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ある伝統的宗派の信徒のサイトで、禅宗が「邪宗教」呼ばわりされていた。興味を持って読み進めると、その理由は禅宗で重視されている経典が中国で作られた可能性の高い偽経だからとなっていた。 しかし皮肉な事に、その人が信じている宗派で使われている御経も、インドで作られたものではあるものの、釈迦入滅後相当の歳月が経過してから作られたものである事が定説のものであった。 仏教の定義の範疇をどこまでにするかは個人の自由であるし、どの御経が真理に最も近いのかの判断は各人の宗教観に任せるしかない。理知的な探求が寄与出来るのは、その各人の選択の際の参考資料を増やす所までである(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20091027/1256637455)。だからそのサイトを紹介して叩くのが本稿の目的ではない。 だが私は私で主張する。まず第一に「中国で作られたとされる御経は、偶然他の地
「虚無」を超えて 最近仏教に興味を持ち始めたという若い人に質問されました。 「仏教の無常とか無我とかいう教えを突き詰めると、確実な根拠を設定して発言することは錯覚にすぎない、ということになりませんか? すると、無常と無我という考え方自体も錯覚になりませんか? そうだとすれば、これはただのニヒリズムではありませんか?」 私の返答。 「無条件かつ絶対に確実な根拠に基づいて正しいと判断された物事や考え」、これを仮に「真理」とすれば、私が考える仏教の立場からすれば、その一切が完全に錯覚です。もし「無常」や「無我」も「真理」として主張されるなら、当然、錯覚にすぎません。「真理」の主張とは、実際には、発言者の依拠する立場と信念の正当性を、主張しているにすぎません。 ときどき、「仏教とは(宗教ではなく)科学である」というような、実に無意味な主張がされますが、仏教にも科学にも「真理」と考えられるべきいわれ
宗教は人間によって使用される道具の一つである。 したがって、他の道具と同様、 その中に欠陥が含まれている場合、 その欠陥は速やかに除去されなければならない。 そして、明らかに欠陥が含まれているにもかかわらず、 その宗教の内部の人間たちがそれを放置している場合、 外部の人間はそれを批判する必要がある。 何らかの宗教の外部にいる人間による、 その宗教に対する批判は、 そのすべてに意味があるとは限らない。 道具としての欠陥についての批判には意味があるが、 欠陥とは言いがたいものについての批判は無意味である。 佐藤哲朗さんは、 「仏陀は再誕しない」*1というブログエントリーの中で、 幸福の科学が製作した 「仏陀再誕」というプロパガンダ映画について、 次のように述べている。 「仏陀(ブッダ)が再誕する」ということはありえない話です。 仏陀は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・天(欲天+梵天)という 輪廻の世界
「キリスト教は独善的」と小沢氏、仏教は称賛 - MSN産経ニュース この中で小沢氏はキリスト教に対し「排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」との見解を表明。イスラム教については「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」と述べた。 一方、仏教に関しては「現代社会は日本人の心を忘れたり見失っている。仏教は人間としての生きざまや心の持ちようを原点から教えてくれる」と称賛した。 私はキリスト教徒だけど*1、とくに現時点で熱く反応したいとは思いません。「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」というコメント、〈一言コメントでついでに斬!〉といった感じでお茶目ですね。そんなに簡単に片付けられてしまうイスラム教はかわいそう。 この話題のニュースページへのブックマークコメントでも書いたけれど、昔の森首相(当時)のコメントを思い出しました。「天皇を中心とした神
「縁起」~ある講話のための準備メモ ・私が考える「縁起」とは、AとBが存在して、AがなければBはなく、BがなければAがないというような、AとBが相互依存関係にあることをいうのではない。 ・任意のAは、非Aによって起こされ、構成され、発動する、という意味である。したがって、A自体にAである根拠は無い。 ・このとき、非AはAではないという意味でしかなく、「非Aとは○○である」という形式での言語化の埒外である。 ・ということは、あらかじめAと非Aが存在しているのではない、ということである。そうではなく、まず「異なり」の現出として関係が裂開し、その一方の項を「A」と呼び、他方を「非A」と呼ぶのである。 ・この関係の開かれ方には、「立ち遅れる」と言い表すべき様相と、「先立つ」と言うべき様相がある。その「立ち遅れる」という様相で生起する存在がAであり、「先立つ」という様相で現前するのが非Aである。すな
般若心経は「経」ではない。般若心経の「心」は、「心髄」という意味でも、ましてや「こころ」という意味でもない。 こんなことを本の中で主張しているのを見たら、あまたある般若心経本を読んだ方々は「まさか!?」と思うことだろう。しかし、まさしくこの本は、こうした既成の般若心経解釈にとらわれない驚くべき命題を、インド仏教史を背景に、文献的、また論理的に証明している。心ある読者は読み進めていくにつれ、他に比して、著者の般若心経解釈が非常に整合的で明快なことに気づくだろう。 最も重要なのは、般若心経の世界が階層構造を持つ(あるいはそれを前提とする)ということを明らかにしたこと。般若心経の垂直的ダイナミズムが、はじめて開示された。人生訓めいた般若心経解説が、実は単なる「世間知」のレベルを水平移動しているに過ぎないことが、これで分かる。 もちろん、著者の解釈が絶対的だとか最終的だとか言うことはできない。いか
真言宗僧侶でもある著者の歩き遍路の記録。「つなぎ遍路」とは、一度にではなく、何回かに分けて八十八ヶ所を廻ること。 ガイドブック的な使いやすさ・分かりやすさはないが、歩き遍路ならではの、トイレの有無や道の選択についてのアドヴァイスなど、貴重な情報もある。ただし、総合的な情報などは、まとまって書いているわけではないので通読する必要がある。 この本の美徳はむしろ、お遍路の道中出会った、善意の人々とともに、心無い人々のこと、そしてそれに対する率直な怒りの念を書き記していることだ。当たり前のことながら、お遍路もキレイゴトばかりではない。それにもかかわらず、読むものに、お遍路への出立をかきたてる力のある一書である。 四国八十八ヵ所つなぎ遍路 (ベスト新書)
最近人々の耳目を集めていることにアメリカ発の金融危機があります。私は経済をまともに論じられるような見識を持ち合わせないので、大きなことは言えないのですが、一つ、以前から議論の前提として、ここを誤解するとマズいと思っていることがあるので、若干意見を述べてみたいと思います。 現在の世界で最もひろく受け入れられ、それを最善と考える人が多い経済システムこそ、「自由市場経済」でしょう。したがって、「自由」でない市場は、すべからず「自由化」しなければならない、という議論になります。しかし、ここに根本的な誤解があります。「自由市場」と称されるシステムは、その原動力は「欲望」であり、むしろ「欲望市場」と言うべきでしょう。 「欲望」と「自由」は、その違いをはっきり自覚しないとき、大きな災難を招きます。「欲望」の正体は「したいことをする」というものです。しかし、これに対して、「自由」とは「なすべきだと信じたこ
密教フォーラム21公式サイト「エンサイクロメディア空海」内の記事「般若心教は真言を説いたお経」は、世に蔓延る通俗解釈を破砕していて爽快であり、気になる人には是非一読を勧める。 http://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/ この中で特にひっかかったのは、第6章「仏母般若波羅蜜多の咒(マントラ)」 http://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/post-204.html 以上が一応の語義の説明ですが、「掲諦」から「菩提」までの各語は、実はすべて「般若波羅蜜多」の別称で、しかもそれらは女性名詞の呼格(呼びかけ語)ですから、女尊の名称なのです。 般若波羅蜜多が女尊であり、掲諦の句がそれと同義の女尊への呼びかけといえば、奇異に感じられるかも知れません。 宋(そう)の時代に漢訳した施護(せご)の経題は「聖仏母般若波羅蜜多経」とな
祝!大記録達成 いまや「日本のヒーロー」ばかりか、「アメリカのヒーロー」にもなった感のあるイチロー選手。今年も、シーズン200本安打の連続記録を、実に1世紀ぶりに更新しました。その抜群の技量のみならず、若いころからの彼のユニークな言動に注目してきた私にも、大変うれしい活躍です。 以下は、2004年(だったと思いますが)、シーズン最多安打の世界記録を樹立したとき、剣道の専門誌にエッセーを頼まれ、書いたものです。ささやかな祝意のしるしとして、転載させていただきます。 ▼イチローの「作法」 十個の台風、大地震。おまけに熊の出没。国の外ではテロ・戦争、内に連日の殺人事件。昨年はお世辞にもよい年とは言えなかった。 その中で、日本中の耳目を集めた数少ない明るい話題はスポーツ、金メダルラッシュのオリンピックと、あの大リーガー、イチロー選手の歴史的大記録であろう。 ◆ ◆ ◆ いまや神業の域に達した彼の活
「車でお遍路」計画の下準備として、理論武装のために(笑)購入。 実は、「密教」は今まで避けていた分野。しかし、フリッチョフ・シュオンのおかげで、再び仏教全般への目を開かされてしまった。「六塵(色・声・香・味・触・法)がことごとく文字であり、声字はそのまま実相である」などという思想、かつては違和感いっぱいだったが、今ではすんなり入る。 中国およびわが国で一宗を創唱した宗祖たちは、いずれも「教相判釈」を行っている。 要するに釈尊が生涯に亘って説いた教え――経典論書――を整理して宗祖が釈尊の本真の教えとして確信したものを全仏教の中核に据えて位置づけた。 ところが空海の場合には他に類例のない教相判釈をした。第一には全仏教を顕密の二教に分類して密教の特色を明らかにした。これが『弁顕密二教論』である。 そして『秘密曼荼羅十住心論』ではあらゆる顕教も高次元の密教の立場からすればすべて密教であると見做され
▼再誕しない仏陀が再誕してしまう日本の理由 前回エントリ「2009-09-09 仏陀は再誕しない」のなかで、巷で宣伝されているような『仏陀再誕』は仏教的に見てあり得ない、という話をしました。仏教教学の常識に基づけば、そういう結論にしかなり得ないからです。 私が書いたような「常識としての仏陀観」は、初期仏教〜テーラワーダ仏教という伝統の中で培われてきたものですが、大乗仏教の影響が強い日本でも(少なくとも釈迦牟尼仏陀に関しては)それなりに共有されています。お釈迦さまが生まれ変わる、と聞けば「なにバカなこと言ってんの?」とくさしたくなるのはもっともな反応だと、我ながら思います。 しかし歴史上の仏陀である釈尊(釈迦牟尼仏陀)とその教えを捨象して、釈尊滅後500年ほどしてから現れはじめた大乗仏教とりわけ密教の教えだけに立脚して「仏陀(ブッダ)」を論じようとするならば、釈迦牟尼仏陀をかたって『仏陀再誕
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