タグ

ブックマーク / blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog (21)

  • 「偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連」のブログ記事一覧-聖徳太子研究の最前線

    このコーナーでは聖徳太子作とされる偽の『五憲法』とそれを含む偽作の『先代旧事紀大成経』に関する学問的な研究、そして『五憲法』や『大成経』を利用した強引な国家主義・道徳主義の押しつけやトンデモ説をともに紹介していきます。 8月27日に東洋大学で『大成経』研究集会が開催され、私を含む内外の研究者が発表し、討議をおこないました。江戸時代の偽作である『先代旧事紀大成経』について、こうした研究会が開かれたのは、これが初めでしょう。 江戸中期に山王一実神道や修験道系の思想と『大成経』の影響を受け、独自の説を形成した天台僧、乗因について論じた『徳川時代の異端的宗教 : 戸隠山別当乗因の挑戦と挫折』(岩田書院、 2018年)を著すなど、『大成経』関連の研究を進め、この研究集会を組織した東北大の曽根原理さんの共編で刊行されたのが、 岸覚・曽根原理編『書物の時代の宗教ー日近世における神と仏の変遷』【ア

    「偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連」のブログ記事一覧-聖徳太子研究の最前線
  • 中華意識を持ったアジア諸国の一つとしての倭国:川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」 - 聖徳太子研究の最前線

    中国中華意識は有名ですが、実は、中国北地の北方遊牧民族国家や中国周辺の国家の中にも、中華意識を持っていた国はいくつもあります。そうした国々と比較しつつ、倭国について検討したのが、 川芳昭「《日側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」 (北岡伸一・歩 平編『「日中歴史共同研究」報告書 第1巻 古代・中近世史篇』、勉誠出版、2014年) です。日中国韓国は、歴史観の違いによってこれまでいろいろな問題が起きてきましたが、このは書名が示すように、日中国の学者が協議してそれぞれの視点を示し、ともに認めることができる事実を明らかにしようとした試みの一つです。川氏は、外交面などに注意している東洋史学者です。 川氏のこの論文の次には、王小甫「《中国側》七世紀の東アジアの国際秩序の創成」が掲載されています。このように、諸国の研究者がそれぞれの視点で意見を出し合い、協議していくことが大事です

    中華意識を持ったアジア諸国の一つとしての倭国:川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 古代日本は家族が未成立、中国と違って直系相続の意識無し:官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造」 - 聖徳太子研究の最前線

    前回、日中を比較して「朝政」の検討をした馬豪さんの論文を紹介しましたので、同様に中国人研究者による日中比較の論文を紹介しておきます。 官文娜「日古代社会における王位継承と血縁集団の構造-中国との比較において-」 (『国際日文化研究センター紀要』28号、2004年1月) です。20年前の論文ですが、この方面の論文は以後、あまり見かけないため、取り上げることにしました。 官氏は、冒頭で「日古代社会には有力豪族による大王推戴の伝統がある」と断言し、大伴氏・物部氏・蘇我氏・藤原氏らは次々に王位継承の争いに巻き込まれ、その勢力は関係深い王の交代によって増大したり衰えたりしたことに注意します。 そして、6~8世紀には、王位継承をめぐる豪族同士の争いにおいて非業の死をとげた皇族が10数人以上におよぶのに対し、古代の中国では、王位をめぐる争いは常に統治集団内部の権力闘争だったと官氏は述べます。 中国

    古代日本は家族が未成立、中国と違って直系相続の意識無し:官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造」 - 聖徳太子研究の最前線
    quick_past
    quick_past 2024/04/27
    日本の古来からの伝統=====中国から輸入したもの
  • 守屋合戦と「憲法十七条」に見える「自敗」は巻13以前の用例とは性格が異なる:葛西太一「自敗自服する賊虜と日本書紀β群の編修」 - 聖徳太子研究の最前線

    このところ、聖徳太子に関わる論文を含めた古代史のが続いて刊行されていますが、面白いのは、以下の2冊が偶然ながらともに2月26日に出版され、同じ日に献が届いたことです。 一つは、山下洋平さんの『日古代国家の喪礼受容と王権』(汲古書院、2024年)です。山下さん、有難うございます。「憲法十七条」における『管子』の影響を論じた山下さんのすぐれた論文は、このブログでも紹介しましたが(こちら)、その論文も収録されています。最近、考古学の発見が続いているだけに、古墳や墓の変化と中国から受容した喪礼がどう関わるかは重要な問題ですね。 もう一冊は、『日書紀』の編纂について語法の面で論じた論文集であって、このブログで取り上げた上智大学国文学科の瀬間正之さん(こちら)と葛西太一さん(こちら)の論文が収録された、小林真由美・鈴木正信編『日書紀の成立と伝来』(雄山閣、2024年)です。瀬間さん、葛西さん

    守屋合戦と「憲法十七条」に見える「自敗」は巻13以前の用例とは性格が異なる:葛西太一「自敗自服する賊虜と日本書紀β群の編修」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 「道教と古代日本文化」ブームの聖徳太子論の誤り: 間違いを放置して良いか - 聖徳太子研究の最前線

    拙論「聖徳太子伝承中のいわゆる『道教的』要素」(『東方宗教』115号、2010年5月)は、「いわゆる」という語が示しているように、「道教的だと称している人たちもいるが、実際には違う」ということを明らかにしようと試みたものです。昨年の日道教学会の学術大会で発表した内容に少々訂正を加えました。趣旨は変わっていません。 発表では、「徳」の下に「仁・礼・信・義・智」の形で五常を配する冠位十二階の特異な順序は、六朝時代に成立した道教経典、『太霄琅書』に基づくとする福永光司先生の論文、「聖徳太子の冠位十二階--徳と仁・礼・信・義・智の序列について--」(福永『道教と日文化』、人文書院、1982年)を取り上げて批判しました。『太霄琅書』から自説に都合の良い箇所だけを切り貼りしており、しかも、原文のうち三箇所も省略しておりながら、「……」や(中略)などによってそれを示していないことを指摘したのです。「

    「道教と古代日本文化」ブームの聖徳太子論の誤り: 間違いを放置して良いか - 聖徳太子研究の最前線
    quick_past
    quick_past 2023/12/18
    確か東方神霊廟は2014年だけど、あれの神子は聖徳太子に道教組み合わせたキャラになってたな・・・。この批判は2010年。
  • 『日本書紀』同様に作為のある『隋書』、意外に史実を伝えた面もある『日本書紀』:石井正敏「『日本書紀』隋使裴世清の朝見記事について」 - 聖徳太子研究の最前線

    私が長らくやめていた聖徳太子研究に復帰し、大山説批判に乗り出してまだ数年の頃、2011年に藝林会の第5回学術研究大会としておこなわれたシンポジウム「聖徳太子をめぐる諸問題」に参加しました。 このシンポジウムでは、所功氏の司会のもとで、武田佐知子、石井正敏、北康宏の諸氏と私が発表して相互討議をおこない、翌年、他の研究者が書いた聖徳太子関連論文とともに『藝林』第61巻2号に掲載されました(諸氏の論文の一覧は、こちら。私の論文は、こちら)。 その石井正敏氏は、温和な様子で文献を着実に検討しておられましたが、残念なことに2015年に亡くなってしまっため、知友が編纂して著作集を出しており、その中にこの時の発表に基づく論文が収録されています。 石井正敏『石井正敏著作集第一巻 古代の日列島と東アジア』「『日書紀』隋使裴世清の朝見記事について」 (勉誠出版、2017年) です。 『日書紀』は編纂時の

    『日本書紀』同様に作為のある『隋書』、意外に史実を伝えた面もある『日本書紀』:石井正敏「『日本書紀』隋使裴世清の朝見記事について」 - 聖徳太子研究の最前線
  • クラスター分析で『日本書紀』区分論を見直し、巻でなく天皇ごとの検討を提唱:松田信彦「日本書紀「区分論」の新たな展開」 - 聖徳太子研究の最前線

    森博達さんの区分論と加筆の指摘は、『日書紀』研究に圧倒的な影響を与えました。私が三経義疏の変格漢文研究などを始めたのもその影響です。 ただ、同じ巻の中でも天皇によって記述の形が違う場合があるのが気になっており、基づいた史料の違いかと思っていたのですが、この点についてクラスター分析を用いて検討した研究が出ています。 松田信彦『『日書紀』編纂の研究』「第四部第二章 日書紀「区分論」の新たな展開-多変量解析(クラスター分析)を用いて-」 (おうふう、2017年) です。 松田氏は、「序 研究史と問題点の整理」において、これまでの区分論は、別伝注記の用語、分注の偏在、歌謡表記に用いられた仮名、様々な用語、多義性のある漢字の用法、漢籍の出典、助動詞的な用字、などに注目して区分分けしてきたと述べます。 その結果、ほとんどの研究結果が、巻13(允恭・安康)と巻14(雄略)の間で区分の線を引くことで

    クラスター分析で『日本書紀』区分論を見直し、巻でなく天皇ごとの検討を提唱:松田信彦「日本書紀「区分論」の新たな展開」 - 聖徳太子研究の最前線
  • スメラミコトは天皇の訓であって須弥(スメール)山に基づくとする学問的な主張:森田悌「天皇号と須弥山」 - 聖徳太子研究の最前線

    このブログは、「聖徳太子研究の最前線」という名ですので、この10年以内、できればこの数年内の論文や研究書を紹介するようにしてきましたが、それらについてコメントしていると、かなり前の研究が問題になることもあります。その一例が、 森田悌『天皇号と須弥山』「一 天皇号と須弥山」 (高科書店、1999年) ですね。森田氏のこの説については、これまで何度か言及したことがあるものの、20数年前の論文であるため、詳しく紹介してませんでしたが、前々回の記事で須弥山と天皇の関係に触れましたし、天皇号の問題は以後も未確定のままですので、ここで紹介しておきます。 森田氏は、天皇以前の倭王の称号としては「大王」とされることが多いが、大王は皇族中の有力な人に対しても用いられているため、「治天下」という語と結びつけられることによって倭王の立場を示すとします。そして、前後の文脈からそれが分かる場合は、「治天下」の語が省

    スメラミコトは天皇の訓であって須弥(スメール)山に基づくとする学問的な主張:森田悌「天皇号と須弥山」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 煬帝への親書は書簡マニュアルの用語を利用:高松寿夫「『日本書紀』「推古天皇紀」に見える外交文書」 - 聖徳太子研究の最前線

    前回紹介したシンポジウムは、発表者である阿部泰郎さんと吉原浩人の2人が編者を務め、司会の河野貴美子さんも書いている論文集、『南岳衡山と聖徳太子信仰』(勉誠社、2018年)の延長版という面もありました。 中世の太子信仰については膨大な資料があるうえ、おどろおどろしいタイプも多く、また研究も積み重ねられていて踏み込むと泥沼なので、このブログでは、明治から戦時中あたりまでの国家主義的な太子信仰は扱うものの、聖徳太子その人に関する論文や研究書を優先し、中世の太子信仰は敬遠してきました。上記のの中で、太子の時代を扱った唯一の論文が、 高松寿夫「『日書紀』「推古天皇紀」に見える外交文書」 です。 高松氏は、『日書紀』に掲載されている煬帝が推古に当てた親書が、蔵書家として知られた清朝の学者、陸心源の『唐文拾遺』(1888年)に「玄宗遺文」として収録されていることから話を始めます。『日書紀』では隋

    煬帝への親書は書簡マニュアルの用語を利用:高松寿夫「『日本書紀』「推古天皇紀」に見える外交文書」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 天孫神話の原型は400年頃に伽耶から須恵器とともに伝わった?:瀬間正之「高句麗・百済・伽耶の建国神話と日本」 - 聖徳太子研究の最前線

    「阿毎多利思比孤」について二人の研究者の説を紹介しましたが、匈奴であれ倭国であれ、その国独自の伝統に基づく「天子」という概念はありうるものの、「天孫」を天から地上に送るというのは特殊な形ですね。この点が聖武天皇を「孫」とする藤原不比等の政治的位置と関わることを示唆したのは、上山春平氏でした。 ここまでは仮説としてはありうるものの、大山氏の太子虚構説は、これを極度なまでに展開したため、墓穴を掘る結果となった次第です。 ただ、問題は、「天孫降臨」の思想を受け入れる基盤、つまり、天から幼い者が支配者として地に降りてくるという図式が倭国に古くからあったかどうかですね。この問題に取り組んだのが、 瀬間正之「高句麗・百済・伽耶の建国神話と日」 (『東洋文化研究』第20号、2018年3月。こちら) です。早くからコンピュータを活用して『風土記』や『古事記』の仏教利用の面を解明してきた瀬間さんは、最初期

  • 逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(1) - 聖徳太子研究の最前線

    小説を書く者などは、浅はかな然し罪深いもので、そりやこそ、時至れりとばかり筆を揮つて、有ること無いこと、見て来たやうに出たらめを描くのである。と云つて置いて、此以下は少しばかり出たらめを描くが、それは全く出たらめであると思つていたゞきたい。但し出たらめを描くやうにさせた、即ち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演した事である。(『玄談』日評論社、1941年) と、ユーモア混じりに述べています。余裕ですね。実際には、露伴は歴史学者以上に幅広い教養を備えており、この小説でも、時に想像を交えつつ、軽妙な文体に託して恐るべき博識をさりげなく披露しています。 ところが、井沢氏の『聖徳太子のひみつ』は歴史小説でないのに、こうした区別に留意せず、参考にした文献に触れず、歴史の真実を明らかにしたと称して「出たらめ」を書きまくっているのです。 日歴史学者と違って自分は世界史に通じているという自己宣伝はどこへ

    逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(1) - 聖徳太子研究の最前線
    quick_past
    quick_past 2022/02/20
    呉座が突っ込むレベルの人なんだよなあ
  • 逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(2) - 聖徳太子研究の最前線

    粗雑な『聖徳太子のひみつ』同様(こちら)、ツッコミどころ満載です。 まず、井沢氏は、聖徳太子は「日仏教の祖」とされるが、大事なのは「和の思想」であって、仏教でも儒教でもキリスト教でもない日の伝統である「和の思想」を「発見」したのは、聖徳太子だと述べ、その太子がなぜ「聖徳」と呼ばれたのかという疑問から話を始めます(8頁)。 しかし、「憲法十七条」における「和」を聖徳太子の思想の中心として重視するようになったのは、昭和初期のナショナリズムの高まりの中においてのことでした。ヘーゲル研究で知られる国家主義的なドイツ哲学者、紀平正美などが持ち上げ、紀平が属する国民精神文化研究所で編纂した『国体の義』(文部省教学局、1937年)において、「和」を建国以来の日の特質と強調した結果、広まったものです(こちら)。 井沢氏がしばしば用いる「和の精神」という語も、この『国体の義』に見えています。「日

    逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(2) - 聖徳太子研究の最前線
    quick_past
    quick_past 2022/02/20
    和だのヤマトを大和として神聖視するの、軍部って感じがあるもんなあ
  • 倭国の群臣会議と比較すべき古代韓国における合議制の展開:倉本一宏「朝鮮三国における権力集中」 - 聖徳太子研究の最前線

    古代の日について語るには、同時代や少し前の時代の韓国中国の状況と比較する必要があります。 「憲法十七条」の「和」の背景となる群臣の合議については、少し前に新羅の「和白」にも触れた鈴木明子氏の合議制論文を紹介しましたが(こちら)、古代韓国三国における合議制と王への権力集中の過程を論じたのが、 倉一宏『日古代国家成立の政権構造』「第二章 朝鮮三国における権力集中」 (吉川弘文館、1997年) です。 倉氏は、まず次のような石母田正氏の類型説(1971年)を提示します。 ・国王自身に支配階級の権力が集中される百済類型 ・宰臣が国政を集中的に独占し、国王は名目的な地位にとどまる高句麗類型 ・支配階級の権力が王位に就く資格のある王族の一人に集中され、王位には女性が即き国権をもたない政治的首長の役割を果たし、これらとは別に貴族の首長の評議によって国家の大事を決定する機関を持つという新羅類型

    倭国の群臣会議と比較すべき古代韓国における合議制の展開:倉本一宏「朝鮮三国における権力集中」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 『日本書紀』β群の筆者は日本人で漢訳仏典になじんでいた:李明月「日本書紀の「亦」と「又」」 - 聖徳太子研究の最前線

    前々回の記事で、基礎資料をしっかり読まず、曲解と空想ばかりをくりひろげる井沢元彦氏のトンデモを取り上げました(こちら)。 これに対して、語法に注意して『日書紀』の用例を地道にこつこつと検討していった例が、 李明月「日書紀の「亦」と「又」」 (『上智大学国文学論集』55号、2022年1月) です(李さん、刊行されたばかりの論文の抜刷、有難うございます)。 「~ぞ」「~よ」「~ぜ」といった助詞のニュアンスを正確に把握するのは、外国人には難しいの同様、漢語の虚詞のニュアンスは日人には分かりづらいのですが、李さんは中国人研究者の立場から、漢語では意味が異なる「亦」と「又」が『日書紀』においてどのように区別して用いられているかを調べています。 まず、藤原照等氏が、「古事記の用字『亦』と『又』」(『古事記年報』5巻、1958年6月)において、『古事記』では副詞の用法の場合、「亦」は「更に」、

    『日本書紀』β群の筆者は日本人で漢訳仏典になじんでいた:李明月「日本書紀の「亦」と「又」」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 研究成果を学ばず、参考にした文献も表示しない粗雑な思いつき本:井沢元彦『聖徳太子のひみつ』 - 聖徳太子研究の最前線

    「時空を越えた極上の歴史エンターテインメント!」と謳っているものの、勉強不足で思いつきばかりが目立つ粗雑な聖徳太子が刊行されました。 井沢元彦『聖徳太子のひみつ』 (ビジネス社、2021年12月) です。表紙では、題名の横に「「日教」をつくった」と記されています。 井沢氏は、研究者の研究を軽んじて空想をくりひろげた梅原猛路線を受け継ぎ、問題の多い歴史を数多く出していることで有名です。今回のもその一つですが、そもそも副題のような「「日教」をつくった」という部分が問題です。 「日教」という言葉を書物の題名にして有名にしたのは、イザヤ・ベンダサン著・山七平訳という形で『日人とユダヤ人』を、山氏が社主をつとめる山書店から1970年に刊行してベストセラーとなり、続く『日教について』(文藝春秋、1972年)でも大いに話題を呼んだ山七平氏です。 山氏は、1977年には『「空気」

    研究成果を学ばず、参考にした文献も表示しない粗雑な思いつき本:井沢元彦『聖徳太子のひみつ』 - 聖徳太子研究の最前線
  • 倭国では「王」も「大王」も「皇」も「大皇」もオオキミ:冨谷至「天皇号の成立」 - 聖徳太子研究の最前線

    前回の続きです。 冨谷至『漢委奴国王から日国天皇へ』「第八章 天皇号の成立」 (臨川書店、2018年) 冨谷氏は、「天皇」の語が見える法隆寺金堂薬師如来光背銘については、670年の若草伽藍焼失後になって追刻されたとする説に賛成しつつも、表記が「治天下天皇」「大王天皇」「治天下大王天皇」とあって統一されていないため、「確立した称号表記になっていなかった」と推測します。 この銘が律令制以前のものであることは竹内理三氏が早くに指摘したことですが、問題は、こうした過渡期の用例がいつ頃生まれたかですね。これらのおかしな表記については、後代の偽作だとする証拠とされることが多かったのですが、律令制で天皇の称号が確定した後になって、このような奇妙な表記を用いて偽作することは考えにくいです。 冨谷氏は、最近は、「天皇」の語は天武朝初期には用いられていたとする説が有力になっているとしたうえで、光背銘が追刻さ

    倭国では「王」も「大王」も「皇」も「大皇」もオオキミ:冨谷至「天皇号の成立」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 蘇我馬子の仏教理解は仏を神と同一視する程度のものだったか:中野聡「蘇我馬子の仏教信仰と飛鳥大仏」 - 聖徳太子研究の最前線

    仏教伝来期については、仏教理解の程度は低いものとされてきました。欽明天皇13年に、百済の聖明王が仏像を送ってきたところ、欽明天皇がその様子がきらきらしていることに驚いて祀るべきかどうか群臣に尋ね、物部大連尾輿と中臣連鎌子が「蕃神を拝す」べきでないと反対したとする『日書紀』の記述が影響を与えているのでしょう。 また、この部分は、703年に訳された『金光明最勝王経』の文言によって潤色されているため、疑いがさらに増しています。 しかし、伝来期の蘇我稲目の頃ならともかく、壮大な飛鳥寺を建立する馬子の頃の仏教理解は進んでいたはずです。馬子の仏教信仰を伝統的な祖先信仰、呪術的なものとみなすことが果たして正しいのか。この問題に取り組んだのが、 中野聡「蘇我馬子の仏教信仰と飛鳥大仏ー仏教彫像の機能からみた飛鳥時代初期の信仰ー」 (『仏教史研究』第59号、2021年3月) です。 中野氏は、飛鳥寺の尊で

    蘇我馬子の仏教理解は仏を神と同一視する程度のものだったか:中野聡「蘇我馬子の仏教信仰と飛鳥大仏」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 【重要】「憲法十七条」第一条の「和」と疑問箇所の典拠が判明:聖徳太子シンポジウムで講演予定 - 聖徳太子研究の最前線

    少し前の記事で、「憲法十七条」の第二条・第十四条の典拠となるだけでなく、「憲法十七条」全体の基調となっているのは大乗戒経の『優婆塞戒経』であることを指摘した拙論が刊行されたことを紹介しました(こちら)。この発見のおかげで、第二条中で違和感をおぼえてきた箇所が、なぜそう書かれているのか分かりました。 古代の文献は、典拠と語法に注意しなくては正確に読めないという一例ですが、拙論刊行後になって、さらに「憲法十七条」の第一条のうち、疑問に思われる箇所が基づいていた儒教の文献を発見しました。 第一条では、「和」を強調したのち、世の人々は党派を組みがちであって、悟っている者が少ないため、「是を以って、或いは君父に順わず、また隣里に違[たが]う(以是、或不順君父、乍違于隣里)」、つまり、「君主や父の言うことに従わず、また近隣と仲違いする」と述べており、それを防ぐために「上和下睦」してなごやかに話し合うこ

    【重要】「憲法十七条」第一条の「和」と疑問箇所の典拠が判明:聖徳太子シンポジウムで講演予定 - 聖徳太子研究の最前線
    quick_past
    quick_past 2021/12/28
    "儒教の言葉は用いてますが、倭国の当時の状況から見て必要な部分を取り入れただけ"そのくせ現代日本の右翼は、儒教の限定的な一側面だけ切り出して揶揄するのな。日本がすでにそうなんだってのに
  • 欽明紀は大陸系渡来人と仏典には通じているが漢文が弱い日本人/半島系渡来人の述作:瀬間正之「欽明紀の編述」 - 聖徳太子研究の最前線

    少し前に、森博達さんの『日書紀』α群=中国人述作説を批判した天文学者の谷川清隆氏の論文を紹介しました(こちら)。谷川論文は、天文記事などの記述の偏りから論じたものですが、朝鮮半島関係記事が大半を占め、森説ではα群とされる欽明紀は、国語学の立場から見ると、「大陸系渡来人」が書いた部分と、仏教に通じているものの漢文に不慣れな日人か朝鮮半島系渡来人が書いた部分から成るとする論文が刊行されました。 瀬間正之「欽明紀の編述」 (『上代文学』第127号、2021年11月) 出たてのほやほやです。瀬間さんは、電子データを活用し、『古事記』に仏典の影響が見られることを早くに指摘しており、古典を扱う文系研究者のうち、最も早い時期からコンピュータを活用していた仲間の一人です。変格漢文に関して、韓国中国、日の専門家たちに集ってもらい、科研費で国際共同研究を4年間やった際のメンバーでもありました。 その瀬

    欽明紀は大陸系渡来人と仏典には通じているが漢文が弱い日本人/半島系渡来人の述作:瀬間正之「欽明紀の編述」 - 聖徳太子研究の最前線
  • Wikipedia「聖徳太子」記事における石井説記述の誤りの数々(訂正版) - 聖徳太子研究の最前線

    Wikipediaの「聖徳太子」記事は、研究者ではない古代史ファンの人たちが書いているようで、学術的でなく問題だらけであって、最新の研究状況を反映していない点は変わっていませんが、論調はこの10年ほどでかなり変化しました。 当初は、「聖徳太子はいなかった、実在したのは厩戸王だ」説が正しいとする立場を柱としていたものの、最近は虚構説には反論が多いこともとりあげており、ネット上で読むことのできる私の説も紹介してくれています。 たとえば、2021年7月22日現在のWiki記事では、 用明天皇紀では「豊耳聡聖徳[注釈 1]」や「豊聡耳大王」という表記も見られる[7]。『厩戸王』という名の初出は更に30年下った『懐風藻』であり[5]、歴史学者の小倉豊文が1963年 の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく…… と書かれており、注7

    Wikipedia「聖徳太子」記事における石井説記述の誤りの数々(訂正版) - 聖徳太子研究の最前線