私の哲学の主題は、神の存在論的証明、出エジプト記と省察における「エゴ・スム」、超越論的観念論、ウィトゲンシュタイン的独我論、可能世界の現実主義と可能主義、時間のA系列とB系列、…が実はみな同じ問題であることの提示にあるので、西洋哲… https://t.co/WBw6xnDWED
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英: Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は、哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形として、 「なぜ宇宙(または世界)があるのか?(Why is there a universe(world)?)」 「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」 「なぜそもそも何かが存在するのか?(Why there is anything at all?)」 などと問われる場合もある[注釈 2]。 物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問
サンドロ・ボッティチェリ《マグニフィカート》(1480-81) このページではトマス・アクィナスの『神学大全』を読み返すことで、キリスト教神学の基礎を復習してみよう。トマスは自らの神学に対する位置付けを、doctor catholicae veritatis(カトリック真理の教師)と表現している。『神学大全』とは、理論である前にまずsacra doctrina(聖なる教え)であり、humana salus(人間の救い)である。 【神学とは何か?】 そもそも、「神学(theologia)」とは何であろうか? トマスはそれを、scientia divinitus inspirata(神感に基く学)だと考えていた。聖書を真に深く理解するためには、聖なる教えとしての「神学」が必要である。聖書の中においては、我々はそれを読むことで神の教えを認識することができるわけだが、それは学としての聖なる教えでは
なぜ世界があって無いのではないのかという問いです。 ついでにハイデガーが存在の意味にこだわるのは、 どのような私的体験に基づいておるのかということも教えてください。 難しい事きくなあ。僕もそこからハイデガーにはいっていったよ。 最初の質問に簡単に答えると、意味のあるものは存在している。 意味の無いものは潜在的にしか存在していない。世界というものは 意味のあるものの相関関係そのものだから「意味」を感じる時 すでに存在している。 ハイデガーは敗戦によるドイツ国民の「意味」の消失をおそれて ドイツ国民の意味をみつけようとしたのだと思う。 僕は世界があるということを不思議に感じるのですが、 ハイデガーはどうも存在の意味に対して、つまり、 「存在者は存在すると言えるが、無が存在すると言えない」 という事に対して不思議に思っているようです。 僕にとっては世界があるということを不思議に感じるウィトゲンシ
ゲーデルの神の証明ってあるでしょ? P(φ) φは肯定的(またはφ∈P). 公理1.P(φ).P(ψ)⊃P(φψ). 任意の数の連言 公理2.P(φ)∨P(〜ψ). 排反的選言 定義1.G(x)≡(φ)[P(φ)⊃φ(x)](神) 定義2.φEss.x≡(ψ)[ψ(x)⊃N(y)[φ(y)⊃ψ(y)]]. (xの本質) xの任意の二つの本質は必然的に同値である。 p⊃nq=N(p⊃q).必然性 公理3.P(φ)⊃NP(φ) 〜P(φ)⊃N〜P(φ)性質の本性より導かれる。 定理.G(x)⊃GEss.x. 定義.E(x)≡(φ)[φEss x⊃N(∃x)φ(x)].(必然的存在) 公理4.P(E). 定理.G(x)⊃N(∃y)G(y), ゆえに(∃x)G(x)⊃N(∃y)G(y); ゆえにM(∃x)G(x)⊃MN(∃y)G(y).(Mの可能性) M(∃x)G(x)⊃N(∃y)G(y). M(
科学が私たちの理解を変える方法は、ごく大ざっぱに分けて2つある。1つは外向き、つまり外の世界についての認識を変えるもの。もう1つは内向き、つまり私たち人間についての理解を変える方法だ。過去の3つの科学革命は、その両方に大きな影響を与え、外的世界に対する私たちの理解を変えることで「人間とは何か」をめぐる私たちの内的認識も変えた。 コペルニクス以後、それまでの地球中心の宇宙観に太陽中心の宇宙観が取って代わり、人間を宇宙の中心から追い出した。ダーウィンは、すべての生物種が自然淘汰によって共通の祖先から進化してきたことを示し、人類を動物界の中心から追い出した。そしてフロイト以降、私たちは精神も無意識の産物であり、抑圧という防衛機制に影響されることを理解するようになった。 つまり、私たちは宇宙の中心に位置する不動の存在ではなく(コペルニクス革命)、他の動物たちと切り離された別個の存在でもなく(ダーウ
〈現代哲学への招待 Basics〉 神の存在、必然性と可能性、自由意志と決定論など、哲学の基本中の基本、だけど、古代から大勢の哲学者が考えつづけてきたのに、まだはっきりした答えを出せないでいる難問中の難問を、ときにユーモアたっぷりに、ときに粘り強くコツコツと、読者と一緒に楽しく考えるアメリカン・スタイルの全10章。「哲学する」とはどういうことかを学べる、これぞザ・哲学! ●日本の読者のみなさんへ● 私たちの本が日本で出版されるのを嬉しく思います。訳者に深く感謝いたします。この本を読むために、何か哲学を学んでおく必要はありません。形而上学的問題が魅力的で、興味をそそるものであることを、この本が伝えてくれればと思います。 ――アール・コニー、セオドア・サイダー はじめに 第1章 人の同一性(セオドア・サイダー) 第2章 宿命論(アール・コニー) 第3章 時間(セオドア・サイダー) 第4章 神(
そのタイトルに惹かれて(笑)、中山康雄『現代唯名論の構築 – 歴史の哲学への応用』(春秋社、2009)を読み始める。とりあえず最初の3分の1にあたる3章まで。バリバリの難しい論考なのかと身がまえていると、想定読者に「君」と語りかけるスタイルで、入門書的な雰囲気を漂わせてくる。とはいえ、実際に「一般外延メレオロジー」の話に入っていく段になると、形式論理学っぽさが増してくるので、ちょっと読むスピードが落ちてくる……(苦笑)。同書の基本スタンスは、外的世界には個物しかなく、その個物をインスタンス(事例)として上位のクラス(類)を作るのは認識の働き、つまりは形式論理学的操作でしかないというのが出発点(だから唯名論ということになるわけだけれど)。で、部分と全体を形式論理的に考えるメレオロジー(部分論)が、その操作を説き明かすための基本体系として用いられる。個物は何かの部分をなし、それらが何らかの全体
宗教者の素質 早いもので、私も出家してから今年で丸25年が過ぎました。で、そろそろタイトルのような話をしてもよかろうかと思い、書かせていただきます。 宗教者の素質として私が一番大事だと思っているのは、教義を深く理解できる頭脳でも、縦横無尽に説教する弁舌でもありません。まして霊感でも超能力でもありません。つまり、一般人にないような特殊能力を「持っている」ことではありません。 そうではなくて、大事なのは、自分が生きていること、存在していることに対する、抜きがたい不安です。どうして自分はこうなのだろう、このままでいいのだろうか。なぜここにいるのか、どこから来てどこへ行くのか。そういう問いが自分を底の方から揺るがしていることです。どうしても知りたいこの問いに答えられない切なさです。答える能力を「持っている」ことでなく、「持たない」ことなのです。いわば、この「不安のセンス」が、宗教家の資質として最も
『引きこもるという情熱』を上梓してはや三年近くを経ているが、芹沢氏はかの著作の中であまり多くのことをいえなかったと感じているという。「これまで語られてきた引きこもり論からは、〈ある〉と〈する〉という存在論的な視点が欠落していたように思えるんです」。 氏はドナルド・ウィニコットの「〈ある〉と〈する〉というあり方の二重性として人間は存在している」という考え方をよりひき寄せることにより、これまで自分が展開してきた引きこもり論を、さらに一歩推し進めることができるのではないかと考えるにいたった。〈ある〉とはまさしく「そこに存在する」ということであり、〈する〉という行為のより深く根底に横たわった価値観である。 「〈ある〉が不安定なときに〈する〉は成立しない。これまでの引きこもり現象に対する理解というのは、〈する〉〈できる〉の段階が不可能になってしまうということでした」。 〈する〉〈できる〉を唯一の価値
創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。 ○一般法則論の世界観の図解 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。 世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境 (世界Ⅲ(世界Ⅳ (世界Ⅴ (世界Ⅵ (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ 空の世界 妄想の世界 Ω神= 〔A→ ∥Z→ (B→ (C→ (D→ (H→E→F→G→ (M ) ) ) ))∥〕 Ω=神の国 ∥ 創造神 ↑ Ω神の 天然自然 物的 俗・人・子・文歴 記憶 霊的 M 理法 の世界 Ω人 人・生・孫・化史 ↓ 心的 ^(記憶) Z→→→
一般法則論者さんからの神の証明への突っ込みがあったので、返信を1エントリーにしてみる。昨日の神の証明の話のツッコミで 一般法則論者 2009/09/03 18:37 この世界の成り立ちの順序から言えば、ヒトがいわゆる神の存在の有無やその属性を勝手に決められるという話は最初から無しです。創造主である神の存在証明をしている一般法則論のブログを読んでください。一般法則論者 というのがあったので返事を書いてみる。 書き込みありがとうございました。一般法則論者さんのブログを全てではないですが、少しだけ読ませていただきました。で、僕の一般法則論者さんが提唱されている一般法則というものの理解の一つは、創造主である神というものは必然的にアプリオリに存在しているので、後天的に人間などという有限的な存在がその属性を勝手に決められるわけがないということですよね?今回の突っ込みに関しては僕はそういう風に捉えました
こないだの神の証明みたいな話の続きだけど、ゲーデルの神の証明について書いてある本をさっそく買ってきてまぁそこだけ読んだんだけど、ようはゲーデルが言いたかったことだけどね、Axiomの1は Axiom 1. (Dichotomy) A property is positive if and only if its negation is negative なんだけど色々なツッコミがあるようにそもそもポジティブな特性とか固有性とか特性って何なの?っていう。で、また例のあんま熟考無しの思いつきで色々書くけど、とりあえず俺は勝手にっつーかそもそも論理学の基礎とかやってないんでアレなんだけど、雰囲気としてまぁただのトートロジーなんだけど、まぁこれはあれだ、無を有さないものというのは無ではないから存在はあるみたいなことね。多分。無いものは無いわけで、あるものはあるっつー話。 で、次のAxiom2ね。
長倉久子『トマス・アクィナスのエッセ研究』(知泉書館、2009)を読み始める。まだ半分ほど。著者の長倉氏は2008年1月に逝去されていて、これは古いものから近年のものまで、トマスに関する論文を編纂した一冊のようだけれど、まさに著者が後の世代に贈った遺書という感じでもある。いやいや単なる遺書という生やさしいものではないかも。これはむしろ挑戦状か。収録論文でおそらく最重要のものは、4章目の「<だ>そのものなる神」。一見するとちょっと変なタイトルに見えてしまうけれど、なんとこれ、西田哲学とトマス思想との対比を試みたもの。著者はトマスにとっての神、あるいは本源としてのesseが、西田幾多郎のいう「絶対無」と同じく、現実を支えながらそれ事態はある絶対的な断絶の向こう側にあるものを、なんとか言葉で捉えようとする思想的な試みであるとし、あえて西田哲学はそこに「無」「場所」のような概念を持ち込んでいるせい
世界の中に人を位置づける―人についての四次元主義的捉え方に対する批判的検討― | Events | University of Tokyo Center for Philosophy*1 おれもワームになって脱皮してクロックアップしたいな、と思っていたが、じつはおれらワームだったらしいぜ! と、これは、ネタバレである。 さて上記の講演に行ってきた。講師はなんと『四次元主義の哲学―持続と時間の存在論 (現代哲学への招待―Great Works)』の共訳者のひとり、鈴木生郎さんである。 講演は、通説の難点を指摘するもの。「人」の通時的数的同一性*2の判定基準として心理説を選択し、その難点を指摘し、それを四次元主義で克服し、その克服には難点があるという議論を展開する。 入場無料ということがあってか、かなり基礎的な点から確認が進んでいき、安心した。『四次元主義の哲学―持続と時間の存在論 (現代哲学
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