神聖ローマ帝国の初代皇帝について、世界史の授業などで耳にしたことがあるのではないか。そう、オットー1世である。 11月新刊『ドイツ誕生』では、ドイツをつくった男として知られるオットーの激動の人生から、ドイツ国家の成立までを紹介している。 今回は、オットーが行った第3次イタリア遠征について、本書の第10章を一部抜粋してお届けしよう。 ポー平原の野戦 九六五年一月、オットーがイタリアを引き上げてからたったの数週間足らずでイタリアはまたもや不穏な情勢になってきた。 まず、三月一日、教皇レオ八世が亡くなった。ローマ市民は次の教皇にハンブルクに流されているベネディクト五世の復位を願った。もちろんオットーはこれを拒否する。教皇選出が遅れる。 この混乱を利してパヴィア伯ベルンハルトらの貴族が蜂起した。彼らはコルシカにいるアーダルベルトをイタリア王に担ぎ出した。アーダルベルトの弟グィードもこれに呼応して