タグ

聞書抄に関するpirachanのブックマーク (3)

  • 日想観(にっそうかん)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    …出雲聖人の主導した百万遍念仏は,貴賤をとわず,道俗男女が一定期間参詣して念仏し,鳥羽法皇や藤原忠実・頼長らも参加した。西門外の海は極楽への道として,夕日に浄土の想いをはせる日想観(につそうかん)を修し,入水往生を遂げる聖や尼が少なくなかった。《梁塵秘抄》に往生の聖地としてうたわれ,往生伝や《今昔物語集》などの説話に,往生を願う人びとや四天王寺での往生が記される。… 【信徳丸】より …能の《弱法師(よろぼし)》もまた忘れてはならぬ作である。さる人の讒言とあって継母の姿はないが俊徳丸の名が見え,天王寺の西門,右の鳥居を舞台とする日想観(につそうかん)信仰が取り入れられ,盲目の俊徳丸の心眼に映る四方の景観が,そのまま悉皆(しつかい)成仏の浄土を思わせる美しさに輝く。盲目なるがゆえに可能な法悦としてそれは描かれており,開眼ではなく,盲目を選びとることによって即身成仏的な至福の世界を心眼に納めとる

    日想観(にっそうかん)とは? 意味や使い方 - コトバンク
    pirachan
    pirachan 2015/08/08
    あー、これだったのか! 一連の盲目物と、晩年の『夢の浮橋』が繋がった!
  • 田中吉政 - Wikipedia

    八幡堀(近江八幡市)。田中吉政が秀次の家老を務めていた時代に作られたもの 天正10年(1582年)ごろ、宮部家中から5,000石を与えられ、秀吉の甥の羽柴秀次(のちの豊臣秀次)の宿老となった[注釈 1]。 天正13年(1585年)に秀次が近江八幡43万石を与えられると、吉政はその筆頭家老格となった。このとき、同じく秀次付き家老格となった中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末らはそれぞれ居城を持ったが、吉政は秀次の居城・八幡山城にあって、関白殿一老として政務を取りしきった。 天正14年(1586年)、大政所の三河国下向にかかわったという記述がある。 この時代の吉政の書状は、比較的多く残っている。織田信長が築いた安土城下の町を八幡城下に移し、町割を行った。江戸時代中ごろまでは、久兵衛町と名づけられた地域が、近江八幡の町の一画に残っていた。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の北条氏を制圧

    田中吉政 - Wikipedia
    pirachan
    pirachan 2015/03/02
    谷崎潤一郎著『聞書抄』読解のためにブックマーク。仮名が久兵衛! 近江源氏高島氏となれば、『瘋癲老人日記』絡みでも興味深い。
  • 松花堂昭乗 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "松花堂昭乗" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2015年5月) 松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、天正10年(1582年) - 寛永16年9月18日(1639年10月14日))は、江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。姓は喜多川、幼名は辰之助、通称は滝坊、別号に惺々翁・南山隠士など。俗名は中沼式部。堺の出身。 書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び,独自の松花堂流(滝流ともいう)という書風を編み出した。近衛信尹、阿弥光悦とともに「三筆」と称せられた[1]。

    pirachan
    pirachan 2011/10/06
    この人、10月14日に亡くなっているのね。春琴と佐助の命日と同じだわ。この人のことは、『春琴抄』以外にも『盲目物語』『聞書抄』や『夢の浮橋』等、一連の作品に埋め込まれているように思う。
  • 1