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ブックマーク / www.surugadai.ac.jp (52)

  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(47)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    12月18日に、第50回、ついに最終回が放送されました。慶長20年(元和元年・1615)5月7日の天王寺口の合戦、いうまでもなく大坂の陣最後の戦いであるとともに、真田信繁最後の戦いとなった合戦と、そこでの信繁の最期が扱われていました。 最終回ですので、もちろんドラマとしてのまとめになっています。そこで史実の解説をするのも野暮かとも思いますが、二つだけ触れたいと思います。 一つは、羽柴(豊臣)方の敗戦の理由。なんと羽柴秀頼の馬印の後退による、味方兵の敗戦認識だったんですね。兵士は大将の馬印・旗印をみて、自軍の優勢・劣勢を判断していました。馬印・旗印が前進していれば優勢、後退していれば劣勢と認識したわけです。合戦において、いかに馬印・旗印が大事であったかがわかります。秀頼の馬印の後退は、大野治長のケアレスミスです。しかしこれが戦況を大きく変えてしまったのです。 もう一つは、信繁の最期。信繁は、

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(47)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(46)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    12月11日に放送された第49回は、慶長20年(元和元年・1615)4月29日の樫井合戦による大坂夏の陣の開戦から、5月6日の道明寺合戦、若江・八尾合戦までが扱われていました。信繁最後の戦いの前夜までということですね。 物語も終盤となり、史実とフィクションの織り交ぜになっています。物語を終息させていくためですね。そうしたなかの一つが、信繁の・春(竹林院殿)と娘・梅、次男大八が、伊達政宗に預けられるという話。 実際には、竹林院殿は、数人の子どもとともに、大坂落城後に同城を脱出するも、19日に紀伊浅野家に捕縛されています。この時に連れていた子どもとは、五女おしょうぶ・六女おかね、次男大八とみられています。その後は、父方の叔母婿・石川貞清に扶養されて、京都で暮らしています。 またドラマでは、梅は春の子になっていますが、実際は、高梨内記の娘(「きり」)の子で、信繁の三女になります。彼女は後に伊達

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(46)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(45)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    12月4日に放送された第48回は、慶長19年(1614)12月20日の和睦成立の後から、翌同20年(元和元年)3月に、徳川方が再度の大坂攻めを決断するまでが扱われていました。実に4ヶ月近くが駆け足で扱われていたんですね。 このなかのエピソードの一つに、信繁が徳川方で在陣していた真田信吉の陣を訪問することがありました。これについては当時の史料では、まだ確認できていませんが、近世真田家での伝承からみて、ほぼ史実であったろうとみられています。信吉らが何時まで大坂に在陣していたのかは明らかではありませんが、正月下旬頃には帰陣する状況にあったようです。ちょうどその頃、大坂城の堀の埋め立てが終了し、徳川方の諸大名は相次いで帰陣していきました。信吉もそれにあわせて帰陣したのでしょう。 信繁が信吉の陣を訪れたのは、その間のことであったとみられます。そこで信繁は、兄信之からの恩(助命のことでしょう)に報いる

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(45)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/12/05
    "これについては当時の史料では、まだ確認できていませんが、近世真田家での伝承からみて、ほぼ史実であったろうとみられています。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(44)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    11月27日に放送された第47回は、慶長19年(1614)12月18日の両軍の和睦会談の開始から、20日の和議成立、22日の起請文の交換、23日からの徳川方による大坂城の堀の埋め立て開始までが取り上げられていました。 和睦会談は、実際には18日・19日の両日にわたったようで、茶々の妹・常高院(初)が大坂方の使者を務め、養子京極忠高の陣所で会談が行われました。徳川方からは、多正純と阿茶局の使者が出されました。ドラマでは、阿茶局が交渉相手で、常高院には茶々の老女・大蔵卿局が付き添っていましたが、ここらあたりは作劇上の都合になります。 和睦条件のなかに、大坂城の惣堀の埋め立てがありました。これについて江戸時代以来の通説であったのが、約束は惣構えの堀の埋め立てであり、徳川方は文言を拡大解釈して三の丸・二の丸の堀も強引に埋め立てていった、というものでした。ところが近年の研究によって、和睦条件にすべ

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(44)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/11/29
    "ところが近年の研究によって、和睦条件にすべての堀の埋め立てがあったことが確認されました。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(43)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    11月20日に放送された第46回は、慶長19年(1614)12月4日の真田丸の戦いの後から、12月18日の両軍の和睦会談にいたるまでの状況が取り上げられていました。大体は時間軸に沿っていますが、前後関係についてはやや曖昧なところもあります。これはドラマ性の重視によります。 信繁の関係では、徳川家臣になっていた叔父の真田信尹による調略がありました。これは12月14日のことです。徳川家康の家老多正純の指示により、信尹が信繁のもとに調略のために派遣されていたことが確認できます。ただし調略内容については、あくまでも伝承です。信尹の信繁訪問は2回行われたとされ、最初に10万石を与える案が提示され、信繁が応じないと、多は信濃一国に条件を引き揚げましたが、信繁はこれを聞いて多に誠意がないとして、以後は会談に応じなかった、といったことが伝えられています。会談が複数回あったとすれば、その交渉は12月中

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(43)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(42)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    11月13日に放送された第45回は、ついに作での大きなハイライトの一つ、慶長19年(1614)12月4日の真田丸での戦いが扱われていました。 合戦シーンは、わずか10数分にすぎなかったのですが、撮影は実は3日もかけた大がかりなものでした。しかもエキストラの数は、両軍合わせて300人が用意され、作で最も大がかりなシーンになっています。大迫力の合戦シーンを楽しんでいただけたものと思います。 さて前半のなかで、真田信之が大坂方に兵糧を送ろうとする話が出ていましたね。真田家が信繁に兵糧の支援をしたという疑惑は、実際にあったことでした。大坂夏の陣の後、出奔していた元信之家臣が徳川家康にそのことを訴えたものの、家康は真田家内部で解決するように処理し、信之は当該の元家臣を殺害するという手段に出ています。それとともに、大坂の陣で財政方を取り仕切っていた宿老の宮下藤右衛門を殺害しているのです。ですからこ

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(42)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/11/14
    "真田家が信繁に兵糧の支援をしたという疑惑は、実際にあったことでした。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(41)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    11月6日に放送された第44回は、ついに大坂城の出城「真田丸」の築造が扱われていました。その他にも今回は、信繁軍の軍装が赤備になったり、徳川軍が大坂に布陣したり、信繁の姉松(村松殿)が信之の伝言を伝えるため、踊り子に紛れて徳川方の真田陣に来たり、信之が小野お通にお悩み相談していたり、大坂城の台所頭・大角与左衛門が登場したり、徳川方の兵士はほとんどが新米で、そのため家康が「仕寄せ」の作り方を指導したり、などなど、様々な話が盛り込まれていました。 それらの話は、史実をもとにしたものもある一方、創作のものもありますが、創作であったとしても、当時の社会状況を表現するものであったり、その後の歴史展開の布石になっているものもあったりと、いずれも一筋縄にはいかない、かなり手の込んだものになっています。例えば、松の踊り子への扮装ですが、これは戦陣では人の通行が周囲から遮断されていた状況を踏まえたもので、そ

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(41)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(40)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    10月30日に放送された第43回は、大坂城での戦略が籠城に決する過程が扱われていました。 大坂方が徳川方を迎え撃つに際して、信繁が出撃策を提案したが、これが羽柴(豊臣)方首脳によって否定され、籠城策に決した、という今回の話の内容は、江戸時代からみられているものです。「真田丸」では、江戸時代成立の話であれば、基的に採用の対象とする、としてきましたので、この話を取り上げるのはもちろんアリになります。 しかしながら、この話が史実であったかどうか、というのは別の話になります。信繁が出撃策を提案したという、確かな記録があるわけではないからです。はっきりしていることは、大坂方では、当初から羽柴(豊臣)家の家老大野治長や、秀頼の後見役であったらしい織田有楽斎の主導のもと、籠城策が採られた、ということです。信繁の出撃策は、話を面白くするために、どうやら江戸時代人が創作したもののようです。 さてドラマでは

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(40)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/11/03
    "はっきりしていることは、大坂方では、当初から羽柴(豊臣)家の家老大野治長や、秀頼の後見役であったらしい織田有楽斎の主導のもと、籠城策が採られた、ということです。"
  • 真田丸×駿河台大学 - 時代考証担当の駿河台大学教授 黒田基樹がNHK大河ドラマ「真田丸」の見どころを解説します。

    学法学部の黒田基樹教授は、日史の中でも戦国史について研究をしており、2016年1月から始まった NHK 大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当しています。 時代考証とは、三谷幸喜さんが書かれている脚が出来上がるまでに、史実と脚に違いがあるかないか、時代感が合っているかどうか、などチェックする仕事です。 黒田教授には戦国時代の研究家として多数の著書があり、今まで書いた単著の冊数は20冊を超えます。今回NHKから大河ドラマ「真田丸」の時代考証を依頼されたことがきっかけで執筆された、『真田昌幸』(小学館)を2015年11月に発表しました。その後、第2弾『「豊臣大名」真田一族』(洋泉社刊)、第3弾『真田信之 真田家を継いだ男の半生』(角川選書569)を2016年3月に、さらに第4弾として『真田信繁』(戎光祥出版)を10月に出版します。 黒田 基樹/東京都生まれ 【経歴】 1989年 早稲田大

    真田丸×駿河台大学 - 時代考証担当の駿河台大学教授 黒田基樹がNHK大河ドラマ「真田丸」の見どころを解説します。
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(39)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    10月23日に放送された第42回は、信繁が大坂城に入城してから、「大坂五人衆」が誕生するまでが扱われていました。 前半のなかで、信繁の大坂入城を報された徳川家康が、「親か子か」と言って、掴んだ戸をガタガタ震わせる、というシーンがありましたが、これは江戸時代から伝えられている有名なエピソードになります。実際には、すでに昌幸の死去は承知していたはずですので、そもそもが江戸時代の創作になるわけですが、あまりにも有名なエピソードなので、あえて取り上げた、というものでしょう。こうしたシーンがさりげなく入っているのです。 さて「大坂五人衆」というのは、大坂牢人衆の大将格をいい、江戸時代中期にまとめられた「落穂集」という書物にみえているものです。毛利吉政(いわゆる勝永)・長宗我部盛親・真田信繁が元羽柴家直臣のため三人衆とされ、これに陪臣層の後藤正親(いわゆる基次)・明石全登を加えて五人衆とされた、といわ

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(39)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(38) |学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    10月16日に放送された第41回は、慶長19年10月初旬、信繁が大坂城に入城する様子が扱われていました。 ドラマでは入城の際、信繁は白髪の老人に扮装していましたが、これはもちろん創作です。ところがそれには基になるエピソードがありました。この年のことと推測される2月、信繁は姉婿の小山田茂誠に送った手紙のなかで、「急に老けて、歯も抜け、髭も黒いところがなくなった」と述べています。劇中での扮装は、もちろんこれをもとにしたもので、ちょっとしたおふざけ、といえるでしょう。こうした史実を知っていると、何気ない演出にも意味があったことがわかってくるのです。 さて大坂城には、諸国からの牢人が入ってきていました。そのなかの有力者は、後に「大坂五人衆」と呼ばれるようになります。信繁ももちろんその中の一人です。今回、新たに後藤基次と毛利勝永が登場してきました。両者とも、一般的にはその名で知られているのですが、現

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(38) |学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/10/17
    "今回、新たに後藤基次と毛利勝永が登場してきました。両者とも、一般的にはその名で知られているのですが、現在のところ、「基次」にしろ「勝永」にしろ、当時の史料では確認されていません。"
  • 教員書籍の紹介 Vol.9 「真田信繁」|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    2016年NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を務める法学部長・黒田基樹教授が、『真田信繁』(戎光祥出版)を出版しました。 『真田昌幸 徳川、北条、上杉、羽柴と渡り合い大名にのぼりつめた戦略の全貌』(小学館)、『「豊臣大名」真田一族 真説関ヶ原合戦への道』(洋泉社)、『真田信之 真田家を継いだ男の半生〈角川選書〉』(KADOKAWA)に続く、真田第4弾です。 このでは、ドラマ「真田丸」の主人公・真田信繁の生涯を、最新の研究成果に基づいてまとめました。ドラマ放送開始後、研究はかなり進歩しましたが、その成果を簡略にまとめていますので、最新の信繁像を知りたい方にお薦めです。 また文章だけでなく、多数の写真や図版が挿入されていて、ちょっとした「図説」という感じになっています。信繁関係の遺品の写真を眺めるだけでも楽しいものになっていると思います(戎光祥出版、1500円税別)。

    教員書籍の紹介 Vol.9 「真田信繁」|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(37)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    10月9日に放送された第40回は、慶長19年秋に大坂の陣が勃発するまでの豊臣と徳川の政治対立の過程、そして信繁が大坂城に入城する決心を固めるところが扱われていました。 前半の豊臣と徳川の政治対立では、有名な方広寺鐘銘事件から羽柴(豊臣)家宿老片桐且元の大坂城退去が取り上げられていました。従来は、家康は確信的に秀頼を潰そうとしていた、とみられていましたが、近年になってようやくそれらの政治過程について再検討がみられるようになりました。まだ全貌が明らかになるまでにはいたっていませんが、家康側に確信的な行動があったとみるよりも、両者のすれ違いによるところが大きかったとみられるようになっています。そのためドラマでも、その雰囲気が出されていましたね。 後半では、信繁が「幸村」に名を変えることがとりあげられていました。この解説(1)でも述べたように、「幸村」は江戸時代半ばの創作による名です。もちろん制作

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(37)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/10/10
    "従来は、家康は確信的に秀頼を潰そうとしていた、とみられていましたが、近年になってようやくそれらの政治過程について再検討がみられるようになりました。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(36)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    10月2日に放送された第39回は、慶長16年(1611)6月の昌幸死去の後から、同19年秋の大坂の陣勃発直前までが扱われていました。 今回の話は、数少ない史実や伝説をもとに、昌幸死後の九度山での信繁の暮らしぶりが取り上げられていました。とはいえ、確かな史実となると、信繁が出した書状4通ほどがあるにすぎません。内容は兄信之に仕送りなどを依頼していたり、信之の家臣に暮らしの寂しさを伝えていたりしています。 九度山での生活は、信之からの仕送りによって賄われていました。毎年の仕送り金は100両(1000万円ほど)であったようで、それ以外にも紀伊浅野家から50石(500万円ほど)の支援金をうけていたようです。しかし昌幸・信繁の暮らしはそれでも賄えないほどであったらしく、たびたび臨時の仕送りをうけています。わかっている額として40両(400万円ほど)がみえています。 九度山の生活は、少なくとも1500

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(36)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(35)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    9月25日(日)に放送された第38回は、昌幸・信繁が配流先の紀伊国九度山に入ってから、慶長16年(1611)6月16日に、昌幸が死去するまでが扱われていました。 時代考証という立場からすると、この回で何よりも取り上げたいのが、九度山村と隣村との争いに際しての、信繁の発言です。秀吉の時に、村同士の争いは禁止され、争いの際に死人が出たら、双方の村の代表者が磔にされる、という内容のものです。これは秀吉の時期からみられた「喧嘩停止令」を意味しています。 「真田丸」では、第3回に村同士の争いを取り上げて以降、戦国時代に普遍的にみられていた村同士の争いが、社会の平和化のなかで、どのように変化していったのか、ということについて意識的に取り上げていただきました。第12回では、鉄火起請を取り上げて、村同士の争いについて大名が訴訟を受け付けるものの、きちんとした判断ができない場合に、「神裁」を行っていたことを

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(35)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/09/26
    "今回、九度山村の武力行使の話を出しているのは、そうした社会の変化をこのドラマのなかで回収させるためでした。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(34)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    9月18日(日)に放送された第37回は、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦後から、昌幸・信繁が配流先の紀伊国九度山に入るところまでが扱われていました。 昌幸らの軍事行動は9月23日まで行われていましたが、合戦の結果をうけてか、その後は停止し、12月13日までに徳川家康に降伏、その日に上田城を明け渡し、高野山に赴きます。その際、通説では、嫡子の信幸が家康に対し、昌幸らの助命を懸命に嘆願したとされます。ドラマでもこれが採用されています。 実際をみると、信幸はこの間に、家康に昌幸の赦免の嘆願のために上洛しており、また家康重臣の誰かもそれを支援するために上洛しています。ここでの嘆願は、状況からすると、すでに助命は決定されていて、さらに配流の赦免ではなかったかと思われます。翌年も、信幸は赦免を嘆願、慶長8年初め頃には、赦免はかなり現実味を帯びていたようです。しかし結局、昌幸は「公儀(徳川家)御憚り

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(34)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/09/19
    "ところがよく調べてみると、信之は慶長13年から同17年の間、元の「信幸」に戻しているのです。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(33)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    9月11日(日)に放送された第36回は、「犬伏の別れ」から、関ヶ原合戦における真田版、いわゆる第二次上田合戦が扱われていました。 昌幸・信繁が上田城へ戻る途中で、信幸の拠沼田城を訪れた際、信幸の稲(小松殿)に追い払われたシーン、これは江戸時代から伝わるエピソード通りでした。しかし実際には小松殿はこの時、拙著『「豊臣大名」真田一族』(洋泉社)でも述べたように、大坂で石田方に人質に取られていたと考えられます。ですからこのエピソード自体は、創作と考えられるのですが、あまりに有名なので、ドラマでこれを取り上げないわけにはいきませんよね。 そこで取られているのが、石田方が人質を取り始めたのをうけて、急遽、沼田に戻るという設定です。これでエピソードとの整合をとったわけです。大坂脱出が17日、沼田到着が22日、あしかけ6日の行程ですが、これが可能なのかどうかなどと考えるのは野暮というものでしょう。

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(33)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/09/12
    "とくに近年明らかになった、秀忠軍の当初の目的が上田城攻略、西上は家康からの突然の作戦変更によったことが、しっかりと踏まえられていました。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(32)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    9月4日(日)に放送された第35回は、第二次上田合戦・関ヶ原合戦への直前、真田家にとって最大の分岐点となった、慶長5年(1600)7月21日の「犬伏の別れ」が扱われていました。 当然ながら、「真田丸」のなかでも最大の見せ場の一つとして作られていました。しかも後半の、昌幸・信幸・信繁の会談、その後の信幸と信繁の対話は、作中でも最高、さらには大河ドラマ史上にも残るような名演だったように思います。 しかしこの「犬伏の別れ」、確かな史料ではその内容はほとんど不明なんです。確かなのは、その日の夜に昌幸・信繁が戦陣を離脱し上田に向けて帰還したこと、それらの家来はあわててその後を追っていったこと、会談は父子3人だけで行われたらしく、その内容は不明であること、信幸だけが残って、24日に徳川家康のもとに参陣したこと、くらいです。 ところが江戸時代になって、会談の内容について様々な推測がされ、時代が下るにつ

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(32)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/09/06
    "残念ながら史実ではないとみられます。河原綱家はこの時、大坂の昌幸屋敷の留守居として大坂にいたからです。しかしドラマではこれを取り上げないわけにはいきませんよね。"
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(31)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    8月28日(日)に放送された第34回は、慶長4年(1599)1月21日の事件の後から、翌5年6月の徳川家康による上杉討伐出陣までが扱われていました。いよいよ関ヶ原合戦への展開ですね。 今回、大坂城に居る茶々についての呼び方が、「おかみさま」となっていましたね。字をあてると「御上様」です。秀頼が誕生して以降、茶々は、「御袋様」「御上様」「御台様」などと呼ばれました。事例的には「御袋様」が多いのですが、三谷さんの選択で「御上様」が採用されました。 「御上様」というのは、前当主の後家、現当主の母ないし、の意味があります。茶々は、一般的には秀吉の「側室」と理解されています。そのためドラマでも、視聴者が認識しやすいようにと「側室」として扱っています。しかし実際には、「正室」「側室」の区別は江戸時代になってからのもので、この当時はまだ複数のが存在するという状況でした。寧々(北政所・浅野寧々)も茶々

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(31)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
  • 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(30)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学

    8月21日(日)に放送された第33回は、慶長4年(1599)1月21日の事件だけが扱われていました。この日は、前回も少し触れましたが、四大老・五奉行の詰問使が伏見の徳川家康のもとに派遣された日になります。ドラマでは、石田三成が家康を襲撃するという内容になっています。しかしこの日だけで1話分があてられていたことに、私も驚きました。 実際のところでは、詰問使の派遣によって伏見は騒然となり、家康を支持する大名たちによって徳川屋敷の警固が行われます。家康自身も、江戸から軍勢を上せています。何よりもそこでは、大谷吉継が警固に参加しています。この頃の吉継は、家康支持だったのです。そして何と、吉継との関係から、真田昌幸・信幸・信繁の一族も警固に参加したんですね。そのあたりについては拙著『「豊臣大名」真田一族』(洋泉社)で取り上げました。 秀吉の死去から関ヶ原合戦までの政治抗争のなかで、真田一族の動向がみ

    大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(30)|学部・研究科レポート-法学部|駿河台大学
    prisoneronthewater
    prisoneronthewater 2016/08/23
    "秀吉の死去から関ヶ原合戦までの政治抗争のなかで、真田一族の動向がみられたのは、実はこの時だけでした。ドラマがあえてこの日に焦点をあてているのは、そのためなんですね。"