森鴎外(おうがい)が主催し、会場に東京・本郷駒込(こまごめ)千駄木(せんだぎ)町(文京区千駄木)の自宅2階の部屋をあてて開かれた歌会。観潮楼は鴎外邸の名称。1907年(明治40)3月から10年4月までの間に開催記録26回。毎月、第1土曜日の夕方から行われ、歌会の形式は、初期のころは参加者各自の持ち寄り歌の相互批評を、漸次兼題詠の互選と批評が行われた。鴎外はこれを開く目的として、『アララギ』と『明星』の二つを接近せしめ、さらに新詩社とアララギ派とに通じて国風新興を夢みたと述べ、新詩社の代表与謝野鉄幹(よさのてっかん)、アララギ派の代表伊藤左千夫(さちお)、それに第三者的な佐佐木信綱(のぶつな)の3人を招いて鴎外が加わり、四者によって歌会が始められ、のち石川啄木(たくぼく)、斎藤茂吉も加わって21人が参加している。当時の新進歌人群間の交流に大きな寄与をした。 [藤岡武雄]
播磨国(はりまのくに)飾東郡(しきとうごおり)姫路(ひめじ)の城主酒井雅楽頭忠実(うたのかみただみつ)の上邸(かみやしき)は、江戸城の大手向左角にあった。そこの金部屋(かねべや)には、いつも侍(さむらい)が二人ずつ泊ることになっていた。然(しか)るに天保(てんぽう)四年癸(みずのと)巳(み)の歳(とし)十二月二十六日の卯(う)の刻過(すぎ)の事である。当年五十五歳になる、大金奉行(おおかねぶぎょう)山本三右衛門(さんえもん)と云う老人が、唯(ただ)一人すわっている。ゆうべ一しょに泊る筈(はず)の小金(こがね)奉行が病気引(びき)をしたので、寂しい夜寒(よさむ)を一人で凌(しの)いだのである。傍(そば)には骨の太い、がっしりした行燈(あんどう)がある。燈心に花が咲いて薄暗くなった、橙黄色(だいだいいろ)の火が、黎明(しののめ)の窓の明りと、等分に部屋を領している。夜具はもう夜具葛籠(つづら)
西周伝(にしあまねでん) 周の父は森家の出身で、鷗外の祖父の兄弟にあたる(鷗外の祖父は養子だから、鷗外と周の間に直接的な血のつながりはなさそうだ)。同じ藩医の家系で、家も近所であった。鷗外が東京へ出てからも、大学入学前の一時期、周の家に住んでいたことがあるから、周の死後すぐにその伝記を書く人物としてはうってつけであったろう。 しかし、鷗外は登志子と離婚して以来、周とは絶縁状態にあった。周の留学仲間に林紀(つな)、榎本武揚、赤松則良がいる。林の弟の紳六郎は周の養子になり(周の伝記執筆を鷗外に依頼したのはこの紳六郎である)、姉妹の多津は榎本の妻、貞は赤松の妻となり、みな姻戚となった。鷗外が陸軍に入ったのは、周と林(陸軍軍医総監)の斡旋があったためである。鷗外が留学から帰って結婚した登志子は赤松(海軍中将)の娘であり、これを斡旋したのも周である。ところが鷗外は、わずか一年数か月で彼女を離縁してし
文豪森鴎外(1862~1922年)と最初の妻登志子が離婚した経緯を、親族が記したとみられる史料が磐田市で見つかったと、同市教委が13日発表した。登志子は、同市に居を構えた海軍中将赤松則良の長女。ことしは鴎外生誕150周年に当たり、関係者は「鴎外の人生を明らかにする貴重な史料」と注目する。 史料は赤松のひ孫、赤松乙彦さん(68)=磐田市水堀=が今夏、磐田市立中央図書館に持ち込んだ。長年鴎外を研究する杉本完治さん(68)=磐田市福田=が解読し、離婚のいきさつが記されていることが分かった。 和紙6枚。杉本さんによると、登志子の兄、範一が父に宛てた書簡の下書きで、鴎外が家を出た後の1890年10月ごろに書かれたとみられる。鴎外の親戚に当たる思想家西周らが鴎外夫妻から聞いた内容を基に、家を出た後の鴎外の行動や赤松家と西夫妻の困惑ぶり、生後間もない長男の親権問題などが記されている。 内容によると
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