山口真弘 @kizuki_jpn 義援金として送る場合は小銭の枚数がどれだけ多くても手数料は免除されると耳にしたので親が貯めこんで処分に困ってた1円玉360枚と5円玉104枚をまとめて能登半島地震の義援金として郵便局で振り込んできた。額はたいしたことないけどこれぞWin-Winでいいんじゃないですかね pic.twitter.com/LdmpMIwoPM 2024-01-18 16:08:17
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「ウチではちょっと……」 今では多くの人が知る伝説的「BOØWY」。ところがデビューして間もない頃は、音楽的才能は豊富なのに、誰もが“彼らの扱い”に困った理由とは? ライブハウス「ロフト」創始者である平野悠氏の新刊『1976年の新宿ロフト』(星海社新書)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む) 今だから語れるBOØWY、氷室京介の若かりし頃のエピソードをお届け(写真:ユニバーサル ミュージック ジャパン公式サイトより) 高崎の不良バンド、BOØWYが私の最後の音楽仕事になった 下北沢ロフトの店員バンドだったサザンオールスターズ、ロフト・レーベルからデビューした竹内まりやと将来性を見込める新人を発掘したものの、当時のロフトはとにかくお金がなかったのでこれらの表現者に対して何の援助もできなかった。 そんな忸怩たる思いが募るなか、1981年の春頃、業界で天下を取っていたあのビー
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