慈恩寺の最上院墓地にある墓が庄内松山藩初代家老・幾志与兵衛(きし・よへい)のものであることがわかった。 幾志は田沢川大堰開削などを手掛け藩の振興に尽くしたものの、本藩である庄内藩と対立して延宝五年(1677)から4年ほど投獄、その後、谷地に居住し貞享元(1684)年十一月八日に亡くなったと伝わるが、晩年の記録は見つかっていないという。[山形新聞]
慈恩寺の最上院墓地にある墓が庄内松山藩初代家老・幾志与兵衛(きし・よへい)のものであることがわかった。 幾志は田沢川大堰開削などを手掛け藩の振興に尽くしたものの、本藩である庄内藩と対立して延宝五年(1677)から4年ほど投獄、その後、谷地に居住し貞享元(1684)年十一月八日に亡くなったと伝わるが、晩年の記録は見つかっていないという。[山形新聞]
弘前藩津軽家墓所の霊屋(たまや)で内部に収められている宝篋印塔が、福井県から採掘される緑色凝灰岩で造られ、表面は多くの金箔(きんぱく)を使用したいてことがわかった。 また、長勝寺の霊屋5棟のうち4棟に収められている木製五輪塔は、高さ52.2~112cmと大型で、全国的に見ても例がないほどの大きさで非常に貴重だという。[東奥日報・Yahoo!ニュース]
飛鳥時代後半(7世紀後半)に建てられた茨木郡の郡寺「茨城廃寺」で中門跡が発見され、「法隆寺式伽藍配置」だったことがわかった。 9日午前10時半と午後1時半から現地説明会があるという。[石岡市・マチパブ]
道後湯之町で弥生時代のつぼなどや、中世とみられる焼き物の一部二十数点、柱跡2つが発見された。 中世のものは湯築城に関連する遺跡とみられるという。[愛媛新聞]
岡崎城の南を流れる乙川の河川敷に埋もれていた江戸時代前期の石垣が新たに発見された。 3代藩主・本多忠利が正保元年(1644)に完成させたもので、総延長400m、当時の絵図に描かれた「菅生川端石垣(すごうがわばたいしがき)」で、現存する城壁としては国内最長となるという。[中日新聞]
幕末~明治時代に伊那谷を放浪した俳人・井上井月(せいげつ)の真筆とみられる9句が記された短冊など8点が村内の旧家で発見された。 筆跡から、明治五年(1872)までの作品とみられ、「ほとゝぎす旅なれ衣ぬぐ日かな」「霎(しぐれ)まつ柴の庵(いおり)のけぶりかな」などがふるという。[信濃毎日新聞]
京都市の隠れた名物「仁丹商標入り町名表示板」の木製バージョンが大津市内でも発見された。 デザインなどから大正末期(1920年代前半)頃設置したとみられ、他都市でも現物が残っている可能性があるという。[毎日新聞]
明治時代に静岡浅間神社廿日会(はつかえ)祭で使用された稚児舞の衣装が同社で発見された。 境内の市文化財資料館で開かれている企画展「廿日会祭と稚児舞」で17日まで一部を特別展示するという。[静岡新聞]
JR中央線高円寺駅周辺にあった「高円寺7丁目第5町会」が発行した戦争末期における庶民の暮らしぶりが伝わる回覧板約140通が発見された。 昭和十九年(1944)三月末~同二十年(1945)参月上旬頃のもので、配給品や出征者の情報だけでなく、学童疎開の壮行会や防火組織への参加を促す文面があり、空襲が激しさを増す中、戦局が悪化していく様子がうかがえるという。[読売新聞]
芥川賞作家・中上健次が1967年に地元週刊紙に連載したエッセーのうち、全集未収録の回のコピーが発見された。 タイトルは「現代についてのエチュード(10) ひろしま・ひろしま」で、この年の原爆の日(8月6日)と前日に広島市の平和記念公園を訪れた印象などをつづっているという。[毎日新聞
ナイロビで約350万年前の猿人アウストラロピテクス・アファレンシスの歯の化石など4個が発見された。 人類発祥とされる大地溝帯(大地の裂け目)の東側で猿人が見つかったのは初めてだという。[毎日新聞]
伊予松山藩主久松松平家ゆかりの武具や甲冑(かっちゅう)などが奉納された東雲神社で、これまで類例のない江戸時代前期の「和製南蛮胴具足(なんばんどうぐそく)」が発見された。 前面の胴甲は6枚の鉄板を貼り合わせた特徴的な仕様で、日本の甲冑師が模作したものだという。[愛媛新聞]
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