまとまったものであり、そのうち「黒い犬」は、「黒い」と「犬」が1つにまとまった表現です。このように、2語を1つのまとまりとして認識する能力は、言語学では併合(Merge)と呼ばれ、ヒトの言語の核であると考えられています。 シジュウカラは、仲間と共に天敵を追い払うための号令として、警戒声と集合声を連ねて鳴きます。この音列を1つの音源(1羽を想定)から再生すると、それを聴いたシジュウカラは天敵を追い払うために集まります。しかし、警戒声と集合声を2つの音源(2羽を想定)から別々に聴かせる
ワシリー・ワシリエヴィッチ・カンディンスキー(1866年12月4日-1944年12月13日)はロシアの画家、美術理論家。美術史においてカンディンスキーは、ピエト・モンドリアンやカジミール・マレーヴィチとともに純粋抽象絵画の理論の創始者として知られている。代表的著作は抽象芸術を理論化した『芸術における精神的なもの』。 カンディンスキーはモスクワで生まれ、オデッサで子ども時代を過ごし、グレコフ・オデッサ美術大学に入学する。卒業後にモスクワ大学に入学し、法律と経済を学び、タルトゥ大学でローマ法に関する教授職を受け持っていたが、教職を捨て30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始める。 1896年にカンディンスキーはミュンヘンに移る。アントン・アズべの私立学校で美術を学び、次いでミュンヘン美術院で学ぶ。1911年にはフランツ・マルクとともに「青騎士」を結成し、ドイツの前衛芸術運動で活躍しはじめる。 カン
存在者の第一の特徴は、他と区別できることだと思います。人間は犬と区別でき、犬は猫と区別でき、生物は無生物と区別できる。他と区別できるということは、その者がある領域に限定されていることだと考えます。すなわち、空間的(物理的な意味だけではなく、論理的な意味も含めて)に有限であるということです。 また、存在者の第二の特徴は、生成され、構成され、消滅するものであると言えます。人は生まれ、成長と共に形作られ、やがて、消滅する。星も生成し、発展し、やがて消滅する。このように時間的有限性の中にあると考えられます。 それに対して、「存在」は、全ての「存在者」の前提であり、それ自身は、決して限定されることなく、空間的時間的に無限です。なぜならば、もし、「存在」が限定された何かであるとすると、その限定された何かは、既に「存在者」であり、その存在者の外に別の何かを想定しなければならなくなるからです。 「存在」自
ジョン・デューイ、エトムント・フッサール、F.C.S.シラーFerdinand Canning Scott Schiller、アンリ・ベルクソン、ジョージ・サンタヤーナ、ヒラリー・パトナム、リチャード・ローティ、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、モリス・ラファエル・コーエン、エミール・デュルケーム、W・E・B・デュボイス、バートランド・ラッセル、エドウィン・ホルト、ジミー・カーターなど ウィリアム・ジェームズ(英語: William James, 1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』や、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。
「容疑者は『殺したのは私ではない』などと容疑を否認しています」 上の文を読んだとき、容疑者にどのような印象を抱いただろうか。「本当はお前がやったに違いない」という印象を抱いたのではないだろうか。 では次の文ではどうか。 「容疑者は『殺したのは私ではない』と容疑を否認しています」 この文を読んだときは「ふーん、犯人はこいつではないのかな?」と、先ほどと比べると、容疑者を犯人と決めつける確度が小さい印象を抱いたのではないだろうか。 こうなる理由は、「など」を使うと言外の意味を読み取る余地を与えるからだ。 文脈とも相まって、前者の文の場合には「容疑者は他に何かを(容疑者に不利なことを)言っていたんじゃないのか」という類推の余地を与える。 たとえば、「矛盾した言い訳」や「明らかにお前がやっただろうというような状況の供述」などだ。 もちろんそんなことは文からは読み取れない。 でも人はお気持ち類推する
ドナルド・ウィニコットから訓練分析を受けた。レインは1950年代末から1960年代にかけて、統合失調症(旧名「精神分裂病」)の患者を入院治療によって隔離・回復させようという当時の主流の精神医学を批判し、むしろ地域に解放し、地域の側の認識を変容させることで治癒させることをめざす「反精神医学、anti-psychiatry」運動を提唱・展開した。裕福な私財を投じて医師と患者の共同住居を設け、生活と一体化した治療活動を行った。デヴィッド・クーパーとともに反精神医学運動の主導者とみなされている。この運動はまた、のちの家族療法や、『アンチ・オイディプス』などを書いたフェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズなどにも影響を与えた。当時活発であった実存主義の哲学者サルトルらとの交流も深く、それまでの精神科医の多くと異なり、病的行動から、患者の実存的境地・意味を理解しようと努めた。 レインは、生物学的または精
ラファエロ作『アテナイの学堂』に見るヘラクレイトス・中央の階段左付近で考え事をしている。ただ人物のモデルは、ミケランジェロといわれている。 ヘラクレイトス(希: Ἡράκλειτος, Hērakleitos、 紀元前540年頃 - 紀元前480年頃? (ヘラクリタスとも)は、古代ギリシアの哲学者、自然哲学者。 エフェソスで生まれたとされている。王族の家系に生まれたという説があるが詳細は不明である。父はブロソン(ブリュソン)またはヘラコン(ヘラキス)という。ヘラクレイトスがエペソスの貴族階級に属したことはおそらく間違いがない。政治に関しては民主制を軽蔑し、貴族制の立場を取った。誇り高い性格の持ち主で、友人のヘルモドロスがエペソスの民衆により追放されたことに怒り、政治から手を引いた。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、のちにエペソスの人は国法の制定をヘラクレイトスに委託したが、ヘラクレイト
京都の河井寛次郎記念館 渋み(しぶみ)は味を分類する概念の一つ。また、日本の伝統的な美意識の一つでもある。 概要[編集] 渋みは、柿の渋のような味を表す。華やかでなく落ち着いた趣がある。地味で深い味わいを指す。したがって、食品を味わう味を分類する概念とされる。また、美術・工芸を表現する概念でもある。「渋い」と形容し、接尾語「さ」により「渋さ」と体言化する。 渋み物質と感覚[編集] 渋柿 渋味物質は、主にアルミニウム、亜鉛、クロームのような多価の金属イオン、植物タンニン、エチルアルコール、アセトンのような脱水性溶媒、ハロゲン化酢酸を含む酸類の4種に大別される味というが、五基本味ではなく触覚に近い感覚という[1]。 渋みと苦みは異なるものであり、例えば、柿渋の渋みはタンニン、茶葉の渋みはカテキン、苦みはカフェインによるものである[2][3]。 渋味は、味を分類する概念のひとつと考えられている。
甘味・うま味・苦味・塩味・酸味の五基本味に加え、近年新たに着目、定義された第六の味覚とされる。具体的には、食材に含まれるタンパク質が発酵や熟成、長時間の加熱(煮込む)などされる事で構成要素であるアミノ酸の鎖状結合がさらに細かいペプタイド(ペプチド)へと分解され、それらがメイラード反応(調理反応)を経ることで「こく味」を生み出す[1]。濃厚感や後味の持続性をもたらすのが特徴で、さらに食材が持つ香りや食感などが加わることで複雑な味の広がりをもたらす[2]。「おいしい」と感じられる食品の中にも、果実などコク味の少ないものもあり、「おいしさ」とコク味は必ずしも同義ではない。主観的評価である「おいしさ」に対し、「コク」は客観的評価に基づく数値化が可能である[3]。一般に好ましい感覚として捉えられ、転じて「コクのある演技」「人生のコクを感じる」などといった使い方もされる[4]。 「濃く」あるいは中国で
2018年12月17日10:02 カテゴリ 法則に従わない色混合 絵の具やインクなどは、顕色系(着色した色票を三属性に基づいて色記号や番号などで定量的に表す方法)であるが、通常の概念とは異なりこれらの色混合は減法混色という原理・原則に従わない。以下、それらの理論的背景について述べる。 <混色の基本的な考え方> 色は「光」と「物体」と「目」(見えの三要素)があれば見ることが出来る。また、光は波長ごとの特有の色を持っており、人間が見ている7色の虹などは分光された光が含まれる色情報そのものである。更に、カラーテレビで見ている色も光の色といえる。現在見ている光の色は、それぞれの色光を混ぜて各々の三刺激値が加算された刺激になって作用する。(図1参照) このように混色によって刺激が強くなるものを加法混色と呼ぶ。一方、色フィルタを重ね合わせる場合は、光の透過が減少する。このような混色は減法混色と呼ばれ、
このページではMathJaxによる数式表示を行っています。対応しているブラウザーであれば少し待てば数式が表示されます。 (画面左下にMathJaxのタイプセットステータスが表示されます。) 環境によっては表示が崩れているかもしれません。その際はブラウザーを変更してみてください。 人間が知覚可能な色の大部分はRGB三原色の組み合わせで表現することが可能です。しかし現実の光はスペクトラムと呼ばれる、様々な波長の光の合成となっており、3種類の光があるわけではありません。このページでは、スペクトラムとは何かといった簡単な説明、人間の知覚、スペクトラムとRGBの関係やそれらの変換方法などについて解説します。 スペクトラム(spectrum) 光は電磁波の一種で、波長の違いが人間にとって「色」として知覚されることは教科書にも載ってたりして割と有名なことだと思います。人間が知覚できる波長の電磁波は可視光
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