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手塚治虫に関するprisoner022のブックマーク (160)

  • ジャングル大帝 4 - 真佐美 ジュン

    昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 お金の話になると、スタッフの中には顔をしかめる者が多かった。「金を稼ぐために仕事をするのでは無く、よい仕事をする、金は二の次だ」と言う雰囲気を持っていた。金銭管理をする制作に携わる者でさえもそうであった。 虫プロでは「ナンバー7」虫プロランドの「新宝島」などの制作費、制作規模の拡大見込みでの社員の雇用費用、社員の養成所の費用、第一スタジオの拡張、屋根裏部屋の改築、交換室件守衛室や第二スタジオの建設、第3スタジオと第4スタジオの家賃、撮影室の増築や撮影機の購入、社用車の購入(ブルーバード1300を使用40年にはスカイライン1500で増車合計12台) など設備投資や人件費で、運営が苦しくなっていた。 版権収入は「原作者手塚治虫」と分けるのが来であったが、資金不足で借金と言うこ

    ジャングル大帝 4 - 真佐美 ジュン
  • 鉄腕アトム アメリカからの指摘 - 真佐美 ジュン

    昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 NBCからクレームがきた、アメリカの子供向け番組では性的描写はまかりならん 「子供番組なので性的描写はダメ」壁に掛かっていた額縁の絵が女性ヌードであったのだ 背景さんの。いたずらであったが。 それに「暴力描写に対するもの」など厳しいことを言われたのだと説明した。 手塚先生は、すぐに悟る人であった、1つを聞いて十を知る。子供にためになるものを作るのだ、それは世界でもおなじこと、すぐ自らの戒めとした。 脇役でスタッフの名前をもじったキャラクターが出てくる。例えばりんたろうさん、林ちゃんの事であるが、当時まだ制作進行の林さんは手塚先生の信頼も得ていたし、またスタッフもそうであった。 手塚先生は誰にでもそうであったが、すぐに人を信頼する、そして、あの人は仕事ができるとか、任せて安心

    鉄腕アトム アメリカからの指摘 - 真佐美 ジュン
  • 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』

    伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』 書は、漫画表現論、あるいは漫画表現史の方法論であり、なおかつ、それ自体が一種の漫画表現史になっている(後述)。 内容の乱暴な要約――漫画のモダン=手塚にしばられるな 書の内容を乱暴にまとめると次のようになる。 90年代後半に「漫画がつまらなくなった」という言説が漫画評論家などのあいだでふえはじめる。しかし、それはそう言う評論家たちが、漫画に「人間」や「内面」や「物語」といった「モダン」なもの、もっといえば近代的なリアリズムを基準にみようとするからで、そうしたモダンなものがない漫画、ポストモダンな漫画が読めなくなったせいだ。 もともと漫画は、独特の存在感のある線の束で表現されるもの(キャラ)をもち、それが近代的な「内面」や「物語」をかかえこんであたかも実在の身心をもつかのような人間としてうけとられるようになった(キャラクター)。しかし80年代後半以降、「内

  • 手塚治虫と虫プロダクション - 津堅信之のアニメーション研究資料図書室

    手塚治虫と虫プロダクションの仕事は、日のアニメが世界アニメ史の一般的な流れから離れて独自の発展を遂げていくために大きな業績を残したが、その価値は、いまだに正当に評価されているとは言えない。 このため、手塚治虫のアニメの仕事に関して、1冊で事足りるという文献は、成立していない。 私も自著『アニメ作家としての手塚治虫』で、その業績を再評価しようとしたが、今後、ますます研究が進捗することを期待したい。 ここでは、研究の発端として重要な3冊を紹介しておきたい。 ●「手塚治虫劇場」 編 者: 手塚プロダクション 出版社: エスクァイアマガジンジャパン 刊行年: 1991年 手塚治虫が手掛けた、テレビアニメ、劇場用長編アニメ、そして自主制作アニメまで、ほぼすべての作品について、基的なデータや図版が盛り込まれた、最も網羅的なムック。 とりわけ、各作品に関して、手塚のコメント(過去に雑誌等で発表された

    手塚治虫と虫プロダクション - 津堅信之のアニメーション研究資料図書室
  • 自著 「アニメ作家としての手塚治虫」 - 津堅信之のアニメーション研究資料図書室

    富野由悠季関連の文献を紹介したところで触れたので、再び自著の紹介。ご容赦いただきたい。 ●「アニメ作家としての手塚治虫」 著 者: 津堅信之 出版社: NTT出版 刊行年: 2007年 定 価: 2400円 日の戦後アニメ界の流れには東映動画系と虫プロ系がある、と言うと、必ず例外的事象を指摘して批判する人たちがいるし、その意見もよくわかるのだが、総体として、この2系統を認識すると、日のアニメ史は非常にわかりやすくなる。 そして、現在のアニメ発展は、東映動画系か虫プロ系か、どちらの功労ゆえかという質問に答えると、その人のアニメ史観がよく現れる。 もちろん私は、虫プロ系の功労ゆえと評価する側であるが、これは圧倒的に少数派だろう。なにより、東映動画系のスタジオジブリの存在感が巨大だし、年配アニメファンの中には、『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)など、東映動画長編全盛期の「マニア」が多く

    自著 「アニメ作家としての手塚治虫」 - 津堅信之のアニメーション研究資料図書室
    prisoner022
    prisoner022 2008/05/21
    虫プロは虫プロなりに企業努力をしていて、むしろ虫プロに慌てて追随した他のスタジオの戦略の欠如のほうが、その後のアニメ界にもたらした弊害の責任としては何倍も大きい
  • 手塚先生泣かせのテクニック - 漫棚通信ブログ版

    唐沢俊一氏による当ブログ記事盗用事件が発覚してから、もうすぐ一年。最近になっても「トンデモない一行知識の世界 唐沢俊一の「雑学」とは」で、氏の雑学なるものがいかにデタラメであるか検証され続けています。いやいくらでも出てくるものですなあ。 そこでわたしもヒトネタ提供しましょう。 唐沢俊一「裏モノ日記」2004年4月28日より。 手塚治虫が泣かせのテクニックとして昔、石上三登志との対談で、 「例えば雪山で遭難した主人を助けた犬が、主人は助けたが力尽きて死ぬ。そこで満足していちゃダメで、僕はさらに、その犬を剥製にして、翌年、もう一度主人が雪山に登って、山の頂上にそれを置いていかせる。そこまでやる」 という意味のこと(引用は不正確)を言っている。これが“商人”の感覚なのである。 モトネタはこれ。石上三登志と手塚治虫の対談「キングコングがどうした!」(「キネマ旬報」1977年1月下旬号)。石上三登志

    手塚先生泣かせのテクニック - 漫棚通信ブログ版
    prisoner022
    prisoner022 2008/05/19
    不正確な引用はともかく。「死なないだろうと思っていた主人公を、最後に殺すこと」「三枚目を配置して、笑わしておく」「泣かせっぱなしでなしに、最後にもう一回、その余韻のダメ押し」はナルホドと思い当たる。
  • 手塚先生吼える - 漫棚通信ブログ版

    手塚治虫が他のマンガ家や評論家について書いた、しんらつな文章のかずかず。 ●手塚治虫への弔辞(「話の特集」1966年10月号) ・だいたいマンガ批評家はおとなが多すぎる。その批評たるや、ノスタルジーか、もしくは“自分が好きだからほめる”調のものである。 ・ボクにいわせれば、白土三平氏や赤塚不二夫氏や、水木しげる氏を推賞する一部批評家ごとき、なんにもわかっちゃいない連中だと思う。あの作家達は優秀な作品を生んでいるには違いないが、それは現時点での評価であって、あと五年後にはどうなっているかわからない。そんなおとなに限って、手のひらをかえしたように、「ああ、そんな作家も、いたっけねえ」というだろう。 ・かつておとなにかなり高く評価されたマンガ家が、相次いでの上から消えていった。福井英一(イガグリくん)、武内つなよし(赤胴鈴之助)、前谷惟光(ロボット三等兵)、堀江卓(矢車剣之助)、うしおそうじ(

    手塚先生吼える - 漫棚通信ブログ版
    prisoner022
    prisoner022 2008/05/14
    なぜか富野監督がときどきアニメ界に吼える苦言を思い出した。変なところは似てるのかもしれない。
  • 大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』

    大塚英志・大澤信亮 『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』 「なぜ敗れるか」などという表題の問題提起とはまったく別に、一読して伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』が頭に浮かんだ。 これは、伊藤自身がブログで告白していることでもある。 最近でも、ある雑誌(※1)の鼎談のなかで、伊藤は大塚のについて、「問題意識が近いところがいくつかありました」「〔伊藤の書いた『テヅカ・イズ・デッド』が――引用者注〕あと三ヶ月遅れていたらやばかったと思う」とのべている。 また、これも伊藤自身が告白していることだが、「結局、僕も大塚さんの『記号的身体の呪縛』や『アトムの命題』(徳間書店)を下敷きにしているわけなので、モデルが似るのは当然なんですね」と述べているように、既視感があって当たり前なのである。 ただ、結論からいえば、ぼくは、伊藤にない、非常に大事な点を大塚に見た。 大塚が日の戦後史を広く反映させた立論をし

  • 【雑誌ネット】Show Creator 小林 香の聞かせてください! 雑誌の履歴書 ゲスト:富野由悠季

    prisoner022
    prisoner022 2008/04/26
    バラバラの畑から出てきていた人の集まりは、我々の時代だけ/作品の制作現場というのは、いろんなバックグラウンドを持った人材が必要
  • 【雑誌ネット】Show Creator 小林 香の聞かせてください! 雑誌の履歴書 ゲスト:富野由悠季

    小林 子どもの頃は、雑誌をご覧になっていましたか? 富野 うちは少しばかり貧乏だったので、生まれて初めて雑誌を買ってもらったのは小学校4年の時でした。小学館の『小学4年生』です。第2次大戦が終わって10年も経たないくらいで、ようやく雑誌が買えるようになったんです。小学3年までは経済的に買えませんでした。そして、5年生のときに光文社から出ていた『少年』を定期購読しました。その1年前の号を先輩から借りた時に、そこに「鉄腕アトム」の前段の「アトム大使」という漫画が2回連載されていました。購読の年(昭和27年)は、『少年』に「鉄腕アトム」が初めて連載された年だったんです。この漫画ではじめて手塚治虫という作家がいるということを意識しました。漫画にも、それぞれ作者がいるんだということから、その後、手塚作品を追いかけるようになりました。 この雑誌は、今の少年週刊誌と違って、小説など活字のページが多かっ

    prisoner022
    prisoner022 2008/04/26
    戦争に負けた技術者たちが、一生懸命なにかを次の世代に伝えていかなければという姿勢/第2次世界大戦の痛みを知り、その反省もあった時代/アポロが月に辿りつくまでは、世界中の人々が上昇志向を持っていた
  • 漫画表現「シーン」の発案者は手塚治虫 - 知泉的雑記

    サイト知泉の雑記です。知泉のトップページから入ると、雑記だけではなく色々な雑学や、6万人を超える古今東西の著名人の誕生日データベースなど、色々なコンテンツが揃っています。 リンク→(知泉:http://tisen.jp/) 新刊「静岡県の雑学」おそらく絶賛発売中! 3ヶ月に1回ラジオ番組「らぶらじ」で語った雑学をまとめた小冊子の3号「2時のうんちく劇場:2007年10〜12月」が出来た事もあり、久々に放送局へ出かける。 レギュラー放送を始めてすでに10ヶ月が経過し、毎日のように電話を通じて会話をしているワケですが、実際にメインパーソナリティと顔を合わせるというのは、今まで公開生放送で6回、それ以外の事でスタジオにお邪魔したのが4回って処なのだ。 自分が出るのは、1コーナーだけなのですが、打合せから参加して細かい話を入れる。 日のテーマが「死語」という事で、打合せでは最初80年代以前の死語

    漫画表現「シーン」の発案者は手塚治虫 - 知泉的雑記
  • トークイン手塚体験+

    --- ではお一人ずつ入社した時のことからうかがいましょうか。 --- 吉住さんは、いつの入社でした? 吉住 僕は、'83年です。'83から'85年。『少年チャンピオン』に『プライムローズ』か何かが連載されていて、そこに募集記事があったんですね。当時、僕は別なマンガ家のアシスタントを何ヶ月かしていたのですが、やっぱり手塚先生の大ファンだったし、何か不満の様なものが溜まっていったというか・・、どうも僕の思い描いていた世界とは違うなと・・。どうせなら、もうイチかバチかっていう感じで手塚プロに応募してみたんです。まさか受かるとは思いませんでしたけど・・(笑)。 --- 手塚プロなら、まあ由緒正しいし、という・・・? 吉住 そういう訳ではないですけど、憧れでしたから・・・。 石坂 手塚プロというのは、ちゃんと会社になっていたので、他のマンガ家さんの仕事と比べると、やっぱり基的なところがしっかりし

  • 解説委員室ブログ:NHKブログ | スタジオパークからこんにちは 「暮らしの中のニュース解説」 | スタジオパーク 「オープン・ポストで第2の鉄腕アトム?」

    << 前の記事 | トップページ | 次の記事 >> 2007年11月26日 (月)スタジオパーク 「オープン・ポストで第2の鉄腕アトム?」 (遠藤キャスター) クール・ジャパンの代表と言えばアニメやマンガ。 この二つは世界で高く評価されています。 そのアニメとマンガの世界でオープン・ポストという試みが始まりました。 その取り組みの意味や課題について聞きます。 A1:インターネットを使ってアニメなど作品発表の場を提供する試みです。 経済産業省から委託を受けた日動画協会と映像産業振興機構が、今月から始めたプロジェクトです。 そのホームページです。 目的はアニメーターやクリエーターなど人材発掘と育成です。 面白いのは日が世界に誇る漫画家・手塚治虫さんの作品を使って二次創作をして、それを投稿できるという点にあります。 つまり、手塚ワールドのヒーローたち、鉄腕アトムやリボンの騎士

  • 音極道茶室: 手塚治虫の「全作品」が合法的に二次利用可能という画期的試みもスルーされまくりという日本の悲劇

    手塚治虫のあらゆる創作物を、期間限定で合法的に二次利用可能とし、広く一般から作品を募るという超画期的な試みが「人知れず」行われている。 経済産業省の委託により、日動画協会と映像産業振興機構が共同で立ち上げた「オープンポスト(OpenPost)」というコンテンツ投稿サイトプロジェクトだ。 この試みが来社会に与えるべきインパクトのデカさが、世間に全くと言っていいほど伝わってない。 ダウンロード違法化やダビング10といった問題も確かに重要だが、それよりもこの素晴らしい試みがいまだに殆ど認知されていないという状況の方が個人的に危機感を感じる。コンテンツは「生み出して」ナンボだ。コンテンツ立国を目指すならそこが肝にならなければおかしい。 なぜこれほど認知されていないかという原因は明白。 基的な告知宣伝不足に加え、その内容が余りに「判りづらい」のだ。もうワザとやってるのかと思う位。 まずは、肝心

  • 手塚伝説(その3)逃走篇: たけくまメモ

    ●手塚は石ノ森章太郎の結婚式で仲人を引き受けたが、締め切りに間に合わず、肝心の結婚式をすっぽかした。石ノ森が周囲の編集者にぼやくと、編集は全員「そりゃ、あの先生に仲人を頼んだ石森さんが悪い」と口をそろえた。 ●手塚は締め切り間際によく雲隠れしたが、ある日いつも隠れ家にしているホテルに行くと、支配人から出入り禁止を言い渡された。手塚の知らないうちに編集者が乗り込んできて、「手塚いるか!」と全部のドアをたたいて回ったかららしい。 ●地方に逃げたときは、旅館で編集が身柄を確保し、アシが総出で新幹線や航空機で一枚づつ原稿をピストン輸送することもあった。 ●手塚の逃走癖は晩年まで直らなかったが、編集が後を追ってあるトンカツ屋で発見した。「先生!」と叫ぶと手塚は他の客が見ている前で、テーブルの下に身を隠した。 ●ある作品で手塚は電車のシーンを描いたが、それは車内中央に鉄のポールが立っている、戦後まもな

  • 手塚伝説(その2)お仕事篇: たけくまメモ

    ●50年代の全盛期、手塚の担当編集者は月はじめにくじ引きをして原稿をもらう順番を決めた。なぜこうなったかというと、締め切りが重なると各社の手塚番が殴り合いのケンカをはじめるからである。 ●手塚流言い訳(その1) ある日、先生が部屋で寝ているので編集者が起こしたら、「ボクは寝てませんよ。横になって眠気をとってただけです」と言い張った。 ●言い訳(その2) 小松左京との対談場所に手塚は4時間も遅刻した。そのときの言い訳が「ニュースニュース! ちょうど大阪空港で飛行機が爆発してねえ…」 ●言い訳(その3) あるとき、先生の原稿があまりに遅く、ついに入稿が間に合わないことがあった。一週間以上、仕事場に泊まり込みで原稿を待っていた編集がブチ切れて「もう間に合わねえよ!」と怒鳴り、原稿を窓から放り投げた。すると手塚は涙を流しながら「ボクだって大学出てるんだから!」とわけのわからないことを叫んだ。 ●手

  • 手塚伝説(その1)禁断のプライヴェート篇: たけくまメモ

    これからアップする文章は、以前「SPA!」がガッツ伝説にあやかって「有名人伝説特集」を組んだときに、編集部の求めに応じて俺が集めた「手塚治虫伝説」のすべてです。漫画界に伝説の持ち主は多いですが、やはり神様と呼ばれるだけあって、手塚の逸話は質・量ともに群を抜きます。 結局雑誌に使われたのはこのなかの数のみで、もったいないのでボツネタだけを以前mixiにアップしたのですが、今回は採用分もあわせた完全版をお届けしたいと思います。たぶん俺が知らないだけで、他にもいっぱいあると思いますが、知っていたら教えてください。 なお、ここに収録したネタは、すべて人や周囲の関係者からウラがとれているマジネタばかりです。 ●手塚が戦中戦後にかけて医者の勉強をしていたことは有名だが、医者を断念した理由は担当教官から「君はこのまま医者になっても必ず患者を殺すから、悪いことはいわん、漫画家になりたまえ」と忠告を受け

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    ネイルで使う材料で、DIY時の木割れやネジ跡を派手にしたらかわいい OSB合板でちょっとしたボックスをつくりました。 ビス止め下手すぎて木を割ったり穴あけすぎたりした場所に、好きな派手色の樹脂を詰めてパテ代わりにしてみました。 ちょっと某HAYっぽみ出て可愛かったので、自分用にメモです。 手順 塗装 派手色グミジェルで失敗部分…

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    prisoner022
    prisoner022 2008/02/06
    ひどい言われようだなぁ。手塚のキャラクターは好きじゃないんだが、ストーリーは何度読んでもすごいと思うんだが。つまり二次創作には物語は邪魔でキャラだけが求められてるってことなのかなぁ。悩む。
  • サンデー、マガジンと手塚治虫(その1) - 漫棚通信ブログ版

    1959年、「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」がほぼ同時に創刊されて以来、二誌はライバルとして戦ってきました。 創刊号の表紙はサンデーが長嶋。その前年にデビューして大活躍。マガジンの方が朝潮。いしいひさいちがマンガに描いた今のアサシオじゃなくて、もひとつ先代。このときまだ大関でした。やっぱり長嶋の方がスターです。 二誌とも初期はマンガ雑誌というより、読み物中心の少年向け総合週刊誌でした。サンデーのマンガのラインナップが、手塚治虫「スリル博士」(探偵モノ)、寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」(野球モノ)、藤子不二雄「海の王子」(SF)とポップなのに比べて、マガジンは高野よしてるのSF「13号発進せよ」はともかく、付録に水島順「新吾十番勝負」や矢野はるき「天兵童子」、誌に忍一兵「左近右近」(原作は吉川英治ね)の時代劇がメインでしたから、これは違うわ。現代まで続く、サンデーの都会っぽさ、

    サンデー、マガジンと手塚治虫(その1) - 漫棚通信ブログ版
    prisoner022
    prisoner022 2008/02/06
    手塚治虫は1963年1月から「鉄腕アトム」のTV放映が始まり、週刊連載を中断し、マンガの仕事はアトムやビッグXなど月刊誌が中心となります
  • 電子書籍.club - 

    prisoner022
    prisoner022 2008/02/05
    手塚って漫画の方では深い話やってますが、ことアニメになるとそういう要素は基本的に排除/そこに反旗を翻した一番最初のアニメが「海のトリトン」であった/アニメに初めて作家性ってものを持ち込んだのがアニメ版