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副島種臣の検索結果41 - 80 件 / 123件

  • 鉄道トリビア(224) 日本の鉄道事始め、新橋~横浜間の開業式典列車には誰が乗っていた?

    10月14日は「鉄道の日」。これは旧暦の9月12日にあたり、明治5年に新橋~横浜間で日本の鉄道が正式に開業した日だ。国鉄時代は「鉄道記念日」と呼んだけれど、現在は「鉄道の日」として、すべての鉄道会社の記念日となった。ところで、日本の鉄道の開業日、記念式典列車は何両編成で、誰が乗っていたのだろう? その資料は、2012年に「品川歴史館」(東京都品川区)で開催された「鉄道開通140周年記念 品川鉄道事始め -陸蒸気が品川を走る-」で公開された。原典は1974(昭和49)年に編さんされた『日本国有鉄道百年史』とのことだ。その資料によると、開業記念式典列車は客車9両で構成されていた。機関車は2号蒸気機関車だった。来賓客は明治天皇のほか、政府高官、各国の公使たちであったという。 明治の歴史上の人物が多数乗車 客車9両の乗客たちを詳しく見ていこう。まず機関車寄りの1号車と2号車は近衛護衛兵が乗車してい

      鉄道トリビア(224) 日本の鉄道事始め、新橋~横浜間の開業式典列車には誰が乗っていた?
    • 甲申政変 - Wikipedia

      甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日(時憲暦光緒十年十月十七日)に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した[1]。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。 背景[編集] 閔妃とされてきた写真 1880年代前半、朝鮮の国論は、清の冊封国としての立場の維持に重きをおいて事大交隣を主義とする守旧派(事大党)と朝鮮の近代化を目指す開化派に分かれていた。後者はさらに、国際政治の変化を直視し、外国からの侵略から身を守るには、すでに崩壊の危機に瀕している清朝間の宗属関係に依拠するよりは、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき親清開化派(事大党)に分かれていた[2]。親清開化派は、清国と朝鮮の

        甲申政変 - Wikipedia
      • 後藤象二郎 - Wikipedia

        後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。 生涯[編集] 生い立ち[編集] 後藤象二郎生誕地(高知市) 土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。母は大塚勝従の長女。幼名は保弥太(やすやた)。通称は良輔(りょうすけ)だったが、後に象二郎と改名。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。 板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。仲の良かった理由の一つには、互いに遠縁の親戚であったことが挙げられる[1]。 父の

          後藤象二郎 - Wikipedia
        • 黒田清隆 - Wikipedia

          黒田 清隆(くろだ きよたか、旧字体:黑田 淸隆󠄁[注釈 1]、1840年11月9日〈天保11年10月16日〉- 1900年〈明治33年〉8月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家[1]。1888年(明治21年)から1889年(明治23年)にかけて第2代内閣総理大臣を務めた[1]。陸軍軍人としての階級は陸軍中将。栄典は従一位大勲位伯爵。通称は仲太郎、了介。 概要[編集] 薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。開拓次官、後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872年)まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊

            黒田清隆 - Wikipedia
          • 【号泣】佐賀県、大河ドラマに無視されすぎ問題 - U-NOTE[ユーノート] - 仕事を楽しく、毎日をかっこ良く。 -

            遂に始まりました、大河ドラマ『西郷どん』。方言が激しくてテロップがないと何を言ってるかわからないって話題になってますが、こういう時字幕放送は便利ですね。いやぁ、それにしても10年くらい前から幕末、戦国、幕末、戦国、ひとつ飛ばしてまた幕末、戦国、幕末、戦国、戦国、幕末と、幕末と戦国を行ったりきたりしている大河ドラマ。『篤姫』『龍馬伝』『八重の桜』に『花燃ゆ』と、薩摩、土佐、会津に長州……日本史でも習いましたもんね。明治維新は幕末の雄藩「薩長土肥」が主力となってなされたって……うん、うん、うん……って、おーい!肥(肥前)はどこへ行ったよ!!!肥前どこ行ったよ!明治維新の立役者と日本史の授業やテストで出題され、漫画とかでもよく登場するこの言葉「薩長土肥」。今で言うと、薩摩 → 鹿児島長州 → 山口土佐 → 高知肥前 → 佐賀肥は?ねえ肥は??肥、僕の地元なんですけど?何でまた薩摩?10年前に『篤

              【号泣】佐賀県、大河ドラマに無視されすぎ問題 - U-NOTE[ユーノート] - 仕事を楽しく、毎日をかっこ良く。 -
            • 明治天皇 坂本竜馬 勝海舟 伊藤博文 西郷隆盛 大熊重信 高杉晋作 桂小五郎 大久保利通が一緒に写っている写真 てんさい(い)

              明治天皇 坂本竜馬 勝海舟 伊藤博文 西郷隆盛 大熊重信 高杉晋作 桂小五郎 大久保利通が一緒に写っている写真 http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/503.html 投稿者 てんさい(い) 日時 2004 年 8 月 22 日 00:40:15:KqrEdYmDwf7cM (回答先: Re: 第五章 解き明かされる明治維新の裏(新潮社) 投稿者 野田隼人 日時 2004 年 8 月 19 日 10:23:34) 近代日本とフルベッキ の画像を見やすいように調整し、検索しやすいように名前を記載してみました。 http://www.asyura2.com/0406/bd36/msg/340.html 写真に写っている人たち明治天皇     え? 坂本竜馬 龍馬 勝海舟 伊藤博文 西郷隆盛 大熊重信 高杉晋作 桂小五郎 大久保利通 中野健明 中島

              • 現代人が過去に行ったとして、言葉が通じるのはどの時代までなんだ? : マネーニュース2ch

                2013年12月04日09:47 カテゴリいろんなネタ 現代人が過去に行ったとして、言葉が通じるのはどの時代までなんだ? 3 : リバースパワースラム(東日本) 2013/10/12(土) 18:24:25.52 ID:Vly5SyaOP 縄文余裕 9 : ニーリフト(内モンゴル自治区) 2013/10/12(土) 18:28:03.19 ID:5KBXqAzVO 飛鳥から桶狭間ぐらい 12 : ドラゴンスープレックス(愛知県) 2013/10/12(土) 18:29:10.19 ID:aLQZciAH0 標準語がない時代だともう無理じゃね 江戸時代でも地方によっちゃ無理だろう スポンサードリンク 13 : バズソーキック(関西・東海) 2013/10/12(土) 18:29:51.10 ID:l0/ea8tnO 平等院鳳凰堂を、びゃうだういんはうあうだう と言えば 元寇の頃の日本人

                  現代人が過去に行ったとして、言葉が通じるのはどの時代までなんだ? : マネーニュース2ch
                • 大久保利通が台湾出兵を決断し、自ら清国との談判に臨み賠償金を獲得したこと

                  明治六年(1873年)十月に大久保利通、岩倉具視が、西郷隆盛を韓国に特使として派遣する太政大臣三條實美の決定を覆したことから、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らが辞表を提出して下野し、彼らに近い官僚・軍人の約六百人が職を辞した(明治六年の政変)のだが、大久保利通は、西郷らが職を辞したわずか四ヶ月後の明治七年(1874年)二月に台湾出兵を計画し、五月に出兵している。教科書などでは大久保が征韓論に反対したのは、国内改革を優先したなどと書かれているのだが、内治を優先する方針であるならば、台湾出兵についても反対でなければ筋が通らない。なぜ、大久保は台湾出兵を行ったのか。今回はその間の事情について書くこととしたい。 明治初期の台湾問題 そもそも明治初期において台湾と日本との間にどのような問題が起きていたのだろうか。木戸孝允の伝記に明治四年(1871年)に那覇港を出帆した宮古島の船が

                    大久保利通が台湾出兵を決断し、自ら清国との談判に臨み賠償金を獲得したこと
                  • 佐賀の七賢人

                    大隈重信 佐野常民 江藤新平 鍋島直正 副島種臣 島義勇 大木喬任 佐賀県民には常識

                      佐賀の七賢人
                    • 杉原千畝だけではない、ユダヤ人を救った日本人 もっと焦点を当てていい、日本人の人道支援 | JBpress (ジェイビープレス)

                      リトアニアの首都ビリニュス(Vilnius)にある杉原サクラ公園(Chiune Sugihara Sakura Park)で、桜の花を楽しむ人々〔AFPBB News〕 安倍晋三首相がリトアニアのロレータ・グロウジニエネ国会議長と3月2日に首相官邸で会談した記事があった。その中で首相は第2次世界大戦中にナチスに迫害されたユダヤ人にビザを発給し、命を救った駐リトアニア領事代理の杉原千畝氏に触れ、「多くの日本人が杉原氏を通じてリトアニアに関心を持っている」と述べたという。 会談相手がリトアニアの国会議長であったので、話が杉原氏に及んだのは理解できる。 ただ、アドルフ・ヒトラーのナチに迫害されていたもっと多くのユダヤ人を救出した日本人がほかにもいて、イスラエルで最も権威ある顕彰を受けていた軍人たちがいたことを知っておくことは、歴史の中の日本および日本人を考える上で大切なことであり、また今後の難民

                      • 反憲法学生委員会全国連合 - Wikipedia

                        この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "反憲法学生委員会全国連合" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年3月) 反憲法学生委員会全国連合(はんけんぽうがくせいいいんかいぜんこくれんごう)とは、1968年(昭和43年)に結成された民族派学生組織、全国学生自治体連絡協議会(全国学協)の後継団体の一つ。「反憲-民族自立路線」の下、「戦後・近代の超克」、「真正国家創出」を目的として活動していた。略称は「反憲学連」。機関紙は『先駆者』。 全国学生自治体連絡協議会(全国学協)の結成[編集] 1966年(昭和41年)、左翼学生による長崎大学の西町学生会館占拠を批判し、“学

                        • 大久保利通と「公娼」

                          「御一新」(明治維新)をくぐり抜けて公娼という制度(「公娼制度」、公娼制)が作られていく過程における、近代日本創成期の指導的政治家である大久保利通(初代内務卿)の役割について検討する[1]。 1.農奴解放・奴隷解放・「芸娼妓解放」 2.公娼制の再確立 3.内務卿大久保利通・伊藤博文による公娼制の近代化 4.司法省を抑えて東京警視庁・地方官の管轄へ 5.考察 1.農奴解放・奴隷解放・「芸娼妓解放」 オールコックの『大君の都』 幕末の日本における、人身売買と遊廓等での性売買の慣行(総じて江戸時代の公娼制)は、すでにある程度知られた事実であった。大英帝国の初代駐日公使オールコック(Rutherfort Alcock)が『大君の都』(THE CAPITAL OF THE TYCOON, 1863)で厳しく批判していたからである。日本では「父親が娘に売春させるために売ったり、賃貸ししたりして、しかも

                          • 明治四年一月に廣澤眞臣を暗殺した黒幕は、政権中枢にいた人物ではなかったか

                            明治十七年(1884年)に山崎之人が著した『維新元勲十傑論』という本がある。この本において著者は明治維新に尽力した志士の十人として、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、江藤新平、横井平四郎(小楠)、大村益次郎、小松帯刀、前原一誠、廣澤兵助(眞臣)、岩倉具視を挙げて、それぞれの伝記を記している。これらのメンバーのうち横井、大村、廣澤の三人は明治の初期に相次いで暗殺されており、そのうち大村、廣澤は長州藩の人物である。 廣澤眞臣 (Wikipediaより) 明治二年(1869年)に起きた横井小楠暗殺事件、大村益次郎の暗殺事件についてはすでにこのブログで書いたのだが、この二件については暗殺された事情も一通りわかっていて、その下手人も捕らえられ処刑もされている。しかしながら、明治四年(1871年)の一月に起きた廣澤眞臣(ひろさわ さねおみ)の暗殺事件については、彼が何のために暗殺され、下手人が誰であった

                              明治四年一月に廣澤眞臣を暗殺した黒幕は、政権中枢にいた人物ではなかったか
                            • 哲学堂公園

                              哲学堂公園は、明治39年に東洋大学創立者井上圓了博士によって精神修養の場として開設されました。哲学や社会教育の場として整備された全国に例を見ない個性的な公園といえます。昭和50年に中野区立公園となってからも、古建築物の修復、整備を重ね、又区内でも有数の花の名所として親しまれる公園となっています。 園内ガイドマップ 由来 哲学者、東洋大学創立者の井上圓了博士が、明治37年小石川原町(文京区白山)に開設された哲学館大学(現東洋大学)を記念して「四聖堂」を建設し、これが「哲学堂」とも称されたのが、哲学堂の名の起こりです。 歴史 源頼朝の重臣、和田義盛の城址 明治32年 井上圓了博士 土地購入 明治37年 「四聖堂」建設 明治39年 「精神修養公園」とする 明治42〜45年 哲理門、六賢臺、三學亭、常識門、髑髏庵、無盡藏建設 大正2〜4年 宇宙館、絶對城、鬼神窟建設 昭和19年  東京都に寄付 昭

                              • 有栖川宮 - Wikipedia

                                邸宅[編集] 本邸(京都時代) 有栖川宮の本邸宅の場所は、京都・東京時代を通じ、火災焼失等による仮住まいの期間を除いても複数回の移転があった。 初代好仁親王の時代からほぼ江戸時代を通し、京都御所の北東部分にあたる猿ヶ辻と呼ばれた場所に屋敷が存在した。この地は幟仁親王時代の慶応元年(1865年)に、御所の拡張用地として召し上げられた。慶応2年(1866年)までに、跡地は京都御所の敷地に編入されるか道路に転用されたため、建物等の遺構は現存しない。 代わりに下賜されたのが、現在の京都御苑内で「有栖川宮邸跡」の碑が建つ、御所建礼門前の御花畑跡であった(この地は直前まで京都守護職が仮宿舎として利用していた)。この場所に明治2年(1869年)に新御殿が落成したが、わずか3年後の明治5年(1872年)、すでに奠都によって東京に移っていた明治天皇からの呼び寄せにより幟仁親王も東京へ転住することになったため

                                  有栖川宮 - Wikipedia
                                • 西郷慎吾(従道)はどんな人?大器だが能天気な西郷どんの弟

                                  兄より過激な攘夷志士になった西郷慎吾 西郷従道は、1843年天保十四年、西郷吉兵衛(さいごうきちべい)の三男として誕生します。 兄である西郷隆盛(さいごうたかもり)とは、15歳も年が離れていました。 幼名は竜介で、剣術は薬丸自顕流(やくまるじけんりゅう)、兵学を伊地知正治(いじちまさはる)に学び 有村俊斎(ありむらしゅんさい)の推薦で島津斉彬(しまづなりあきら)の茶坊主として仕えます。 茶坊主というと、お茶を立ててばかりいそうですが、 薩摩藩の茶坊主は雑用係で貧しい武士に小遣い銭を与える仕事で 従道も色々な事をやっていたようです。 1861年、18歳で元服し本名を隆興(りゅうこう)、通称を慎吾(しんご)にすると、 島津斉彬を信奉する精忠組(せいちゅうぐみ)に入ります。 そこでは、大久保より急進派の攘夷主義者(じょういしゅぎしゃ)有馬新七(ありましんしち)の大きな影響を受け、 従兄弟の大山巌

                                    西郷慎吾(従道)はどんな人?大器だが能天気な西郷どんの弟
                                  • 全国学生自治体連絡協議会 - Wikipedia

                                    全国学生自治体連絡協議会(ぜんこくがくせいじちたいれんらくきょうぎかい)とは、1969年5月4日に結成された民族派学生組織[1]。通称全国学協。機関紙は『全国学生新聞』。理論誌は『アバンギャルド』。 全国学生自治体連絡協議会(全国学協)の結成[編集] 1966年(昭和41年)、全国反帝学生評議会連合(反帝学評。社青同解放派の学生組織)による長崎大学の西町学生会館占拠を、一般学生(有志会)が批判し、“学園正常化”の運動を起こし、同年10月には教養部自治会の奪権に成功する。この学生たちが1967年(昭和42年)7月に、全学連、全共闘に対抗する恒常的な組織として結成したのが長崎大学学生協議会(長大学協。椛島有三議長)である。 やがて、これら「学園正常化」の動きは、長崎大学から、他の九州の大学へも広がり、次々と学生協議会(学協)が結成された(大分県では別府大学の井脇ノブ子、大分大学の衛藤晟一が参画

                                    • 江藤新平と佐賀の乱~~戦争煽動責任は政府にあるのではないか

                                      前回の「歴史ノート」で、明治六年十月に大久保利通や岩倉具視が征韓論に大反対して、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らは辞表を提出して下野し、彼らに近い官僚・軍人の約六百人が職を辞した政変について書いたが、今回はその後の江藤新平に焦点を当てて書くこととしたい。 明治六年の政変直後の情勢 維新以来、明治新政府に対して不満を持つ者が少なくなくなかったのだが、征韓論が破裂したことで、各地で不満が爆発しそうな不穏な情勢となっていた。 渡辺幾治郎 著『大隈重信 : 新日本の建設者』には、政変直後の情勢についてこう解説されている。 征韓論の破裂で、朝野に於ける新旧主義の衝突は到底免れぬ勢いとなった。維新以来、明治新政府に対する不平の徒、西洋文明の輸入を嫌った保守主義者、攘夷の流れをくむ国権論者、封建制度が撤廃から浮かぶ瀬もなくなった不平士族、薩長専制に対する閥外の不平家等々、総て現制度、

                                        江藤新平と佐賀の乱~~戦争煽動責任は政府にあるのではないか
                                      • 佐賀の乱 - Wikipedia

                                        東京鎮台 第3砲隊:144名 大阪鎮台 第4大隊:579名 第10大隊:631名 熊本鎮台 第11大隊:647名 第19大隊1個小隊 海兵隊 陸戦隊2個小隊 砲兵1個小隊 貫族隊 前山隊(中立党) 出動のみ(戦に関わらず) 近衛歩兵第2連隊 :1170名 東京鎮台 1個中隊:180名 大阪鎮台 第18大隊:704名 砲兵第7大隊1個小隊:127名 広島鎮台 第15大隊3個中隊:492名 佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役[1]、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。 佐賀軍の概要[編集] 征韓論問題で下野した前参議江藤新平を擁する中島鼎蔵等の征韓党と、前侍従・秋田県権令島義勇

                                          佐賀の乱 - Wikipedia
                                        • 詔勅 - Wikipedia

                                          「おことば」を述べる天皇 2019年(令和元年)、即位礼正殿の儀 詔勅(しょうちょく)は、大和言葉で「みことのり」といい、天皇の御言(みこと)を宣る(のる)という意味である[1]。明治維新後は綸言(天皇の言葉)を通じて詔勅と称した[2]。昭和戦中期には勅旨(天皇の意思)を総じて詔勅と称した[3]。天皇の叡慮を伝える詔書、勅書、勅語の総称である[4]。 昭和戦前期の憲法学では、天皇の直接の叡慮(意思)を外部に表示したものを詔勅と呼んだ。天皇の大権が外部に表示される形式のなかでも詔勅が最も重要なものとされた。文書による詔勅には天皇が親署した後、天皇の御璽か国璽を押印した。口頭による詔勅もあり、これを勅語といった[5]。 上古の詔勅[編集] 討幕の密勅 律令制以前、古くから天皇の言葉を指して、万葉仮名で美古登(みこと)と称した。これは御言という意味であった。また意富美古登(おほみこと)とも称した

                                            詔勅 - Wikipedia
                                          • <歴史の小径>西郷隆盛「遣韓論」を哂う 田村貞雄

                                            (原文は縦書) 一、太史ノ簡、董狐ノ筆 学界ではとっくに破産した毛利敏彦氏の「遣韓論」の亡霊が、世間ではなお蠢いている。インターネットでは荒唐無稽な西郷論が横行しているし、二〇〇七年三月には、鹿児島県知事が教科書会社に改訂を要求し、一社が応じたと報道された。この件に関する歴史教育関係者の反応は鈍い。最近では敬愛する佐高信氏までが、『西郷隆盛伝説』(角川学芸出版 二〇〇七年四月)において、毛利説を援用されている。 しかし歴史研究者の第一の使命は、たとえ皇帝国王の命たりとも、また圧倒的な世論の非難があろうと、ひたすら史料を調査研究して史実を究明し、その結論を書き残すことにある。かって宋の文天祥が、「天地正気歌」において、「在齊太史簡,在晉董狐筆(齊ニ在リテハ太史ノ簡[1],晉ニ在リテハ董狐ノ筆[2])」と歌った通りである。 小生は非力にして、到底、太史の簡、董狐の筆には及ばないが、「遣韓論」

                                            • 佐賀の七賢人 - Wikipedia

                                              この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "佐賀の七賢人" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年11月) 佐賀の七賢人(さがのしちけんじん)は、江戸時代末期(幕末)から明治維新にかけて活躍し、その後も功績を残した、佐賀藩(今の佐賀県)出身の七人、鍋島直正、島義勇、佐野常民、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信の総称である[1]。 これらの人物は明治時代頃から顕彰されていたものの、「七賢人」と総称されるようになったのは昭和56年(1981年)ごろからであるという[2]。佐賀県においては一定の知名度を持ち、2017年10月に佐賀新聞が行った調査では、10.2%の回

                                              • 佐賀県☆彡偉人モニュメント『大隈重信 副島種臣像』☆彡 - mika旅❣ぐるっと🚙★Collection★blog

                                                佐賀市中央通りに設置されている偉人モニュメント 11名の偉人の一つ 『弘道館で学んだ若き日の賢人たち』 大隈重信 早稲田大学の創設者 副島種臣 『正義の人』として許された外務卿 mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com

                                                  佐賀県☆彡偉人モニュメント『大隈重信 副島種臣像』☆彡 - mika旅❣ぐるっと🚙★Collection★blog
                                                • 警察庁の『漫画・アニメ・ゲーム表現規制法』検討会問題まとめ @Wik - kyou01.htm 日本基督教婦人矯風会とは?(1)

                                                  ここでは、本文である、『誰のための法律か?『児童ポルノ禁止法』に関する基礎知識』からは紙数の都合により削除された、児ポ法に関する様々なデータを追加する。まずは日本で児ポ法をポルノ狩りに利用している疑惑をもたれている、エクパット東京と密接な関わりのある『日本基督教婦人矯風会』について語っていきたいと思う。 国家や共同体の周辺部、悪く言えば辺境の地域には、ラディカルな活動家、言論人を輩出する傾向、あるいは彼らを引き寄せる魅力をたたえている。この原則は日本にも当てはまり、北海道や九州出身の、またはそれらの地域を重視する過激な言論人は後を絶たない。 明治維新前の日本でも、仙台藩の林子平(ただし江戸出身)がロシアの南下を説いた「海国兵談」や「蝦夷国全図」を著して物議を醸し出したし、同じく仙台藩医の工藤平助が「赤蝦夷風説考」を著して幕府の政策に少なからぬ影響を与えている(どちらも仙台藩=現在の宮城県で

                                                    警察庁の『漫画・アニメ・ゲーム表現規制法』検討会問題まとめ @Wik - kyou01.htm 日本基督教婦人矯風会とは?(1)
                                                  • 地元の偉人さんを知る。佐賀の場合と福井の場合 - コバろぐ

                                                    佐賀市がとあるアンケートを実施したらしくて。佐賀の七賢人って知ってる?ってアンケートだったらしいんですけど、その結果が…。 七賢人1人も知らぬ25% 佐賀市アンケート|佐賀新聞LiVE ちなみに、佐賀の七賢人ってのは大隈重信、佐野常民、江藤新平、鍋島直正(鍋島閑叟)、大木喬任、島義勇、副島種臣の7人ですけども。 (画像掲載元:佐賀七賢人本舗株式会社 観光名所やお土産(お菓子)のご紹介) 七賢人ってナニ?とか… それぞれどんな人で何を成し遂げた人なのかはここでは書きませんが、ひとりも知らないってのが25%もいたそうです。いやいや、7人全部覚えとけとは言わんけども、早稲田大学創業者の大隈重信くらいは知っとこうよ。 こうなると、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の『葉隠』も知らなそうですね。 いやまぁ、興味ないよ、と言われればそれまでだけど、せっかく幕末から明治にかけて独特の立ち位置で活躍した

                                                      地元の偉人さんを知る。佐賀の場合と福井の場合 - コバろぐ
                                                    • 無敵の太陽

                                                      2024年01月04日13:46 カテゴリ 岸田の次も最低内閣 / デモクラシーで腐って行く日本 「民衆が選んでいる」ことが元兇だ 岸田内閣の支持率が20%台から10%台に下落し、もはや支持率恢復の見込みは無いだろう。しかし、我が国の政治が混迷しているのは、岸田文雄が総理大臣になったからではない。日本の“悲劇”は民衆政治に由来する。つまり、民衆が“主体”となって“代議士”を選ぶから、“民衆”が苦しむ結果となってしまうのだ。 各国にはそれぞれ独特な“体質”がある。我が国の歴史を俯瞰(ふかん)すれば、日本の“國體(constitution)”は武士による統治が適切であり、デモクラシーとなれば凋落の道しかない。なぜなら、日本の庶民は被統治能力(governability)に長けているが、統治者(governor)の素質は無いからだ。(註 /「constitution」は「憲法」を意味することもあ

                                                        無敵の太陽
                                                      • 明治二年正月の横井小楠暗殺を追う

                                                        前回の記事で奇兵隊が明治二年(1869年)に政府に反旗を翻したことを書いたが、明治の初期には政府の要人が相次いで暗殺されている。同じ明治二年の一月に参与の横井小楠(よこい しょうなん)が暗殺され、九月には兵部大輔の大村益次郎、明治四年(1871年)には参議の廣澤真臣(ひろさわ さねおみ)が暗殺された。教科書や通史には、この時期に相次いで政府の要人が暗殺されたことに触れていない本が大半なのだが、なぜこのような重要事件について書かないのであろうか。 横井小楠 今回は、三人の中で最も年長であった横井小楠がどのような人物であり、彼が暗殺された経緯についてまとめておくことと致したい。 横井小楠と『国是三論』 横井小楠は文化六年(1806年)八月十三日に熊本藩士の次男として生まれ、通称は平四郎で実名は時存(ときひろ)といい、後に小楠、沼山と号した。天保十年(1839年)に江戸に出て、藤田東湖や佐藤一斎

                                                          明治二年正月の横井小楠暗殺を追う
                                                        • 司書の出番 » 県立図書館特別展示「友好の大旆(たいはい)とマリア・ルス号事件」の開催

                                                          神奈川県立図書館では、特別展示として12月1日(土)から12日(水)まで「友好の大旆(たいはい)とマリア・ルス号事件」を開催します。 展示の主役は「大旆(たいはい)」と呼ばれる大きな旗です。今回展示するのは、明治6(1873)年に当時の神奈川権令(現在の県知事に相当)だった大江卓に贈られたもので、大きさは縦349cm×横188cmになります。これだけ大きなものを展示するとなると、通常の展示コーナーではとても収まりません。そのため今回は会議室が会場となりました。 しかし、この大旆を会議室に運び入れるだけでも大変です。桐箱に収められた状態の大旆を新館書庫の5階から本館1階の会議室まで運ぶのは、途方もない道のりに感じられました(業務用のエレベーターにぎりぎりで入るのが幸いです)。 さらに貴重な大旆を剥き出しで展示する訳にもいきませんから、特注の展示ケースに収めます。この展示ケースの組み立ても容易

                                                          • 青山霊園 - Wikipedia

                                                            青山霊園(あおやまれいえん)は、東京都港区南青山二丁目にある東京都立の霊園である[1]。 概説[編集] 青山霊園は、樹木が生い茂る武蔵野の面影を留める港区の北西に位置し、ビル街の中にある園内には桜並木が縦横に走る落ち着いた雰囲気を保っている。面積は約26haで、明治に入り会津藩出身の桐生氏が開いた現在の附属立山墓地(青山霊園立山地区)が興りとされ、隣接してのちの青山霊園への造成へとつながっていった。 1872年(明治5年)、美濃郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主・青山家の下屋敷跡に開設された。当初は神葬祭墓地であった。1874年(明治7年)9月1日、市民のための公共墓地となった。1889年(明治22年)、東京府から東京市に移管された。1926年(大正15年)、斎場の建物のすべてが東京市に寄附され、日本で初めての公営墓地となった。現在は東京都の所管である。 桐生氏は当時の東京府に土地所有権を

                                                              青山霊園 - Wikipedia
                                                            • 大間違い

                                                              2019.06.20 つい先日「第145代外務大臣」というブログを書きました。 第145代外務大臣 ところがこれが間違っていました!! 第何代外務大臣というときに、様々な数え方があるので、外務省として、公式な一覧表を作ろうとしています。 とりあえず外務省の事務方から私が聞いたのは 「外務省の公式なカウントの仕方は、井上馨を初代として、兼任外務大臣も一代として数えます。 初代 井上馨 2代-3代 大隈重信 4代-5代 青木周蔵 6代 榎本武揚 7代 陸奥宗光 8代-9代 西園寺公望 10代 大隈重信 例えば田中眞紀子外務大臣と川口順子外務大臣の間に小泉純一郎首相が外務大臣を三日間兼任していましたが、それも一代と数えています。」 そして、私は第145代、第146代外務大臣になるはずでした。 ところがこれが違いました。 外交史料館が出している外交史料館報第2号に「歴代外務大臣の数え方」という文書

                                                                大間違い
                                                              • 元老 - Wikipedia

                                                                この項目では、戦前の日本の政治的地位について説明しています。その他の用法については「#呼称について」をご覧ください。 元老(げんろう)は、第二次世界大戦前の日本において天皇の輔弼を行い、内閣総理大臣の奏薦など国家の重要事項に関与した重臣である。明治初期に置かれた元老院と直接的な関係はない。 元老の権能[編集] 主権者たる天皇の諮問に答えて内閣総辞職の際の後継内閣総理大臣の奏薦、その他の重要国事に関与した[1]。元老の主要な権能としては後継首相の奏薦であるが、この会議には元老がすべて参加するとは限らず、元老たちの要請により、前首相や内大臣などが参加することもあった。天皇は元老が奏上した候補者については拒否した例はなく、大命降下は事実上元老の意見に基づくものとなっていた。また外交や内政の重大事項について協議して意見を述べることもあり、日英同盟締結の際には元老会議によって意見がまとめられ[2]、

                                                                • 本間美術館(本間家旧別荘「清遠閣」・本間氏別邸庭園「鶴舞園」) 山形県酒田市御成町 - 墳丘からの眺め

                                                                  前回の山居倉庫から新井田川を越えた北側の旧市街地には、本間家旧本邸や旧鐙屋、山王くらぶ、相馬樓など、江戸中期から明治期にかけて建てられた貴重な文化財(建物)が徒歩圏内に複数残っていて興味を惹かれていたが、雪が激しくなり歩きにくい状況になっていたので、酒田駅に近い本間美術館(本間家別荘)のみを選んでタクシーで向かった。 大通りから入ってすぐに美術館建物とその前にロータリーがある。 その日は、ロータリーがわからないほどに、一面が雪野原になっていた。 正面建物が昭和43年(1968)に竣工した本間美術館(新館)で設計は伊藤喜三郎。 このときは収蔵品展「日本画の新時代 革新と伝統」の開催中で、菱田春草や横山大観、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、渡辺省亭、狩野芳崖らの作品を見ることができた。一般900円。 http://www.homma-museum.or.jp/event/ai1ec_event-

                                                                    本間美術館(本間家旧別荘「清遠閣」・本間氏別邸庭園「鶴舞園」) 山形県酒田市御成町 - 墳丘からの眺め
                                                                  • 佐賀藩 - Wikipedia

                                                                    佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島家が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)に置いた。 藩主ははじめ龍造寺家、後に鍋島家。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。 藩史[編集] 鍋島家は龍造寺の家臣であったが、龍造寺隆信の戦死後、義弟である鍋島直茂が領地を継承して成立した。藩の成立後もしばしば残存する龍造寺分家との対立がおきた(鍋島騒動)。この対立の構図から生まれたのが「佐賀化け猫騒動」という話である。 佐賀藩成立[編集] 藩祖・鍋島直茂 天正12年(1584年)、龍造寺隆信は島原半島において島津氏・有馬氏の連合軍との戦いである沖田畷の戦いで敗死した。その遺児である政家の補佐役として実権を

                                                                      佐賀藩 - Wikipedia
                                                                    • 鍋島直正 - Wikipedia

                                                                      鍋島 直正(なべしま なおまさ、文化11年12月7日〈1815年1月16日〉- 明治4年1月18日〈1871年3月8日〉)は、江戸時代末期の大名。肥前佐賀藩10代藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘・幸。正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の諱は斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。 経歴[編集] 文政10年(1817年)、将軍・徳川家斉から松平姓を与えられた[1]。天保元年(1830年)、父・鍋島斉直の隠居を受け17歳で第10代藩主に襲封。将軍・家斉の偏諱を与えられ斉正と名乗る。当時の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主・斉直の奢侈や、2年前のシーボルト台風の甚大な被害もあって、その財政は破綻状況にあった。斉正自身が江戸藩邸を佐賀に向けて出発するやいなや、藩に貸付のある

                                                                        鍋島直正 - Wikipedia
                                                                      • 19世紀 - Wikipedia

                                                                        19世紀に君臨した大英帝国。 大英帝国の首都ロンドン。1837年から始まるヴィクトリア女王の治世にこの国は絶頂期を迎え、首都ロンドンの装いも新たにされた。画像はテムズ川の畔に建つウェストミンスター宮殿(国会議事堂)と大時計塔(ビッグ・ベン)。 ヴィクトリア時代の中産階級。ヴィクトリア女王のモラル重視とお上品ぶりは新興市民層の趣味に合致し、芸術面では保守的なアカデミズムが美の規範となった。画像はこの時代に風俗画で一世を風靡したウィリアム・フリスの「ロイヤル・アカデミーの招待日1881年」。 ロンドンのスラム街。産業革命により都市人口が急速に増えたロンドンでは、貧困層の住民の劣悪な生活環境が大きな問題となった。画像はジャーナリストのウィリアム・ブランチャード・ジェロルド(英語版)『ロンドン巡礼』からホワイトチャペルのウェントワース通りを描いたギュスターヴ・ドレの挿絵。 19世紀(じゅうきゅうせ

                                                                          19世紀 - Wikipedia
                                                                        • 実は米国がでっち上げた嘘だった「南京大虐殺」 記念館の撤去で米中共作の嘘を正し「亡霊」の駆逐を求む | JBpress (ジェイビープレス)

                                                                          2019年12月13日、「南京事件」から82年の記念式典。「南京大虐殺」という嘘が大きく掲げられている(写真:新華社/アフロ) 日本(軍)の疑心暗鬼 日本は性善説に立つ国で、下記のように人権や人道、国家主権などを重んじる数少ない国である。明治以来のこうした積善が認められ、世界で尊敬される国の上位にランクされ続けてきた。 その第1は奴隷の釈放である。 アブラハム・リンカーン米国大統領は1862年9月に奴隷解放を宣言したが、大陸横断鉄道建設などで依然として奴隷を使っていた。 ペルー船「マリア・ルス号」が横浜港に立ち寄った折に中国人苦力(クーリー)を輸送していることを知った副島種臣外務卿(外務大臣)は、奴隷運搬船と判断し国際裁判で勝利する。 奴隷解放宣言から10年しか経っていない時である。 第2は人種差別撤廃である。 第1次世界大戦後の1919年、パリ国際会議に参加した日本代表団は国際連盟規約に

                                                                            実は米国がでっち上げた嘘だった「南京大虐殺」 記念館の撤去で米中共作の嘘を正し「亡霊」の駆逐を求む | JBpress (ジェイビープレス)
                                                                          • 【日本警察の父】う○こを投げつけた初代警視総監『川路利良』 - ニホンシログ

                                                                            川路利良(かわじとしよし)と聞いて多くの人は「誰?」と思うでしょう。 初代警視総監で現在の警察制度を作り出し、その思想は今の警察に引き継がれるほど。 一方、警察官らしからぬ破天荒なエピソード、そして鹿児島が生んだ英雄でありながら、地元では「裏切り者」としていまだ人気は低いままなのです。 『川路のキンタマ』と讃えられる パリにてう○こを投げつける 恩師、西郷との決別 鹿児島県民に嫌われた川路 『川路のキンタマ』と讃えられる 幕末、川路は『戊辰戦争』に薩摩軍の大隊長として参戦します。 戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。 出典:戊辰戦争 - Wikipedia 戦闘中、敵から狙撃されて弾丸が股間に当たってしまいます。

                                                                              【日本警察の父】う○こを投げつけた初代警視総監『川路利良』 - ニホンシログ
                                                                            • 佐賀新聞 - Wikipedia

                                                                              佐賀新聞(さがしんぶん)は、佐賀県佐賀市に本社を置く佐賀新聞社が発行する、佐賀県の朝刊専売の地方新聞である。 概要[編集] 佐賀県全域を購読エリアとし、県内の購読率は他の全国紙(※読売・朝日・毎日・日経・産経)、ブロック紙(※西日本)より多い。発行部数は120,961部(2022年6月日本ABC協会調べ)。価格は月極め3,350円、1部売り150円である。 題字は副島種臣の書である。1884年(明治17年)創刊当初の題字を、創刊100周年を迎えた1984年(昭和59年)から再使用。「聞」の部分を現代風に手直しした。なお、1950年代後半頃から副島が書いたものを再び使用するまでの期間は、横長の楷書体を使用していた。2008年(平成20年)8月から一部紙面を12段化するとともに題字を横書きに変更。 日本の日刊新聞で初めて、鉛の活字を使わない電算写植による新聞製作システムに完全移行。 サガテレビ

                                                                                佐賀新聞 - Wikipedia
                                                                              • オリンピックは内紛の歴史である 1940年の「幻の東京オリンピック」の場合 - ジセダイ総研 | ジセダイ

                                                                                内紛は繰り返す 2020年の東京オリンピック・パラリンピックへの道は、内紛で舗装されている。とくに小池百合子都知事と森喜朗組織委員会会長の角逐は、もはや知らぬひととていない。果てしなく続く揉めごとに、うんざりしているひとも多いだろう。 とはいえ、オリンピックをめぐる内紛は、日本の「お家芸」でもある。事実、1940年の「幻の東京オリンピック」に関しても、また1964年の東京オリンピックに関しても、こうした内輪もめは絶えなかった。 「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」かはともかく、内紛は繰り返す。三度目に突入しつつあるいま、最初のそれを振り返ってみるのも無駄ではあるまい。 「幻の東京オリンピック」で建設される予定だった「紀元二千六百年記念塔」。 (『第十二回オリンピック東京大会 東京市報告書』より) 「ヒトラーのオリンピック」の裏で 1940年の東京オリンピック開催は、1936年

                                                                                  オリンピックは内紛の歴史である 1940年の「幻の東京オリンピック」の場合 - ジセダイ総研 | ジセダイ
                                                                                • 武士道で鳴らした俺たち肥前藩は、 薩長が挙兵しても日和見を決め込み倒幕..

                                                                                  武士道で鳴らした俺たち肥前藩は、 薩長が挙兵しても日和見を決め込み倒幕に参加しなかった。 しかし、九州でくすぶっている様な俺たちじゃあない。 筋さえ通れば反乱もやってのける命知らず。 不可能を可能にし、巨大な悪を粉砕する、 俺たち、「佐賀の七賢人」! (以下はWikipediaの内容をまとめただけです) 鍋島直正第10代佐賀藩主13万両(5億円くらい?)の借金を解消独自に西洋技術を導入し、最新式の鉄砲・大砲や蒸気船を自藩で製造藩校・弘道館を拡充して教育予算を170石から1000石に増やす牛痘ワクチンを輸入して天然痘の根絶に貢献戊辰戦争に遅れて参戦、西洋式軍隊が活躍する尊皇攘夷には与しなかったが弾圧もしなかった佐野常民適塾に入学し、大村益次郎らと親交を深める日本初の実用蒸気船を完成日本初の蒸気機関車模型を作成パリ万国博覧会に佐賀藩の団長として参加日本赤十字社を設立する島義勇蝦夷・樺太を探検調

                                                                                    武士道で鳴らした俺たち肥前藩は、 薩長が挙兵しても日和見を決め込み倒幕..