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大木喬任…の検索結果1 - 40 件 / 43件

  • 東京に都を移さなければクーデターが起きてもおかしくなかった~~東京奠都3

    江戸城開城後の江戸の荒廃 前回までの「歴史ノート」で二回に分けて、明治二年(1869年)に『遷都の詔勅』が出されないまま東京に都が移されたことについて書いたが、なぜ明治政府は遷都反対に立ち上がった京都の人々を騙してまで、強引に都を移そうとしたのであろうか。何としてでも遷都を成し遂げようとした事情についてもう少し考えてみたい。 そもそも東京を首都にしなければどういうことが起こりえたのか。上の画像は江戸の地図だが、江戸城の周囲には徳川家の家臣団の住居や、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家や有力大名の屋敷やその家臣などの住居が建ち並んでいた。詳しい地図情報を調べたい方には『大江戸今昔めぐり』というスマホ用アプリをダウンロードすれば幕末の古地図と現代の地図とを簡単に比較する事が出来る。 徳川家の家臣の数は旗本が六千人ほど、御家人が二万六千人ほどで、合せて三万人強とされるのだが、慶応四年(明治元年:186

      東京に都を移さなければクーデターが起きてもおかしくなかった~~東京奠都3
    • 大久保利通が台湾出兵を決断し、自ら清国との談判に臨み賠償金を獲得したこと

      明治六年(1873年)十月に大久保利通、岩倉具視が、西郷隆盛を韓国に特使として派遣する太政大臣三條實美の決定を覆したことから、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らが辞表を提出して下野し、彼らに近い官僚・軍人の約六百人が職を辞した(明治六年の政変)のだが、大久保利通は、西郷らが職を辞したわずか四ヶ月後の明治七年(1874年)二月に台湾出兵を計画し、五月に出兵している。教科書などでは大久保が征韓論に反対したのは、国内改革を優先したなどと書かれているのだが、内治を優先する方針であるならば、台湾出兵についても反対でなければ筋が通らない。なぜ、大久保は台湾出兵を行ったのか。今回はその間の事情について書くこととしたい。 明治初期の台湾問題 そもそも明治初期において台湾と日本との間にどのような問題が起きていたのだろうか。木戸孝允の伝記に明治四年(1871年)に那覇港を出帆した宮古島の船が

        大久保利通が台湾出兵を決断し、自ら清国との談判に臨み賠償金を獲得したこと
      • 明治新政府が戊辰戦争の最中に江戸を都にすることを決めた経緯~~東京奠都1

        大久保利通の大阪遷都論 慶応三年十二月九日に「王政復古の大号令」が発せられたあと、桓武天皇による平安遷都以来千年以上都であり続けた京都を棄てて、皇室を江戸に遷すことについては相当反対論があったと思うのだが、調べると江戸時代の半ばから遷都についての議論が存在した。 岡部精一 著『東京奠都の真相』(大正六年刊)によると、国学者・賀茂真淵(1697~1769年)が『都うつし』で、都を東京に遷すことを主張たことや、農政学者の佐藤信淵(1769~1850年)が文政六年(1823年)に『宇内混同秘策』で京都のほかに江戸を東京とし大阪を西京とする説を主張したことなどが紹介されているが、江戸幕府においては遷都の議論が深まることはなかったようだ。 しかしながら、幕末にわが国が開国した以降、外交問題だけでなく国内の諸問題が相次ぐようになり、朝廷の協議のために江戸と京都との交渉が頻繁となっていた。そして徳川慶喜

          明治新政府が戊辰戦争の最中に江戸を都にすることを決めた経緯~~東京奠都1
        • 佐賀県☆彡偉人モニュメント『江藤新平 大木喬任像』 - mika旅❣ぐるっと🚙★Collection★blog

          佐賀市中央通りに設置されている偉人モニュメント 11名の偉人の一つ 『弘道館で学んだ若き日の賢人たち』 江藤新平(えとうしんぺい) 司法制度の基礎を築いた初代司法卿 大木喬任(おおきたかとう) 近代教育の基礎を築いた初代文部卿 mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com ランキング参加中旅行 ランキング参加中写真・カメラ

            佐賀県☆彡偉人モニュメント『江藤新平 大木喬任像』 - mika旅❣ぐるっと🚙★Collection★blog
          • Microsoft Word - 保守主義

            1 日本における保守主義 の教育思想 2006年度山本ゼミ共同研究報告書 慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究会 2 はじめに 今年度山本ゼミの共同研究は「日本における保守主義の教育思想」をテーマに掲げた。 昨年 4 月のゼミ発足時点で、教育基本法改正に向けてのスケジュールが具体化しつつあっ たが(実際に、同月 28 日には政府の教育基本法案が第 164 回通常国会に提出された。た だし、 同法案は継続審議になった) 、 その動向を典型的事例として、 すでに教育が 「愛国心」 や「日本の文化・伝統」あるいは「公共の精神」などの尊重、といった主張に基づいて方 向づけられつつあることが看取されたからであった。また、このいわば国家や社会など個 人を包括するより大きな全体にとっての価値を優先させて教育のあり方を考えようとする 立場に、教育上の「保守主義」の思想を見出し得ると考えたからであった。 た

            • 佐賀の七賢人の一人、大隈重信の生家と記念館の話です。 - yoshinobunakamura’s diary

              佐賀の七賢人(さがのしちけんじん)は、江戸時代末期(幕末)から明治維新にかけて活躍し、その後も功績を残した、佐賀藩(今の佐賀県)出身の七人、鍋島直正、島義勇、佐野常民、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信の総称です。 生家です。 明日に続きます。 下記の「カンボジア情報」をクリックしていただきますと更新の励みになります。また、他の皆さん(在住者、旅行者)のカンボジア情報?いろんな視点でのそれぞれの生活態度と生き方や考え方、カンボジアの人々との関わり方を知ることが出来ておもしろいです。 毎日更新を心がけています。 ポチッと押してくださいね! にほんブログ村 ーーーーー 下記は毎回載せています。必要な方はご参考までに。 yoshinobunakamura.hatenablog.com yoshinobunakamura.hatenablog.com 只今、当店自作のマンゴージャムを販売してい

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              • 『維新胎動の地・長州藩 湯田温泉「何遠亭」〜楠公精神を中心に同盟を組んだ薩長土肥〜』

                山下弘枝オフィシャルブログ 神社本庁所属神職・女性議員飛躍の会メンバー・湊川神社楠木同族会・一般社団法人楠公研究会代表理事・表千家教授・池坊生け花教授・作家『建武中興と楠木正成の真実』 楠公祭を藩として、初めて公に行ったのは佐賀鍋島藩である。 寛文3年(1663年)、佐賀藩士・深江信渓、大木英鉄らが中心となり、京都の仏師・法橋宗而に依頼して「楠公父子 桜井の駅 訣別の像」を製作、この木像を御神体として、当時の藩主や重臣らおよそ200人が参加し、大規模な楠公祭が行われた。 元禄5年(1692年)12月21日に、水戸藩第2代藩主・徳川光圀が大楠公殉節地・湊川に巨大な墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建碑する、実に29年も前の事である。 嘉永3年(1850年)、大楠公殉節の日にあたる5月25日、枝吉神陽の実弟・枝吉次郎(後の副島種臣)のほか、江藤新平・大隈重信・島義勇・大木喬任・木原隆忠ら佐賀藩士の同志

                  『維新胎動の地・長州藩 湯田温泉「何遠亭」〜楠公精神を中心に同盟を組んだ薩長土肥〜』
                • 一 近代教育制度の創始:文部科学省

                  文部省の創設 明治四年七月の廃藩置県は、幕藩体制を一掃して統一国家体制を創出した、明治維新における最大の政治改革の一つであったが、そのわずか四日後の七月十八日に文部省は設置された。 従来の大学に代わって設置された文部省の職務は、全国の教育事務を「総判」し大中小学校を「管」すること、つまり学校を所管するだけではなく、全国の教育行政事務を総轄することと規定された。設置と同時に最初の文部大輔(後の文部事務次官に相当)に江藤新平が任命され、七月二十八日に就任した初代の文部卿(きょう)(後の文部大臣に相当)の大木喬任と協力して省内の職制や職掌の大綱等を定め新進有為の洋学を学んだ人材を集めて、文部省の基礎を固めた。 大学の廃止と文部省の設置に伴い、従前の大学南校・大学東校は単に「南校」「東校」と改称された。また、府県の設置・改廃が一段落した四年十一月、太政官は改めて府県の学校が今後すべて文部省の管轄に

                  • 【試し読み】『言海』 日本語の基盤を作った初の近代国語辞典|慶應義塾大学出版会 Keio University Press

                    名著を読むための入門書シリーズ「「世界を読み解く一冊の本」の第1弾『大槻文彦『言海』』の「序」の一部を公開します。 シリーズについてはこちら↓ 本書『大槻文彦『言海』』は、1889〜1891年にかけて刊行された日本初の近代国語辞典『言海』について、明治政府による国家事業として企画された経緯や、幼い娘と妻を失いながらも17年もの歳月をかけ、まさに命懸けで編纂を進めた大槻文彦という人物に焦点を当てながら、その社会的な役割を解説します。 三浦しをんさんのベストセラー『舟を編む』(光文社)でも、主人公馬締氏がときおり『言海』を読み返す描写が見られるなど、現在の国語辞典の礎となり、発刊から120年以上を経たいまも愛されつづけている、その魅力に迫ります。 現在、刊行されている『言海』(ちくま学芸文庫、2004年) 「辞書の本」というと、とても固くて難しそうなイメージを持たれると思いますが、今回ご紹介す

                      【試し読み】『言海』 日本語の基盤を作った初の近代国語辞典|慶應義塾大学出版会 Keio University Press
                    • ◆【経営コンサルタントの独り言】  誰が大福帳から簿記にしたのでしょうか? 210 - keieishi17’s diary

                      ◆【経営コンサルタントの独り言】  誰が大福帳から簿記にしたのでしょうか? 210 平素は、ご愛読をありがとうございます。 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うブログで、毎日複数回つぶやいています。 ■ 誰が大福帳から簿記にしたのでしょうか? 210 簿記は、経理会計の基本です。 経営コンサルタントを目指す人でさえ、簿記は苦手といいますので、多くのビジネスパーソンも同様ではないでしょうか。 しかし、借り方とか仕方の関係がわかると、決算書を読めるようになったり、経営数字がなんとなくわかるようになります。 簿記を日本に持ち帰ったのは、咸臨丸で渡米した福沢諭吉翁の持ち帰った本の翻訳が契機と言われています。 慶應義塾大学を創設するなど、明治時代に多くの功績を残しています。 慶応だけではなく専修大学、一橋大学、神戸商業高校など多くの学校の

                      • 栗本鋤雲『曉窻追錄』ナポレオンコード② - 誰かあの本を知らないか

                        承前。今回は、司馬遼太郎の『歳月』を思い出していただけると少しは分かりやすい。前回は大河ドラマ「青天を衝け」だと言った。ドラマでも小説でもないのが歴史というものだ。騙すつもりは毛頭ない。ただ蕭然としているだけだ。 dokusyonohito.hatenablog.com フランスへの傾倒 ボアソナード民法草案 民法典論争 ボアソナードの帰国 フランスへの傾倒 明治初年にあったフランスへの傾倒は「仏国熱」と回顧されたようだ。 筆頭は西園寺公望だろう。 明治34年から『毎日新聞』に68回にわたって連載された「當世人物評」は石川半山の手になるものだが、これは西園寺公の人物評論である。三宅雪嶺、徳富蘇峰など「人物評論」として流行したものの中では、さいごのほうになる。内容として、その真偽のほどは筆者には判断しかねるが、維新から日清戦争あたりまでを、西園寺公望を通して回顧した読み物となっている。風説も

                          栗本鋤雲『曉窻追錄』ナポレオンコード② - 誰かあの本を知らないか
                        • 佐賀(県)とは - コトバンク

                          九州地方の北西部にある県。北東部と東部は福岡県に、西部は長崎県に接する。北は玄界灘(げんかいなだ)(玄海)、南は有明海(ありあけかい)に面し、この両海域に挟まれた、広義の肥前(ひぜん)半島の付け根の部分にあたる。佐賀県庁の数理位置は北緯33度15分、東経130度18分。「南国土佐(とさ)」の高知県庁の北緯33度33分よりわずかに南にある。このような数理位置より、朝鮮半島や長崎などに近いといった関係位置のほうが、本県域の歴史のうえに重要な意味をもった。県都佐賀市から首都東京までの鉄道距離は約1230キロメートル。それに対し、青木月斗(げっと)の「太閤(たいこう)が睨(にら)みし海の霞哉(かすみかな)」の句碑が立つ名護屋(なごや)城跡から、壱岐(いき)・対馬(つしま)を経て朝鮮半島南端のプサン(釜山(ふざん))に至る直線距離はわずかに200キロメートル足らずである。このような対外的近接性は、国

                            佐賀(県)とは - コトバンク
                          • 【第3回】大久保利通の変身と「新・殖産興業方針」の確立(後編) - Executive Foresight Online:日立

                            ドイツからマルセイユ経由で帰国した大久保利通を待っていたのは、明治政府内の内紛であり、「征韓論」をめぐる混乱した状況だった。「明治六年の政変」を収めた後、大久保政権が成立。新・殖産興業に邁進していく。 (国立国会図書館デジタルコレクションより) 政権を奪回、大久保政権誕生そのベルリンで、留守政府から木戸と大久保に帰国命令がくる。留守内閣で紛糾が起き、太政大臣の三条は急遽二人を呼び返すことにしたのだ。大久保はようやく足掛かりをつかんだ思いもあり独国から帰国の途に就く。が、木戸は露国をぜひ見たいと主張し、少し遅れて帰国することになる。こうして大久保はマルセイユからの船旅で1873年5月26日に横浜に帰着している。 しかし、留守中に内閣は江藤一派の策略で大改造されており、大久保の居場所はなきに等しかった。大久保は西郷、井上馨らと話し込んだが打つ手はなく、「役者の揃うまで待つほかはなし」と覚悟を決

                              【第3回】大久保利通の変身と「新・殖産興業方針」の確立(後編) - Executive Foresight Online:日立
                            • 北里柴三郎|大学事始「年表でつづる、大学の”始まり”物語。」

                              ​ 出身校 細川藩校・時習館 熊本医学校 東京医学校 東京大学医学部 ベルリン大学 ​ 関連する学校・組織(前史) 東京大学医学部 帝国大学医科大学 私立伝染病研究所 国立伝染病研究所 北里研究所 東京帝国大学附置伝染病研究所 ​慶應義塾 慶應義塾大学部医学科 関連する学校・組織(現代) 東京大学医学部​ 北里大学 慶應義塾大学 慶應義塾大学医学部 ​ 関連する教育者 青山胤通 石黒忠悳 緒方正規 北島多一 コッホ 志賀潔 園田保 長與專齋 福澤諭吉 マンスフェルト 三輪徳寛 森村市左衛門 ​ 参考情報 ​「北里柴三郎の生涯」学校法人北里研究所北里柴三郎記念室ホームページ [外部] ​ 参考文献・書籍 ​ ​ ​ 北里柴三郎 きたざとしばさぶろう 1853(嘉永5)年1月29日(旧暦12月20日) - 1931(昭和6)年6月13日 医学博士・細菌学者、内務省衛生局、北里大学学祖、私立伝染

                                北里柴三郎|大学事始「年表でつづる、大学の”始まり”物語。」
                              • 『東京』遷都は歴史的必然ではなかった!? 松山恵『都市空間の明治維新』より|じんぶん堂

                                記事:筑摩書房 original image: oka / stock.adobe.com 書籍情報はこちら 「単頭・中央集権国家」の首都へ 近現代の日本の首都である東京は、近世武家政権・徳川幕府の拠点だった江戸を基盤に成立した。 日本列島のなかで地理的にはほぼ同じ一帯が、じつに400年あまりの長きにわたって政治権力の中枢都市としての地位を占めてきたことになる。たとえば現在の国道1号線は近世初頭に整備された東海道を踏襲したものであるように、道路や掘割の配置、また宅地形状といった物理的な側面において、江戸と東京(とくに中心部)は連続している(陣内秀信『東京の空間人類学』筑摩書房、1985年)。 しかしながら、江戸と東京のあいだには、見過ごせない質的な違いや断絶があることも確かだ。 第一に、それぞれが背景とする政治・社会体制が大きく異なる。 たとえば、次に引用するのは幕末に書かれた随筆の一節だ

                                  『東京』遷都は歴史的必然ではなかった!? 松山恵『都市空間の明治維新』より|じんぶん堂
                                • 日本の伯爵一覧

                                  ◆飛鳥井家 飛鳥井雅望 飛鳥井恒麿 飛鳥井雅信 ◆姉小路家 姉小路公義 姉小路公政 ◆油小路家 油小路隆晃 油小路隆薫 油小路隆元 油小路隆成 油小路隆英 ◆阿部家 初代 1884年-1914年 阿部正桓 二代 1914年-1947年 阿部正直 ◆有馬家 初代 1884年-1927年 有馬頼萬 二代 1927年-1947年 有馬頼寧 ◆井伊家 初代 1884年-1902年 井伊直憲 二代 1902年-1947年 井伊直忠 ◆板垣家 板垣退助 ◆伊地知家 伊地知正治 伊地知正一郎 伊地知正輔 伊地知正興 伊知地正勝 ◆伊東家(子爵より陞爵) 伊東巳代治 伊東太郎 伊東治正 ◆伊東家(子爵より陞爵) 初代 1907年-1914年 伊東祐亨 二代 1914年-1947年 伊東靖祐 ◆伊藤家 初代 1884年-1895年 伊藤博文(侯爵へ陞爵) ◆井上家 初代 1884年-1907年 井上馨(侯爵

                                    日本の伯爵一覧
                                  • 二 近代教育制度の創始:文部科学省

                                    明治四年、廃藩置県が行なわれ、中央における政府の行政機構がつくられることとなり、教育行政の府として同年七月文部省が設置された。これから文部省が全国の諸学校をすべて統轄する制度となった。文部省の長官としては初めに江藤新平が文部大輔となったが、間もなく大木喬任が文部卿となり、文教行政の首脳部を構成した。文部省は全国の学校を統轄したばかりでなく、積極的に国民を教育する責任を果たさなければならないとした。ここにおいて江戸時代からの諸学校の普及を基礎とし、さらに欧米諸国の教育制度を参照してわが国の学校教育制度を創始することとなり、ただちに起草に必要な資料を集めて制度立案の準備を始めた。四年十二月に一二人の学制取調掛が任命されて学制条文の起草にあたった。五年一月には学制の大綱を定め、詳細に各条を審議し条文として整え、五年三月ごろに案文が上申され、六月二十四日に太政官において認可された。その後府県への委

                                    • 非常の人――森有礼の生涯 - 吉村書院

                                      はじめまして。吉村久夫です。1935年生まれの後期高齢者。ここ20年ほど書き溜めたものがあり、それを順次、発信してみようと思い立ち、勝手に「吉村書院」と名付けました。詳細は、「吉村書院より」(店主挨拶)をご覧ください。(2011.9.26) 平成九年(一九九七)は森有礼の生誕百五十年に当たった。それを記念して、全国紙のG紙が毎週月曜日の教育面を使って特集を組んだ。教育の在り方がますます論議を呼ぶようになってきたので、初代の文部大臣森有礼の特集をしたのである。 特集の大部分は三氏の鼎談だった。顔触れは近現代史に詳しい歴史学者のA氏、評論家で作家でもあるB氏、それに新聞社の教育担当の編集委員C氏である。題して「いま森有礼がいたら、教育制度はどうなる」。司会はC編集委員が勤めた。 二十一世紀入りを目前に、どのような架空鼎談が行われたか、その要約を紹介することにしよう。 いま甦ったら C氏 「森有

                                      • 西郷隆盛は本当に征韓論者だったのか~明治六年の政変の真相

                                        はじめに 明治新政府ができて間もない明治6年(1873)10月、政権中枢の土台を揺るがすほどの政争が起きました。明治六年の政変です。定説では、──「征韓論」をめぐって政権内部がまっぷたつに割れた。「即時征韓」を唱えていた西郷隆盛(薩摩)、板垣退助、後藤象二郎(土佐)、江藤新平、副島種臣(佐賀)の5名の参議と、「征韓は時期尚早」と主張する三条実美(公卿:太政大臣)、岩倉具視(公卿:右大臣)、大久保利通(薩摩)、大隈重信(佐賀)、大木喬任(佐賀)の5名が激しく対立していた。結局、西郷ら即時征韓派が論争に敗れ、5名の参議が下野した。この事件は、その後に起きた不平士族の反乱である佐賀の乱や西南戦争の遠因となった。──と言われています。 ところが近年になって、西郷がバリバリの征韓論者であることに疑問を呈する意見が数多く出ています。また、明治六年の政変は単なる政策論争ではなく、その奥にはドロドロとした

                                        • 伝統ある桑・茶・果樹園の地図記号。果樹園記号にパイナップルやスイカ、イチゴが含まれない理由とは?(婦人公論.jp) - Yahoo!ニュース

                                          今尾さん「パイナップルやスイカ、メロン、イチゴなどは畑またはビニールハウスの記号である」(写真提供:PhotoAC) 地図を読む上で欠かせない、「地図記号」。2019年には「自然災害伝承碑」の記号が追加されるなど、社会の変化に応じて増減しているようです。半世紀をかけて古今東西の地図や時刻表、旅行ガイドブックなどを集めてきた「地図バカ」こと地図研究家の今尾恵介さんいわく、「地図というものは端的に表現するなら『この世を記号化したもの』だ」とのこと。今尾さんいわく、「ヨーロッパで興味深いのは、多くの国の地形図で果樹園とは別にブドウ畑が定められていることだ」そうで―― 。 【画像】茶畑、桑畑、果樹園…実際に使われている記号 * * * * * * * ◆伝統ある桑・茶・果樹園の記号 明治維新を迎えて多くの武士が失業した。彼らに仕事を割り振るのは国家的な急務で、北海道の屯田兵や下総(しもうさ)台地の

                                            伝統ある桑・茶・果樹園の地図記号。果樹園記号にパイナップルやスイカ、イチゴが含まれない理由とは?(婦人公論.jp) - Yahoo!ニュース
                                          • 山縣有朋は愛されたい - 台湾出兵

                                            ―――――― 明治時代に突入し、いよいよ士族反乱のフェーズに入る。その裏でとある事件へとつながる底流が存在した。それが台湾問題である。 現代日本における沖縄県は明治初期まで琉球国という名の独立国であった。そして琉球は日本と中国の間に位置しており、双方の影響を受けている。江戸時代は薩摩藩に服属する一方、中国の王朝とも冊封関係にある国――要するに日中両属の国であった。 近世においてはそんなふわっとした関係でも問題はなかったのだが、近代に入り公的な国家の領域という概念が入ってきたことで琉球はそんな状態であることを許されなくなってしまう。そんな背景もあり、日本と清には琉球をめぐる潜在的な緊張関係があった。 もっとも、それがすぐさま戦争になることはない。日本はそもそも国内がゴタゴタしておりとても清と戦争している余裕はないからだ。清もまた欧米列強の中国進出に直面しており、日本なんて本気出せばボコボコに

                                              山縣有朋は愛されたい - 台湾出兵
                                            • ゾンビランドサガ リベンジ 第7話の聖地巡礼ガイド!【ゾンサガ2期】

                                              所在地:佐賀県唐津市海岸通7181 唐津市ふるさと会館アルピノ第1期のゾンビランドサガで行われた、伝説のアルピノライブに楪舞々(ゆずりはまいまい)が行っていた回想シーンで登場しました。 大雪の中、多くのファンがこの場所で開場を待っている風景が描かれていました。 所在地:佐賀県唐津市新興町2881−1 中村橋唐津市内にある中村橋ではレッスンが終わって、源さくらがロメロと散歩しながら、楪舞々(ゆずりはまいまい)と話しながら送るシーンで登場しました。(この辺りは住宅街なのでマップに位置を記していません) 楪舞々(ゆずりはまいまい)が、フランシュシュを知ったきっかけや、今までのライブの感想などを話して帰っていました。 佐賀市佐賀県立佐賀東高等学校ゾンビランドサガR(リベンジ)では、楪舞々(ゆずりはまいまい)が生徒として通って、フランシュシュが文化祭(佐賀南カーニバル)の学園ライブをした学校として佐

                                                ゾンビランドサガ リベンジ 第7話の聖地巡礼ガイド!【ゾンサガ2期】
                                              • 枝吉神陽 ~佐賀の「吉田松陰」~

                                                神童から藩校教師、勤王活動家へ 藩校・弘道館の教諭であった枝吉南濠の長男として佐賀城下鬼丸町に生まれる。副島種臣は実弟。幼児期より神童と賞され、23歳の時には江戸幕府直轄の昌平坂学問所に学び、同舎の舎長を務める。帰郷した後は弘道館で教鞭を執る傍ら、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行う。 義祭同盟結成 1850年、楠木正成を祀る「義祭同盟」を結成。尊王思想を説き、江藤新平や大隈重信、副島種臣、島義勇、大木喬任など、後に明治政府の重鎮となる青年たちの眼を開かせた。 その魂は次代を担う若者たちへ… 1862年、コレラに感染した妻をいたわり看病するうちに自身も感染し、先立つ妻を追うように2日後、世を去った。彼の人格や思想は義祭の青年たちの心に宿り、明治の国作りの随所随所で影響を及ぼすこととなる。

                                                  枝吉神陽 ~佐賀の「吉田松陰」~
                                                • 近代はここから始まった?日本史上最後の内戦「西南戦争」で何が起きなかったか | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

                                                  はじめに 西南戦争が勃発したのは、明治6年政変に敗れた西郷隆盛が鹿児島に帰郷して4年目のことで、日本史の時代区分では近代の始まりを西南戦争以後と規定する研究者もいるくらい、重大な転換期です。明治政府の事実上の首班だった大久保利通は、生まれ故郷の鹿児島県を敵として戦いました。鹿児島の士族もまた、政府残留組の肉親や知己を相手に戦いました。そうしたツライ思いをしてまで、なぜ両陣営は戦ったのでしょうか。 不平士族と私学校 岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら政府の要人たちは、征韓派が去った穴を塞ぐため、勝海舟を参議兼海軍卿に、寺島宗則を参議兼外務卿に、伊藤博文を参議兼工部卿に、大木喬任を参議兼司法卿に起用し、また、強い行政権限を持つ内務省を新設、利通を参議兼内務卿としました。勝海舟が入閣しているとおり、必ずしも薩長土肥の藩閥ばかりではありませんが、一握りの権力者が運営する政権なので「有司専制」と呼ばれ

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                                                  • AIと人間が共存する方法とは? 齋藤孝『「日本人」力 九つの型』より|じんぶん堂

                                                    記事:筑摩書房 original image: blew_f / stock.adobe.com 書籍情報はこちら いまはAI(人工知能)が発達し、人の仕事を奪うと考えられています。そういう未来をおそれている方もいらっしゃるかもしれませんが、世界の変化に対応する「日本人」力を私たちは持っていると思います。 日本人の対応力は非常に柔軟性に優れていて、急な変化を恐れません。たとえば文部省が近代学校の学制を敷いたのが明治五年ですが、そのとき、西洋の学問一本でやると決定したのが、佐賀藩出身の江藤新平(1834~1874)と大木喬任(1832~1899)の二人でした。 当時、日本には国学や漢学もありました。彼らは漢学にも優れた知識があったのに、それをひとまずきっぱりと捨てて西洋の学問、すなわち実学で行くという方針を決めたのです。捨てるときには、以前のものを躊躇なく切り捨てられるのが「日本人」力です。

                                                      AIと人間が共存する方法とは? 齋藤孝『「日本人」力 九つの型』より|じんぶん堂
                                                    • ミントの人物伝98①〔第948歩〕 - ミントの山歩き日記2

                                                      ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 「これが飲まずにおれますか」 彼は優秀な政治家だったが、酒豪でもあった。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ *ミントの人物伝98① 大木 喬任(おおき たかとう、1832-1899) 佐賀藩士、政治家 佐賀藩の藩士、大木知喬の長男として生まれる。 1842年(天保13年)に父が亡くなったため、母シカ子の手で 育てられる。 1846年(弘化3年)、15歳で藩校の弘道館に入学する。 寡黙だったが、周りの誰もが認める秀才だった。 そして彼は中国の歴史書「資治通鑑」を精読するなど 非常な読書家でもあった。 ところで大木は父親譲りの相当な酒豪で 弘道館に入ったころから隠れて飲んでいたらしい。 のちには水のように飲んでいたというが、静かな酒で 飲んで乱れることはなかった。 1850年(嘉永3年)、 19歳の大木は副島種臣らと義祭

                                                        ミントの人物伝98①〔第948歩〕 - ミントの山歩き日記2
                                                      • 大木家(大木喬任・大木遠吉の子孫・家系図)

                                                        ◆大木知喬 父: 母: 妻: 長男:大木喬任 ◆大木喬任 1832年 誕生 1868年 参与(-1969年) 1868年 東京府知事(-1869年) 1869年 東京府大参事(-1869年) 1870年 民部大輔(-1871年) 1871年 民部卿(-1871年) 1871年 文部卿(-1873年) 1872年 教部卿(-1873年) 1873年 参議(-1885年) 1873年 司法卿(-1880年) 1880年 元老院議長(-1881年) 1881年 司法卿(-1883年) 1883年 文部卿(-1885年) 1884年 伯爵 1885年 元老院議長(-1888年) 1888年 枢密顧問官 1889年 枢密院議長(-1891年) 1891年 宮中顧問官 1891年 文部大臣(-1892年) 1892年 枢密院議長(-1892年) 1899年 死去 父:大木知喬 母: 妻: 長男: 二男

                                                          大木家(大木喬任・大木遠吉の子孫・家系図)
                                                        • JR佐賀駅前の変貌-4-旧・佐賀駅 : tontonziziiのblog

                                                          昨日は、JR・佐賀駅前に(西友・佐賀店)跡の商業施設として、(コムボックス佐賀駅前)がオープンしたことをお伝えしましたが、この駅前周辺も佐賀国体を機に整備されて変わりますので、久しぶりにふるさと佐賀に帰省されたら、その変わりように驚かれることでしょう。 では、このJR・佐賀駅は1976年(昭和51年)に路線の高架化工事により、元の国鉄佐賀駅から北へ100mほど 移転していますが、今日は、元・国鉄佐賀駅周辺についてご紹介します。 この写真は、1890⃣年(明治23年)に、九州鉄道の佐賀駅として完成したものです。 そして、1907年(明治40年)には鉄道が国有化されて、1935年(昭和10年)には佐賀線が開通します。 こちらは、(富田画伯)が描いた(旧・佐賀駅)です。 この絵では佐賀駅前について皆様の記憶に残るものがあるでしょう。 昭和34年当時には、東京まで布団袋を送るのに鉄道貨物の(チッキ

                                                            JR佐賀駅前の変貌-4-旧・佐賀駅 : tontonziziiのblog
                                                          • ふるさとの歴史を知ろう、知らせよう。

                                                            2024年05月06日11:36 カテゴリ維新期の日本幕末の日本の反射炉 日本における 幕末の反射炉・ 鋳砲事業の展開 日本における 幕末の反射炉・ 鋳砲事業の展開 前回佐賀藩の鋳砲事業の詳細記録 を述べましたが日本国内の各藩の 反射炉・  鋳砲事業はどうであっ たかについて述べます。引用文献:日本鉄鋼協会主催によ る昭和61年12月1日に開催された ヒュゲーニンの著書「ロイク王立 鉄製砲鋳造所における鋳造法」我 が国における洋式高炉のルーツ 渡来150周年記念講演会における 特別講演の講演録(大橋 周治教 授) この講演から約37年経ています。 日本の鉄鋼メーカが、米国のUS スチール社を買収する話が出て います。日本の鉄鋼技術も世界 で有数のレベルだとの証明の様 な気がします。 日本の製鉄の技術の原点がここに あります。 「鉄は国家なり」と言われた時代 がありました。 私達は、この原点

                                                              ふるさとの歴史を知ろう、知らせよう。
                                                            • ふるさとの話題-JR佐賀駅ー2 : tontonziziiのblog

                                                              JR佐賀駅が高架駅となってから43年、この駅周辺もまた変わろうとしています。 まず、JR佐賀駅の南口にあったこの(西友・佐賀店)が先年に閉鎖され、建物は解体されています。 この(西友佐賀店跡)の再開発については、土地の所有者である(JA佐賀中央)の駐車場を含め再開発の計画中で、現在は(JAのAコープ)が核テナントとして入居する建物が建設中です。 こちらが(西友佐賀店)跡の建築現場です。ダイワハウスが建物を担当しています。 JR佐賀駅のホームから見る(西友跡)の建築現場です。基礎工事が終わり、これから3階建ての鉄骨が組み立てられてきます。この前に見える(ホテル・ルートイン)も新しいホテルです。 こちらは、駅前にあるホテルの(東横イン)ですが、2020年2月29日をもって閉館となります。 このホテルは1981年(昭和56年)4月に(佐賀・東急イン)として開業しましたが、2001年まで営業し、リ

                                                                ふるさとの話題-JR佐賀駅ー2 : tontonziziiのblog
                                                              • 黒田清隆の妻殺し - トラの日記

                                                                黒田清隆の妻殺し のちの第2代総理大臣で、当時大久保利通に次ぐ薩摩閥の重鎮であった黒田清隆が陸軍中将を兼務した参議開拓長官だった頃の1878年(明治11年)3月28日、深夜に夫人の「清(きよ)」が逝去しました。葬儀は翌々日の30日に各大臣、皇族の代理なども参列して厳かに行なわれます。しかし、この荘厳な葬儀が終わるとすぐに清夫人は病死ではなく、夫の清隆に殺害されたという流言が飛び始めたそうです。この噂は以前から素面のときは豪快で闊達、しかし情にもろく温厚な一面も持つ清隆が、実は酒乱の癖があることからおこったといわれています。 3月28日の深夜、酩酊して麻布笄町(現港区立高陵中学あたり)の屋敷に戻った清隆は、妻の清から当時清隆が懇意にしていた芝神明の芸者との仲を恨んだ小言を散々聞かされます。そして、しばらくは小言を黙って聞いていたがいつまでたっても尽きない小言に逆上した清隆は、居間から日本刀を

                                                                  黒田清隆の妻殺し - トラの日記
                                                                • 東京都知事・歴代一覧

                                                                  ◆東京都知事歴代一覧 (東京府知事) 01代 1868年-1868年 烏丸光徳 02代 1869年-1869年 大木喬任 03代 1869年-1871年 壬生基修 04代 1871年-1872年 由利公正 05代 1872年-1875年 大久保一翁 (東京府権知事) 06代 1875年-1877年 楠本正隆 (東京府知事) 06代 1877年-1879年 楠本正隆 07代 1879年-1882年 松田道之 08代 1882年-1885年 芳川顕正 09代 1885年-1886年 渡辺洪基 10代 1886年-1890年 高崎五六 11代 1890年-1891年 蜂須賀茂韶 12代 1891年-1893年 富田鉄之助 13代 1893年-1896年 三浦安 14代 1896年-1897年 久我通久 15代 1897年-1898年 岡部長職 16代 1898年-1898年 肥塚龍 17代 18

                                                                    東京都知事・歴代一覧
                                                                  • 『威風堂々』刊行記念 作者・伊東潤 特別インタビュー|特設ページ|中央公論新社

                                                                    (いとう・じゅん) 1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で「第1回本屋が選ぶ時代小説大賞」を、『国を蹴った男』で「第34回吉川英治文学新人賞」を、『巨鯨の海』で「第4回山田風太郎賞」と「第1回高校生直木賞」を、『峠越え』で「第20回中山義秀文学賞」を、『義烈千秋 天狗党西へ』で「第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)」を受賞。著作多数。近著は『夜叉の都』。 伊東潤 公式サイト https://itojun.corkagency.com/ Twitterアカウント @jun_ito_info 誰もが大隈重信の名を知っている。彼がのこした数多の事績は、今の日本という国を語るうえで、非常に重要なものばかりだ。だが、そのことを知らない人は多い――。 今回、こ

                                                                      『威風堂々』刊行記念 作者・伊東潤 特別インタビュー|特設ページ|中央公論新社
                                                                    • 枢密顧問官・歴代一覧

                                                                      ◆枢密顧問官歴代一覧 青木周蔵 荒井賢太郎 荒木寅三郎 有地品之允 有馬良橘 有松英義 池田成彬(1941年-1945年) 井坂孝 伊沢多喜男 石井菊次郎 石黒忠悳 石塚英蔵 石原健三 石渡敏一 一木喜徳郎 伊藤博文 伊東巳代治 井上勝之助 井上毅 岩倉具定 潮恵之輔 内田康哉 江木千之 榎本武揚 遠藤源六 大木喬任 大隈重信 大島健一 大平駒槌 大鳥圭介 大森鍾一 大山巌 岡田良平 岡部長職 大給恒 尾崎忠治 小幡酉吉 海江田信義 香川敬三 勝海舟 加藤弘之 加藤正治 金子堅太郎 樺山愛輔 樺山資紀 鎌田栄吉 上山満之進 河合操 河瀬真孝 河原春作 川村純義 河本文一 菊池大麓(1912年-1917年) 北垣国道 清浦奎吾 清岡公張 九鬼隆一 窪田静太郎 久保田譲 倉富勇三郎 栗野慎一郎 黒木為楨 黒田清隆 黒田清綱 黒田長成 河野敏鎌 小坂順造 近衛篤麿 小松原英太郎 小村壽太郎 西園

                                                                        枢密顧問官・歴代一覧
                                                                      • 文部大臣・歴代一覧

                                                                        ◆文部大臣歴代一覧 001代 1885年-1888年 森有礼 002代 1888年-1889年 森有礼 003代 1889年-1889年 榎本武揚 004代 1889年-1890年 榎本武揚 005代 1890年-1891年 芳川顕正 006代 1891年-1891年 芳川顕正 007代 1891年-1892年 大木喬任 008代 1892年-1893年 河野敏鎌 009代 1893年-1894年 井上毅 010代 1894年-1896年 西園寺公望 011代 1896年-1897年 西園寺公望 012代 1896年-1897年 蜂須賀茂韶 013代 1897年-1898年 浜尾新 014代 1898年-1898年 西園寺公望 015代 1898年-1898年 外山正一 016代 1898年-1898年 尾崎行雄 017代 1898年-1898年 犬養毅 018代 1898年-1900年 

                                                                          文部大臣・歴代一覧
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                                                                          は じ め に 平野富二がはじめて大隈重信との面識をえたのは何時のころかは分からないが、まだ富次郎と称していた24歳のときに、八太郎と称していた大隈重信(31歳)とが兵庫に回航される軍艦「朝陽丸」に同乗したとき、将来の夢を語り合い、富次郎の夢を実現するために協力を約束してくれたと伝えられている。二人の付き合いは、平野富二が明治25年(1892)12月に47歳で死去するまで続いた。 図38-1 大隈重信の所蔵写真 <みすず書房PRパンフレットより、部分> 平野富二が取り組んだ事業に対して、折に触れて大隈重信から支援・協力を得ていたことについては、拙著『平野富二伝 考察と補遺』(2013年11月刊、朗文堂)の各所に断片的に記述したが、本稿ではそれらに新しい知見を加えて紹介する。 まず最初に、平野富二が面識を得る以前の大隈重信(八太郎)の略歴を紹介し、その上で、平野富二が取り組んだ事業に対する大

                                                                          • 瀧井一博『大久保利通』 - 西東京日記 IN はてな

                                                                            副題は「「知」を結ぶ指導者」。 以前著者の書いた『伊藤博文』(中公新書)の副題が「知の政治家」だったことを覚えている人は「また知なのか?」と思うかもしれませんし、大久保をそれなりに知っている人からしても大久保に「知」という特徴を当てはめることに違和感を感じるかもしれまえん。 かつて岩倉具視は大久保について木戸孝允と比較しながら「大久保は才なし、史記なし、只確乎と動かぬが長所なり」(8p)と述べたと言われていますが、この評にもあるように、大久保は木戸や西郷に比べて、「知」の面で優れていたとは言えないからです。 ところが、本書を読み進めていくと、「知」の部分よりも、むしろ「結ぶ」の部分に本書の力点があることがわかってきます。 大久保自らは深い「知」の持ち主ではなかったかもしれませんが、明治新政府の始動にあたって、大久保はできるだけ多くの「知」を集めようとしたのです。 大久保と言えば、「冷徹」で

                                                                              瀧井一博『大久保利通』 - 西東京日記 IN はてな
                                                                            • 日下家(日下義雄の家系図・子孫)

                                                                              ◆石田義雄【日下義雄】 1852年 誕生 1877年 太政官御用掛 1882年 内務省登記法取調局長 1885年 駅逓局総監官房長 1886年 長崎県令(-1886年) 1886年 長崎県知事(-1889年) 1892年 福島県知事(-1895年) 1895年 弁理公使 1896年 第一銀行監査役(-1908年) 1901年 京釜鉄道常務(-1903年) 1902年 衆議院議員(-1902年) 1908年 第一銀行取締役(-1923年) 1912年 衆議院議員(-1914) 1912年 東邦火災保険社長(-1921年) 1923年 死去 父:石田常雄(★脇田勇) 母: 妻:岡部清子(子爵 岡部長職の庶子) 養女:岡部久子(子爵 岡部長職の五女、川崎重工業専務 川崎芳熊の妻) 妻:大木達子(枢密院議長 大木喬任の娘) 人事興信録 初版 人事興信録 2版 人事興信録 3版 人事興信録 4版 人

                                                                                日下家(日下義雄の家系図・子孫)
                                                                              • 島義勇 ~北の大地を切り拓いた開拓者~

                                                                                諸国遊学、義祭同盟への参加、盟友・江藤新平らとの出会い 佐賀藩士島市郎右衛門の長男として佐賀城下精(しらげ)小路に生まれる。9歳の頃より藩校「弘道館」に学び、23歳で卒業。家督を継いだ後は諸国を遊学し、帰国して藩主鍋島直正の外小姓、弘道館目付となる。枝吉神陽の「義祭同盟」にも創設期から参加し、そこで江藤新平や大木喬任とも出会っている。 極寒の蝦夷地探検 1856年、直正の信頼が厚かった島はその命で、当時の未開拓地であった蝦夷地(現在の北海道)の探検に随行。厳しい寒さの中、約2年に渡って北の大地を歩き続け、その詳しい調査結果を記した「入北記」を残している。 北海道の街づくり、新政府との衝突、佐賀の役 明治新政府では直正が蝦夷開拓督務となると、島はその経歴を買われ開拓使判官に就任。北海道開拓の街づくりを任される。札幌を中心とした街づくりを進めるも、予算による衝突で志半ばで解任。後に秋田県権令と

                                                                                  島義勇 ~北の大地を切り拓いた開拓者~
                                                                                • 神野家(神野吾郎・神野金之助・神野重行の家系図)

                                                                                  ◆神野金平 父: 母: 妻: 長男: 二男: 三男: 四男:神野金之助 女:神野ゑい(竹田晨正の妻、★清洲銀行頭取 竹田鋹太郎) ◆神野金之助 1849年 誕生 1898年 明治銀行頭取(-1916年) 1904年 貴族院議員(-1906年) 1910年 名古屋電気鉄道社長(-1914年) 1922年 死去 父:神野金平 母: 妻: 長男: 二男: 三男: 四男:神野金重郎【神野金之助】 長女: 二女: 三女:神野りき(竹田三郎【神野三郎】の妻) 四女:神野あさ(名古屋電気鉄道会長 富田重助の妻) 妻:大木豊子(伯爵 大木喬任の娘) 五女:神野さだ(★男爵 鍋島陸郎の妻) 六女:神野しな(好生館取締役 北川重夫の妻) 七女:神野たか 養子:竹田三郎【神野三郎】(★竹田晨正の三男、★藍川清英) ◆神野金重郎【神野金之助】 1893年 誕生 1925年 名古屋放送局理事長 1927年 三河水力

                                                                                    神野家(神野吾郎・神野金之助・神野重行の家系図)