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古川享の検索結果1 - 8 件 / 8件

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古川享に関するエントリは8件あります。 microsoftMicrosoft開発 などが関連タグです。 人気エントリには 『私の知っているビルゲイツ、その12|samf、古川 享』などがあります。
  • 私の知っているビルゲイツ、その12|samf、古川 享

    ビルゲイツ、自分の限界を知りプログラムを書かなくなったわけ 1970年代の後半から1980年代の初頭においては、㈱アスキーがマイクロソフトの代理店として活動していた時代がありました。その頃は西和彦さんが次々と日本の会社へのアプローチを実現し、多くの日本人プログラマが日本だけではなく、アメリカに長期滞在して日本向けのBASIC言語その他の移植作業をしていました。1982年前後はIBMPCの出荷に併せて日本のメーカーによるIBM互換機の投入に並行して、8ビット機としての終焉を飾るPC-88シリーズから、世界初のGUIべースのパソコンNEC PC-100, 日立のBAISCマスター、沖電気のif800、NCR9005、YE-Data、ALPSなどのハードウェアが次から次へとシアトルのマイクロソフト本社に持ち込まれBASIC言語の移植に日夜、日本人も関わりを持っていました。当時の開発環境はDEC社

      私の知っているビルゲイツ、その12|samf、古川 享
    • マイクロソフトの採用面接、古川ブログ再投稿_002|samf、古川 享

      マイクロソフトの採用試験は現在電子化されて広く応募要項はインターネットで 公開されており、20数人の新入社員合格者に対して応募倍率は2千数百分の1だ と聞いたことがあります。 いつも社内で話をしているのは、最終学歴が高卒の 私(Sam)ではきっと一次試験で落ちてしまって、今のマイクロソフトには採用して貰え ないだろうな、と思う私なのですが...過去、マイクロソフトの社員の採用にあた り、私自身で2000人以上の方と個人面接をしたのではないかと思います。 マイ クロソフトの採用試験や面接では、何かシンプルな問題でありながら論理的に証明するのはとてもが難しい問題を与えてその人の賢さを探るという手法を使うの です。私が面接を場合によく使った方法は「貴方が一番好きな本」、「定期購読 している雑誌」、「最近観た映画もしくはテレビ番組」、「貴方の趣味の世 界」、「最近訪問した場所でお勧めは」、「好きな

        マイクロソフトの採用面接、古川ブログ再投稿_002|samf、古川 享
      • 私の知っているビルゲイツ、その3|samf、古川 享

        本稿は、2008年6月に記した古川ブログの再投稿です。 1986年5月1日、いまから20年前のこと、マイクロソフトは8年間に及ぶ㈱アスキーとの代理店契約を解消して、日本法人マイクロソフト株式会社を設立しました。会社登記は、1986年の2月26日なのだけれど、実際のオフィス開設、会社としてのオペレーションを開始したのは5月1日で、私が初代の代表取締役社長に就任しました。(カルトQ的には、2月26日から4月31日まではマイクロソフトJapanという会社名で、シアトル本社に勤務するロナルド(Ron)細木という日系人が会社登記のために就任した初代社長なのでした。私は第2代社長でしたと言うと話が混乱するので、5月1日に会社の登記簿を変更し、”マイクロソフト株式会社”の初代社長と名乗っておりますが...)。 5月の連休中に会社をスタートして、まず最初に実施したことは社員とその家族向け保護者会(?!)、

          私の知っているビルゲイツ、その3|samf、古川 享
        • 私の知っているビルゲイツ、その1|samf、古川 享

          マイクロソフト株式会社を1986年に立ち上げた頃には、ビルゲイツは日本に年2から3回ほど訪問していたと思います。 いつも成田空港へ迎えに私が行っていたのですが、彼が来日するときには同行する秘書もお付きの人間も無く、いつも一人で空港に到着していました。 さすがに、「一人でリムジンバスか成田エクスプレスに乗ってきなさい。」というわけにもいかないので、空港の到着待合室で彼を待つのでした。 その当時ビルが使っていたカバンは、Lark製の小ぶりのスーツケースと皮製のトラベル用スーツケースどちらも10年以上使い込んだもので、多分革製のものは父上から譲り受けたものでないかと思われるほどの年季ものでありました。 ハーバード大学に入学したときその革カバンに身の回りの品を詰めて寮に入ったのだそうです。 あの当時、海外旅行のスーツケースといえば、ハードケースはサムソナイト、ソフトケースはLarkとお決まりであっ

            私の知っているビルゲイツ、その1|samf、古川 享
          • samf、古川 享|note

            マイクロソフトの採用面接、古川ブログ再投稿_002 マイクロソフトの採用試験は現在電子化されて広く応募要項はインターネットで 公開されており、20数人の新入社員合格者に対して応募倍率は2千数百分の1だ と聞いたことがあります。 いつも社内で話をしているのは、最終学歴が高卒の 私(Sam)ではきっと一次試験で落ちてしまって、今のマイクロソフトには採用して貰え ないだろうな、と思う私なのですが...過去、マイクロソフトの社員の採用にあた り、私自身で2000人以上の方と個人面接をしたのではないかと思います。 マイ クロソフトの採用

              samf、古川 享|note
            • 私の知っているビルゲイツ、その2|samf、古川 享

              ビルゲイツくん、セキュリティ・ガードの人に叱られるの巻 昔NHKのドキュメンタリーや番組制作に、TVディレクターの魂を感じることが出来た時代に「電子立国」と「新・電子立国」という番組があったのを覚えていますか? その昔、相田 洋さんという数々の賞を受賞している敏腕プロデューサーと 大墻 敦さんという、当時はまだ若い(現在は、シルクロードなども手がけているけれど)プロデューサーのペアで、マイクロソフトを取上げて頂いて「ソフトウェア帝国の誕生」という素晴らしい映像作品を1996年にプロデュースして頂きました。事前取材として、マイコンと呼ばれるものの背景からパソコンへの道筋、それが何処でどう販売されていて、どのように組み立て、どう動くのか、それこそ1分の映像を仕上げるために数時間事前取材、モノの入手、無いものは当時と同じモノを作る、などなどそれは大変な時間と労力をかけて番組は作られていました。私

                私の知っているビルゲイツ、その2|samf、古川 享
              • 私の知っているビルゲイツ、その6|samf、古川 享

                まだ伊丹空港が関西唯一の国際空港だったころのことです。 ビルゲイツの来日時に成田に到着、東京で仕事をして新幹線で大阪に移動、大阪でいくつかの仕事をこなして伊丹から韓国ソウルへ飛ぶところでした。飛行機のチケットはビジネスクラスで発券されておりディスカウントではない通常の航空券だったので、搭乗券をみるとファーストクラスにアップグレードされていました。(格安チケットではなく、通常チケットの場合は空席があれば自動的にアップグレードされる、ということなんでしょうね)。数日間の日本滞在も終えて、「今回の滞在も価値あるものだったね、楽しかったよ」と言っているビルゲイツ君、搭乗券を見た瞬間に切れた!!! 空港の待合室で人も歩いている公共の場所で、いきなり罵倒しまくり..(まぁ、こういう時は人前だとか忘れてしまうのだけど)..何にキレまくっていたかというと、「サム、お前に任せている日本のマイクロソフトはこん

                  私の知っているビルゲイツ、その6|samf、古川 享
                • ビルゲイツ、田丸美寿々さんと対決するの巻|samf、古川 享

                  今から15年ほど前のことだったでしょうか、TBSの田丸美寿々さん(「報道特集」キャスター)がビルゲイツにインタビューすることになって短期間の日本滞在の間をぬって赤坂のTBS本社へ伺いました。ちょうど、その直前に米国のニュース・キャスター、コニー・チャンさんの取材途中でビル君はある質問にいたくご立腹、胸に付けたマイクロフォンをむしり取ってインタビュー室を後にするなんて行動に出てしまいました。その経緯が新聞のコラムなどにビルのキャラクタとして面白おかしく書かれるなんてことがあり、日米の広報担当者は非常にピリピリしていました。特にTVのインタビュー取材では、インタビューされる局の背景やジャーナリストがどのようなタイプなのか事前に調査し、全てを穏便にすまそうという雰囲気が漂っていました。 ビルゲイツ君本人は、コニー・チャンさんの事件に関して、そこまでの行動に至る十分な理由があったと理解していて、

                    ビルゲイツ、田丸美寿々さんと対決するの巻|samf、古川 享
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