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南北朝時代の検索結果1 - 10 件 / 10件

  • nix in desertis:書評:『南北朝時代』『隋』(中公新書)

    ・『南北朝時代』(会田大輔,中公新書,2021年) 中国の南北朝時代の概説書。講談社選書メチエの『中華を生んだ遊牧民』との違いは,あちらは鮮卑に焦点を当てつつ後漢代から北魏までの華北を扱っているのに対し,こちらは時代が南北朝時代のみで短い代わりに南朝も扱っている。北魏についての話題は似通っているが,当然あちらの方が濃い。両方読むのを勧める。北魏については主張が違うところもある。あちらの本では,魏の国号を採用し土徳をを採用したことについて,北魏が三国魏を継承する形をとったためと説明していたが,こちらは鮮卑は三国魏をも否定していて,火徳の後漢の後継王朝であることを示すため土徳の魏としたという説を採っている。 かたや南朝宋は東晋の時代にあった再統一への野望が薄れ,江南を本拠地とする諦めに沿った改革が進んでいく様子が描写される。西晋の滅亡によって伝統が失われたため,宮中祭祀等で”それっぽい新たな伝

    • 【大阪市阿倍野区北畠】南北朝時代 北畠顕家とその父・北畠親房が祀られた阿倍野神社 : 勝手に堺市広報大使

      勝手に堺市広報大使 地元・堺や奈良の史跡、古墳、神社仏閣をはじめとするおすすめスポットを紹介しています。奈良が大好きで明日香村、橿原市、桜井市、天理市の神社仏閣や史跡をよく訪れています。2022年12月~飛鳥応援大使に就任いたしました。飛鳥の魅力を多くの方に伝えていけるよう頑張っていきます! お問い合わせ プライバシーポリシー 個人情報保護方針 今回は大阪市阿倍野区に鎮座する阿倍野神社をご紹介します。阿倍野神社は阪堺電気軌道阪堺線・天神ノ森駅か南海本線・高野線 岸里玉出駅からが近いようです。私は堺市方面から自転車で訪れました。 周辺には熊野古道の御旅所だった阿部王子神社や、安倍晴明生誕の地に創建された安倍晴明神社があります。 鳥居前の駐車場付近にはご祭神の北畠顕家像がありますが、阿倍野筋には墓所もありました。 ~北畠 顕家とは(Wikipediaより抜粋)~ 北畠 顕家(きたばたけ あきい

        【大阪市阿倍野区北畠】南北朝時代 北畠顕家とその父・北畠親房が祀られた阿倍野神社 : 勝手に堺市広報大使
      • 土岐・崇禅寺の南北朝時代の墨跡を公開 修理終え技術も紹介:朝日新聞デジタル

        岐阜県土岐市の古刹(こさつ)・崇禅寺(そうぜんじ)が所蔵する墨跡2点が保存修理されたのを記念し、市美濃陶磁歴史館でミニ企画展「崇禅寺伝来墨跡―保存修理の技がつなぐ文化財―」が開かれている。墨跡とともに、使った道具や材料の展示を通じて修理工程を紹介している。 修理されたのは、南北朝時代、1354年に寺が創建されたころから守られてきた此山妙在(しざんみょうざい)墨跡と夢窓国師(むそうこくし)墨跡「果山(かざん)」。いずれも初代住職の果山禅師らに高僧が贈ったと伝わる。県重要文化財に指定されているが、傷みが目立っていた。 修理を担当したのは、大津市の文化財修理会社。装潢師(そうこうし)と呼ばれる技術者が、掛け軸を解体し、何層にも重なった裏打ち紙を補修するなどして、1点ずつ、それぞれ1年かけてよみがえらせた。分析の結果、「果山」の本紙は、竹が原料の「竹紙(ちくし)」で、中国から輸入されたらしい格式高

          土岐・崇禅寺の南北朝時代の墨跡を公開 修理終え技術も紹介:朝日新聞デジタル
        • 『産経ニュース明治天皇から賜った南北朝時代の刀初公開 大阪・四條畷神社で3、4両日』

          ☆☆☆★☆★☆歴史タイムッス★★★★★☆★古今東西歴史関連記事リンク集日本史娯楽検証物語サイト「歴史チップス」執筆のネタ探しとして日本や世界のメディアや個人・企業サイトから歴史関連記事リンク集を作成(リンク切れ御免)。また、「古今チップス(旧歴史タイムズ・現歴史タイムス)」の2005年11月~2014年12月のバックナンバーも掲載。

            『産経ニュース明治天皇から賜った南北朝時代の刀初公開 大阪・四條畷神社で3、4両日』
          • 南北朝時代に生きていたらブクマカとか後醍醐天皇(南朝)支持派が多そう

            尊氏(北朝)支持するのはもっとリアリストな人たちだよね、きっと。

              南北朝時代に生きていたらブクマカとか後醍醐天皇(南朝)支持派が多そう
            • 尾張旭駅北口にある南北朝時代の武将、水野又太郎良春の像。 | DoraNekoWeb

              [talk words=’尾張旭駅北口にある、南北朝時代の武将、水野又太郎良春の騎馬像でございます。尾張旭市を代表する伝統芸能の一つとなっている「棒の手」を吉野の修験道から持ち込んだ人なんだそうですな。’ align=r avatarshape=3 bdcolor=#1e73be bgcolor=#fff avatarsize=50 avatarimg=”https://doranekoweb.com/web-memorandum/wp-content/uploads/doraneko.png”]

                尾張旭駅北口にある南北朝時代の武将、水野又太郎良春の像。 | DoraNekoWeb
              • 畠山忠顕:教示では島津貞久らが日向・大隅・薩摩で合戦 - 足利尊氏:鎌倉末期、南北朝時代。観応の擾乱とは、将軍尊氏とその弟で幕府を率いる直義との対立から起こった全国的な内乱です。室町幕府中枢の分裂により、将軍の地位は二つに分かれた。さらに、権力を掌握しようとする南朝側も蠢き、事態は一進一退の状況となっている。

                ホームベーカリーBistro月額購入サービス【パナソニック公式】 【製品名(商品名)】 パッションフルーツ 【種類】 Passiflora edulis Sims 【主な生産地】 鹿児島県曽於市,志布志市,鹿屋市輝北町,曽於郡大崎町(JAそお鹿児島, 鹿児島県経済連) 【名前の由来】 The flower language of “Holy love” and “Believing heart; faith”. It is named after the shape of the flower, which is based on the doctrine of Khristos. The “Passion” and “Crucifixion” of Christ Goes Over. 【主な特徴】 Shipment of passion fruit has reached its pea

                  畠山忠顕:教示では島津貞久らが日向・大隅・薩摩で合戦 - 足利尊氏:鎌倉末期、南北朝時代。観応の擾乱とは、将軍尊氏とその弟で幕府を率いる直義との対立から起こった全国的な内乱です。室町幕府中枢の分裂により、将軍の地位は二つに分かれた。さらに、権力を掌握しようとする南朝側も蠢き、事態は一進一退の状況となっている。
                • 南北朝時代の美~錦織神社 - 峠でひとやすみ

                  蒸し暑い日と雨の日の後の、すこしだけ暑さのやわらいだ日曜日、「ラーメンまこと屋」の半熟煮玉子鶏じゃんラーメンが食べたい!と思い、大阪府富田林市にあるお店に行くことにしました。 グーグルマップで場所を確認すると、近くに錦織神社があったので、カメラも持って。 最寄り駅である近鉄長野線川西駅に着いたときにはもうお昼どきだったので、まずはラーメン屋さんで空腹を満たします。 お店を出て、ちょっと戻ったところの交差点をまっすぐ西へ進んでいくと、木々の茂った神社らしき場所につきあたりました。でも参道ではなさそう。入ってみると拝殿前の広場に出ました。 ↓参道の入口近くにある案内図です。全体は後ほど。 この図の上の道から入ってきたのでした。 拝殿をくぐると・・・ お参りしてから、のぞき見。 トリミングしてみました。キラキラですね。(^-^) この狛犬、好きだわ。 拝殿に近いところに左右にのびる通り道があって

                    南北朝時代の美~錦織神社 - 峠でひとやすみ
                  • 南北朝時代の仏像の頭から紙の束 墨書きの内容調査へ 広島・福山 | 毎日新聞

                    広島県福山市草戸町の明王院は19日、境内の国宝五重塔に安置している県重要文化財の本尊「木造弥勒菩薩坐像(みろくぼさつざぞう)」(高さ52・7センチ)の頭部から墨書きのある紙の束が見つかったと発表した。南北朝時代(14世紀)に制作された像の由来や仏師の名前などが記録されている可能性があり、今後解体して取り出し、専門家による調査を進める。 像は寄せ木造りで、腕と胴の接合部がはがれるなど劣化で傷んでおり、県などの補助を受け、保存のための解体修理をしている。8月に福山市内の工房で頭部を解体したところ幅十数センチの空洞があり、中に折りたたまれた状態の紙が納められていた。紙には墨で何らかの文字や図形が書かれているとみられる。

                      南北朝時代の仏像の頭から紙の束 墨書きの内容調査へ 広島・福山 | 毎日新聞
                    • 【戦国負傷統計を見直す・補】南北朝時代の石の負傷記録は攻城戦のものばかりで数も多くはないことの確認 - 東国剣記

                      【戦国負傷統計を見直す】と謳っていますが、番外編としてそれ以前の南北朝時代の負傷統計の方にも少しずつ手を付けていくこととしました。この時代の石による負傷については先行研究において、 ■トーマス・コンラン 『南北朝期合戦の一考察 ――戦死傷から見た特質――』(※1) ・石は基本的に城郭の防戦のために使われた。武士が石で戦傷を受けるのは多くの場合、城を攻めた時であった。石は城郭から投げ落とされる岩石以外、武器としてはそれほど効果はなかったと言えよう。 といった分析があります。こちらの論文の載る南北朝時代の負傷統計を確認してみると、 ■『南北朝期合戦の一考察 ――戦死傷から見た特質――』 矢 523〔73%〕 太刀 178〔25%〕 鑓 15〔2%〕 石 5〔1%〕 (引用者注:1333年(元弘年間)から1394年(明徳年間)までの記録) となっており、石傷はわずか5人と非常に少ないことがわかり

                        【戦国負傷統計を見直す・補】南北朝時代の石の負傷記録は攻城戦のものばかりで数も多くはないことの確認 - 東国剣記
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