昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 お金の話になると、スタッフの中には顔をしかめる者が多かった。「金を稼ぐために仕事をするのでは無く、よい仕事をする、金は二の次だ」と言う雰囲気を持っていた。金銭管理をする制作に携わる者でさえもそうであった。 虫プロでは「ナンバー7」虫プロランドの「新宝島」などの制作費、制作規模の拡大見込みでの社員の雇用費用、社員の養成所の費用、第一スタジオの拡張、屋根裏部屋の改築、交換室件守衛室や第二スタジオの建設、第3スタジオと第4スタジオの家賃、撮影室の増築や撮影機の購入、社用車の購入(ブルーバード1300を使用40年にはスカイライン1500で増車合計12台) など設備投資や人件費で、運営が苦しくなっていた。 版権収入は「原作者手塚治虫」と分けるのが本来であったが、資金不足で借金と言うこ