江戸城開城後の江戸の荒廃 前回までの「歴史ノート」で二回に分けて、明治二年(1869年)に『遷都の詔勅』が出されないまま東京に都が移されたことについて書いたが、なぜ明治政府は遷都反対に立ち上がった京都の人々を騙してまで、強引に都を移そうとしたのであろうか。何としてでも遷都を成し遂げようとした事情についてもう少し考えてみたい。 そもそも東京を首都にしなければどういうことが起こりえたのか。上の画像は江戸の地図だが、江戸城の周囲には徳川家の家臣団の住居や、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家や有力大名の屋敷やその家臣などの住居が建ち並んでいた。詳しい地図情報を調べたい方には『大江戸今昔めぐり』というスマホ用アプリをダウンロードすれば幕末の古地図と現代の地図とを簡単に比較する事が出来る。 徳川家の家臣の数は旗本が六千人ほど、御家人が二万六千人ほどで、合せて三万人強とされるのだが、慶応四年(明治元年:186