ロシアの開戦理由が雑だって言ってる人もいるが、多分プーチンの中ではウクライナNATO加盟→ロシアと敵対→ロシアへの侵略というルートが当然に「見えて」いるんだと思う。昔の日本もそうでしょ。石原莞爾には世界最終戦争的なものが「見えて」いたから満州事変を起こした。
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解説:天才か異端児か 石原莞爾が満洲で繰り広げた謀略の実態は? 現代の日本人が、70数年以上前の日本人にとって「満州」(現中国東北部)がどんな意味を持っていたのかを想像するのは難しい。戦争の結果を見れば、そこにすさまじい悲劇を見るのは当然だが、ゆかりのある人々にとって満州は、いまも痛切で複雑な感情をよびさます土地だ。「満州」はもともと民族名だったのが地名になったとされる。現在の中国・遼寧省、吉林省、黒竜江省、内モンゴル自治区東部を合わせた地域。かつては愛新覚羅一族が支配していて、それが中国全土を収めたのが清王朝。清は中国の五行では「水」が表象なので、本当は「満州」ではなく「満洲」が正しいという。万里の長城最東端の山海関より外という意味で「関外の地」、厳寒の自然環境から「不毛の地」とも呼ばれた。 資源豊富で人口が希薄な満州は「夢の土地」だった 「十万の英霊、二十億の国帑(こくど=国家財産)」
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この間、中島岳志の『超国家主義』を読んだ。 超国家主義 (単行本) 作者:中島 岳志 筑摩書房 Amazon 同著者の『朝日平吾の鬱屈』、『親鸞と日本主義』をはじめとして、いくらかいろいろな当時についての本を読んでいたので、いわばダイジェスト的な本であるという印象をうけた。一方で、あまりそのあたりについて知らないという人にはおすすめの本である。 で、この本で「これは知らなかったな」というのは石原莞爾の恋文についてである。Wikipediaにも書いていない。石原莞爾はご存知の通り、日蓮宗、国柱会にのめり込んだが、それに愛妻を引き込もうとしていた。が、宗教に引き込もうというような意図を超えて、信仰と愛が一体となったすごいラブやんという内容であったので、そうであったのかと驚いた。 (国柱会)入会直後の五月、中国の漢口に赴任することになった。彼には前年に結婚したばかりの妻がいた。その名は銻。新婚早
記事保存 日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。 1931年(昭和6年)9月18日に、日本現代史の分水嶺となった事件が起きた。「満州事変」だ。現地に駐留していた陸軍の「関東軍」はスピード進撃で中国東北部全域を占領し、翌年に「満州国」を成立させた。国内世論は湧いたものの、各国の批判を浴びた日本は国際連盟を脱退、孤立化への道を進んだ。満州事変を立案・実行したのが関東軍・作戦主任参謀の石原莞爾(1889~1949年)だ。現在でも多くの陸軍軍人が厳しく批判される中で、例外的に石原には肯定的な評価もある。しかし最終的に師団長から中将のまま待命・予備役入り(引退)という組織上のキャリアは、表面的には「超二流」止まりにも映る。「戦略の天才」を挫折させた陸軍人事を追った。 幼年学校は首席、陸大は次席だが自由奔放 石原は山形県鶴岡市の出身で、陸
陸軍中将であり「軍事の偉才」と称された石原莞爾の思想について、昭和15年の講演をベースに書かれている著作。 石原莞爾が述べる「最終戦争」とは、兵器が発達しすぎて、人類はもう戦争することが出来なくなるという事です。 人類が核兵器を持つことにより、全世界を巻き込む大きな戦争は事実上不可能に近い状態とも言えるので、ある意味鋭い洞察だと思います。 しかし、その後世界は一つになり、日本が天皇中心の社会(八紘一宇)を世界に知らしめ、先導してすべきという発想なのですが、この点は至ってません。 大東亜戦争で、日本がコテンパンにやられて、日本人の思想もほぼ変えられてしまいましたからね。 石原莞爾のような男が、戦前に政権に残っていたら、ひょっとしたら大東亜戦争の結末も変わっていたかも知れません。 こちらもオススメです。 imakokowoikiru.hatenablog.com 戦争の本質の一端を学びたいので
関東軍作戦参謀として満洲事変を引き起こす一方、東条英機との確執で現役から退かされた石原莞爾。終戦間際にはいち早く東久邇宮内閣成立を画策し、戦犯から外された東京裁判では、尋問で米側を一喝する気概も見せた。作家の早瀬利之氏が、晩年の石原の実像に迫る。 *** 【写真2枚】この記事の写真を見る 『世界最終戦論』で知られる石原は、終戦を郷里の山形県鶴岡で迎えた。満洲事変の後、参謀本部時代には中国戦線の不拡大方針を唱え、1937年9月には参謀副長として関東軍へ左遷される。が、上官である参謀長の東条とはことごとく対立した。40年7月には、第2次近衛内閣で陸相に就いた東条が進める「北守南進」に公然と反対し、太平洋戦争開戦前の41年3月、石原は予備役へと追いやられる。まもなく職を得た立命館大学も、東条の圧力により同年秋に辞職。以後は鶴岡で借家住まい、向かいの家から毎日、特別高等警察(特高)に監視されながら
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