時間が経ってしまったので先の日記の続きをうまく書けなくなってしまった。1960年代に出てきたミューザック方式の疲労曲線BGMとかヒーリング音楽と、サイケデリック・カルチャーやレゲエのドラッグ的な音楽の表裏の関係がうまく考えられるかと思ったりしたのだった。 ■初音ミク ユリイカ「初音ミク」特集を読んだ。ボーカロイドの声と人間の声を比較するにあたり、焦点になっていたのは「声の肌理」だったように思う(「初音ミク」は身体をもつ/もたない、藤田咲の身体に帰属する/しない)。バルトは意味作用に還元されず、その余剰として歌手の身体を指し示す声の物質性を「声の肌理」と呼び、それを意味が形成される場として、意味作用のゼロ地点として、享楽の場として議論した。しかし、我々が議論の前提としているように、バルトがパンゼラのレコードから聞きとったという「声の肌理」は果たしてパンゼラのなまの身体に帰属しうるものなのだろ