肩のこらない短い物語が読みたくなって、本書を買ってきた。冒頭に収められたのは昭和二十六年のデビュー作「西郷札」である。松本清張といえば推理物だから、歴史物らしいこの作品はこれまで敬遠していたが、せっかくなので今回初めて読んでみた。面白い。世界的な財政危機をきっかけに、カネが紙くずになるとはどういうことかに関心をもつ人が増えていると思うが、そういう人にはとくにおすすめだ。 西郷札(さいごうさつ)とは、明治十年の西南戦争に際し、西郷隆盛率いる薩軍が発行した紙幣のことだ。薩軍が熊本で官軍に敗れ、宮崎まで撤退したところで、近在の商人や農家から物資を調達するため発行した。十円、五円、一円、五十銭、二十銭、十銭の六種があったが、十銭、二十銭札はともかく、五円、十円という高額札になると、皆それを受け取ることを渋ったという。それはそうだろう。敗色濃厚な薩軍が発行元のうえ、金や銀と引き換えることのできない不
ペットボトルの炭酸水は開封せずとも保存しておくと次第にペットボトル表面から炭酸が抜けて、炭酸は持続しません。 一か月も保管して置くと、多くの場合もはや強炭酸ではなくなってしまいます。 なるべく長期間強炭酸を楽しめるようにするためには以下のことに気を使うとよいと考えられます。 1、保管は冷暗所。 2、製造時の炭酸圧の高いものにする。(ガスボリューム(GV)値の大きい炭酸水) 3、ボトルの表面積/容積の小さい形状の容器を選ぶ。(容量の大きくて、丸っこい容器のものを選ぶ) 4、高品質のボトルを選ぶ(厚いボトル、積層ボトル) 5、製造から時間の経っていない商品を選ぶ(回転の良い売れ筋商品を選ぶ) などですが、製造時の炭酸量(GV値)は公表されていなかったり、製造から時間経過でどの程度炭酸が抜けるのかよくわかりません。 そこで、経時的な炭酸の変化の測定をしてみました。また、容器も調べてみました。 対
ツッコミどころを三点だけ挙げる。 その一。悪徳社長が経営する工場。病弱な爺さんの作業がのろいと言って、現場監督が棒でぶん殴る。爺さん、息も絶え絶えに作業を続ける。何を作っているか知らないが、そんな状態でやらせたら、不良品続出で会社はたちまち損をしてしまうはずだ。こんなことが許されるのは、どう考えても利益を重視する資本主義国の工場ではなく、ソ連かどこかの強制収容所だろう。 その二。同じ工場。爺さん、立ちっぱなしの作業に耐えられず、とうとうクビに。その代わりとして「外にいるホームレスを適当に拾ってこい。少し飯をやれば動けるはずだからな」と悪徳社長。それなら最初から作業員を全員弱ったホームレスにすればよいではないか。人件費は安く上がるし、反抗的な若い男どもを雇うより労務管理も楽なはずだ(事実この直後、労働者たちは反乱を起こす)。 その三。革命指導者ノーマン、労働者のユートピアのような「社会主義の
政府は政治的目的を達するために、しばしば経済に介入する。しかし政府が介入すればするほど、経済の働きを歪める。その結果、政府は目的を果たせないばかりか、思わぬ副作用を惹き起こす。それを抑え込もうと介入を強めれば、さらなる副作用をもたらす悪循環に陥る。 政府の介入が最もはなはだしいのは戦時である。戦争に勝つために国家の総力をあげるという大義名分の下、経済を厳しく統制する。しかし国民生活に不便を強いると反発を招くし、統制の及ばない領域もある。そこで国民を煽動・洗脳して協力を促す必要が出てくる。そのための手段の一つがスローガン(標語)だ。本書には、政府やその関係団体などが昭和戦前期、国民を煽動・洗脳するためにこしらえた標語が年代順に収められている。 戦時国策スローガンはその性格上、勇ましいものばかりだが、背景にある経済事情を知ると、経済を思いどおりにできない政府の焦りが透けて見える。以下、いくつか
憲法は国の最高法規だから、国民みんなが守らなければならない――。そう誤解している人は、いわゆる知識人の中にも少なくない。つい'先日も朝日新聞の記者がツイッターで「憲法を守らなあかんのは国民やなくて権力者」と書いたところ、ある経済学者が「国民は憲法を守らなくてもいいって? このアカウントは本当に朝日新聞の記者が書いてるのか?」とあざ笑ってみせた。もちろん、笑われるべきはこの経済学者のほうだ。その理由は、本書を読めばよくわかる。 本書は日本国憲法の条文暗唱という特技をもつ高校生アイドル(AKB48の内山奈月、現在は大学生)が憲法学者(九州大学准教授の南野森)から受けたマンツーマンの講義を、憲法入門書としてまとめたものだ。どうせありふれた解説を対話形式にしただけのアイドル本だろうと高をくくってページを繰ると、その深みのある内容に驚く。南野がまえがきで述べるように、すべての論点をもれなく均等に、そ
リバタリアニズムという思想の魅力はなにか。それは論理的な首尾一貫性を徹底して貫くところにある。その魅力を本書は数多くの愉快な具体例とともに、わかりやすく教えてくれる。 リバタリアニズムの原理原則は「だれの権利も侵害していないものに対する権利の侵害は正当化できない」(56頁)ということである。権利の侵害とは、具体的にいうと、殺人や強姦、強盗や誘拐といった暴力の行使である。平和主義ではなく、正当防衛にともなう暴力や、暴力にたいする報復は認める。つまりリバタリアニズムは「人をいきなり殴りつけること」のみを、すなわち非暴力的な人物、もしくはその財産にたいする暴力の行使のみを強く批判するのである(57頁)。 この原則に異論を唱える人は少ないだろう。正義についてのこの考え方は「西洋文明をかたちづくる本質の一部」であり、現在では西洋のみならず、日本を含む世界のさまざまな法に刻まれている。 基本となる原理
著者は、社会保障の維持には消費増税が避けられないとする財務省の主張を「脅し」だと批判する。これはいいぞ、著者はどちらかというと「小さな政府」の支持者だから、きっと非効率で弱者救済に役立たない社会保障の縮小と民営化により、増税を阻止せよと訴えるに違いない。そう期待して読み進めると、見事に裏切られることになる。 著者が消費増税の代わりに提唱するのは、マイナンバー制の導入と、国税庁と年金機構を一本化した歳入庁の創設である(chapter 1)。現在、税も社会保険料もかなりの徴税漏れがある。日本年金機構は年間十二兆円もの保険料収入漏れがあると考えられているし、所得税もサラリーマン、自営業、農家で課税対象の把握が不公平な「クロヨン」への批判が根強い。マイナンバーと歳入庁により「税・社会保険料の徴収漏れを解消することで、税・社会保険料の収入増にもなるし行政改革にもなる」と著者は自画自賛する。 しかしよ
戦前の政治家、高橋是清を崇める声が政治家や言論人の間で高まっている。高橋が主導した大幅な金融緩和や積極財政は、日本経済を昭和初期の恐慌から救ったとされる。しかしこれは誤りである。現在のアベノミクスの先駆けである高橋の政策は、その場しのぎのモルヒネと同じで、経済問題の本質を何も解決しなかった。それどころか軍部の暴走を財政的に支援し、日本を破滅に追いやる手助けをしたのである。 出版界でも高橋を持ち上げる本が相次ぐなかで、本書は高橋への厳しい批判を含む貴重な本である。経済学者で明治大学教授の著者は冒頭で、安倍晋三内閣が打ち出した「大胆な」金融緩和について「政府は、財政的に苦しいときに、マネーを生み出す『打ち出の小槌』に手をかける。それにより、経済は大混乱に陥る。そして、そのたびに国民は痛い目にあう」(4頁)と指摘する。 そのうえで、政府が「打ち出の小槌」で経済に混乱をもたらした過去の例として、明
「朝まで生テレビ」という討論番組がある。学生時代はよく観たが、今では全然観なくなった。眠くて朝までつきあっていられなくなったのもあるが、もっと大きな理由がある。せっかく興味深いテーマでも、ようやく話がかみ合いかけたかと思うと、第三者が関係ない話を始めたり、司会者が話題を切り替えたりして、議論が全然深まらない。知的欲求不満に陥ること甚だしいのである。 ハーバード大学の政治哲学教授、マイケル・サンデルの人気が日本で高まるきっかけとなった本書を読むと、この討論番組を思い出す。テーマは面白い。だがそれがいっこうに深まらない。なぜもっと突っ込んで議論しないのかと言いたくなる。これでは白熱教室どころか、生煮え教室である。 たとえばサンデルは、「自分(とその延長である自分の財産)を所有するのは自分だ」というリバタリアンの根本原則(自己所有原理)に疑義を投げかけるため、「腹をすかせた家族を養うためにパンを
本書でおもしろいのは、デフレ脅威論をデータで反駁する第一章である。2002年から2009年まで消費者物価指数はほぼ横ばいだった。2009年は前年比1.4パーセント低下で、1971年以降最大の下げ幅を記録したと騒がれたが、実際は2008年の上昇分(前年比1.4パーセント)を相殺したにすぎない。GDPデフレータで見ると下落傾向にはあるが、それでも2002-2007年の五年間で5.3パーセント、年率1.1パーセントの下落にとどまっている。デフレデフレと騒いでいるが、物価はほとんど下がっていないじゃないか、というわけだ。 これらの数字を踏まえ、著者はデフレ脅威論者について「(1)現実を観察していない(2)目をこらして数字をみていない(3)とことん理屈をめぐらしていない(4)歴史的事実をねじ曲げている」と散々にこき下ろす。デフレが悪という誤った通説そのものを否定しているわけではないが、客観的な数字を
人間はしばしば、自分の信じる価値観を他人にも共有してもらいたいと考える。その手段が言葉による説得であれば問題はない。しかし暴力や脅迫による強制は、間違った手段である。とりわけ、大勢の人々を巻き込む戦争という究極の暴力によって特定の価値観を押しつけようとするのは、愚かなことであり、手痛いしっぺ返しが待っている。 この苦い真実を読者に突きつけるのが本書である。著者ベイセヴィッチはエリート軍人を養成する米陸軍士官学校ウエストポイントを卒業後、ベトナム戦争に従軍した経験があり、1998年からボストン大学の国際関係論教授として教鞭をとる。2006年、イラク戦争に従軍した二十七歳の息子が戦死している。本書はエネルギーの自給自足を説くなど一部に同意しかねる部分もあるが、主張の核心は的確そのものである。 2001年9月11日の同時多発テロ事件に見舞われた当時のブッシュ政権は、「テロとの戦い」を宣言した。政
憲法学では少数説だが、日本国憲法は国家(政府)の自衛権を否定していると考えるべきだ(『 現代の平和主義と立憲主義 』レビュー参照)。このように言うと、「外国の脅威に無防備になってしまう」という反論が返ってくるだろう。しかしこの反論は二つの事実を見落としている。一つは、憲法が否定するのは国家の自衛権であり、国民の自衛権ではないということ。もう一つは、国民にとっては外国政府だけでなく、自国政府も脅威になりうるということである。 これらの見落としがちな事実を的確に指摘しているのは、米国出身で日本在住の政治学者、ダグラス・ラミスである。ラミスは本書に寄せた論文「日本のラディカルな憲法」(加地永都子訳)で「〔憲法〕第9条は、国家に対し軍事力を確立ないし使用する権利を否定している」(169頁)と述べたうえで、二つの誤解を正している。 まず、国家の自衛権(ラミスは「国家の軍備とそれを使用する権利」と表現
税金がない、またはほとんどない国や地域であるタックス・ヘイブン(租税避難地)は、日本を含む他国政府から悪のレッテルを貼られ、地球上から抹殺されそうになっている。しかしタックス・ヘイブンは悪ではない。悪いのは重税を課す政府であり、タックス・ヘイブンはその魔手から人々を守る善である。 元財務官僚で弁護士の志賀櫻は本書で、タックス・ヘイブンを舞台に行われる「悪事」を三つに分類する(6頁)。(1)高額所得者や大企業による脱税・租税回避(2)マネー・ロンダリング、テロ資金への関与(3)巨額投機マネーによる世界経済の大規模な破壊――である。しかしこれら「悪事」の責任をタックス・ヘイブンに押しつけるのはお門違いである。 まず、租税回避である。志賀は米最高裁判事オリバー・ウェンデル・ホームズの「税は文明の対価である」(224頁)という言葉を引き、税を正当化する。だがホームズは間違っている。文明は、暴力や脅
アメリカの経済学者アルメン・アルキアンが提唱したアルキアン・アレンの定理とは、たいして利用価値がないものは淘汰されるという概念である。例えば、輸送コストをかけてまで輸出するワインは高価なワインに限られるので、オーストラリア人はフランス人よりも高価なフランスワインを飲み、フランス人はオーストラリア人よりも高価なオーストラリアワインを飲む結果となる。逆に言えば、高価な費用を払ってまで、出来の悪いワインを飲む人はいない。つまり、人はたいした価値のないものにお金を払わないということである。 イギリスの経済学者のアラン・コリンズは、「資産価値の放棄価値 戦略的処女喪失の経済学」という論文の中で、さまざまな状況の中で男女が貞操を捧げるべきかを評価している。コリンズによれば、女性の約60%は相手を愛していたから貞操を捧げたとしているが、同じ理由の男性は35%しかいない。これは、女性にとって処女を捧げるの
原著も翻訳も2000年の本。「社会」や「歴史」がテーマ。 曰く・・・ 社会は、その成員に対し位置づけと役割を与え、かつそこにおける権力に正当性がないかぎり機能しない。 ファシズムは個々の人間の位置づけと役割を経済的満足ではなく非経済的満足によって規定する。産業社会を脱経済化することにより、不平等たらざるをえない産業社会を維持し、かつ妥当なものにしようとする。ファシズムは資本主義と社会主義のいずれをも無効と断定し、それら2つの主義を超えて、経済的要因に依らない社会の実現を追求する。唯一関心のある経済問題は生産機構の円滑化であり、生産が誰の費用によって誰の利益のために行われるかは二の次であり、経済的成果は社会的課題遂行にともなう副産物にすぎない。ファシズムは社会革命であるが社会主義ではなく、産業社会を維持するが資本主義ではない。恵まれない層に恵まれた層の特権である非経済的贅沢(オペラや外国旅行
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