元ラトビア大使の多賀敏行さん(写真本人提供)この記事の写真をすべて見る ロシアの脅威と隣り合わせで生きる周辺諸国にとって、情報収集と分析は生命線だ。プーチン大統領の動向については、常に観察と分析を重ねている。ロシアと国境を接し、バルト海に面するラトビアで日本大使を務めたことのある多賀敏行さんは、領土拡張の野心に満ちたプーチンとロシアの「本質」について語る。 【写真】プーチン氏の顔写真とともに「間抜けなプーチン」の文字が書かれた火炎瓶 ※記事前編 <<「プーチンにとって核はただの爆弾」 元ラトビア大使が警告するロシアの脅威と核のカード>>から続く * * * 2014年、クリミア併合の少し前のことだ。 多賀元大使は、大使公邸での夕食会にラトビアの政治家や有識者を招き、情報を交換する機会を持った。 参加者のラトビア人のひとりが、プーチンについてこんな話を持ち出した。 「最近、ロシア国内で変
Russia is huge. We all know that. And yet, pretty much the entire North of Russia is nearly empty. That’s especially clear in Siberia, with almost all of its population concentrating in a narrow stripe across the southern border, similar to Canada. That sounds obvious and even pre-determined. Wouldn’t people naturally flock to where it’s warmer, sunnier and more fertile? And yet, that’s far from o
若狭地方が滋賀県だった時期 滋賀県庁に何度か行ったことがある。お役所の常として、本館に新館にそのまた新館に、といくつかの建物に分かれているのだが、そのうちの「新館」の入口には、滋賀県が福井県南部――嶺南地方を編入していたときの地図がでかでかと掲示されていた。滋賀県の歴史を伝える貴重な資料ということのようなのだが、どうにも心がざわついてしまう。言うなれば首相官邸の入口に、朝鮮半島や台湾を占領していた時代の地図を掲示しているようなもので、福井の人間が怒らないだろうか、と心配になってしまう。 嶺南というのは、文字通り山嶺の南側という意味で、具体的には敦賀市と南越前町とを隔てる木ノ芽峠の南側である。令国制でいう若狭国――現在でいう小浜市、三方郡、大飯郡、三方上中郡はすっぽりこの嶺南に収まるが、同じく嶺南である敦賀市は越前国となるため、嶺南すなわち若狭というのは正確ではない。ちなみに、残る木ノ芽峠の
As the car with the blacked-out windows came to a halt in a sidestreet near Tübingen’s botanical gardens, keen-eyed passersby may have noticed something unusual about its numberplate. In Germany, the first few letters usually denote the municipality where a vehicle is registered. The letter Y, however, is reserved for members of the armed forces. Military men are a rare, not to say unwelcome, sigh
もうすぐ76回目の終戦記念日、そして原爆投下の日を迎えます。コロナ禍の影響で去年に引き続き慰霊行事は縮小されてしまうかもしれませんが、例年8月になると、平和への想いを強くさせられます。 ところで、あなたは広島と長崎に落とされた原爆についてどのようにお考えですか? アメリカの調査機関であるピュー・リサーチ・センターが2015年1~2月に日米で同時に行った意識調査を見ると、アメリカ人全体の56%が原爆投下を「正当化される」と認識しているようです。 出典:原爆投下を正当化するのは、どんなアメリカ人なのか?|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト アメリカ人の中では未だに「原爆投下は仕方ない」「むしろ正しかった行為だ」という価値観を持つ人が過半数を占めます。そして、原爆を投下された側の日本人でさえ原爆投下を正当化している人が14%存在しているのです。7人に1人は原爆投下は「仕方なかった」とみな
だって、テロで死人が出ても(ミュンヘン) 大赤字でおわって開催地では増税して借金の返済に30年かかっても(モントリオール) 国際政治の対立に巻き込まれて、多数の国がボイコットしても(モスクワ・ロサンゼルス) 開催都市がその後内戦でボロボロになっても(サラエボ) 開会式の演出でハトが焼け死んでも(ソウル) 開催国の経済破綻を引き起こしても(アテネ) 選手村で窃盗や婦女暴行事件が起こっても(リオデジャネイロ) 失敗したなんてカウントされないんだから。 選手村でクラスター発生して一部競技が中止になっても、アフター東京で変異株色々持ち込まれてまた日本国内で感染拡大したとしても、逆に日本に来た選手がなんか持ち帰って、母国に被害出しても、そんなもんは失敗にはカウントされないんだろ。
[Noah Smith, “Contemporary China vs. Imperial Japan,” Noahpinion, May 2021] おおよそ,両者はてんで別物だ. 東アジアで米中の対立が強まって軍事的な緊張が高まってきている件があちこちで議論されている.そのなかで,かなりよく見かける話に,こんなのがある.「2020年代の中国と1930年代の大日本帝国には,いろいろと類似してる点がある.」 似ていると考える理由は,わかりやすい――どちらも東アジアの国だし,アメリカとの各種関係が悪かった.でも,ほんのいくつかならちょっと似てるところもちらほらあるとはいえ,おおよそこの2つは大違い,別物だ. 相違点は多すぎて,とてもじゃないけど列挙していられない.ただ,そのなかでも大きなちがいが3つある.米中が紛争をおこす可能性を考えるときに,この3つはとりわけ重要だ.で,その3つとは: 統
はじめに言っておきますが、「中世ヨーロッパの収穫率(播種量→収穫量の倍率)が3倍程度だった」というのは資料上確かな事実であり、これ自体を否定する気は一切ありません。 しかしながらここから「ヨーロッパの農民は常に少ない収穫に苦しんでいた」だとか、「30倍にもなる稲は麦より優れた作物だ」なんて話に進んでいくのを見ると、それはちょっとおかしいぞと思います。 今回はそうした状況を生じる要因について見ていきながら、この数字のトリックを暴いていきたいと思います。 ■灌漑に関する話 農業の大きな区分として「天水農業」と「灌漑農業」があります。 これらは作物に対する水の供給方法の違いであり、前者は基本的に降雨からのみ、後者は河川等から人為的に引き込む方法をとります。 日本がどちらかといえば完全に後者が多く、代表的なのは言うまでもなく水田稲作でしょう。 また学校教育の世界史なんかでも、文明成立=灌漑農業とし
私が住む東京都町田市の小田急町田駅の東口の広場には「絹の道」という石碑がある。それをゼミ生に見せてからJR横浜線の下り線に乗り、八王子に向かう。その車中で、なぜ八王子と町田を結ぶこの街道が絹の道と呼ばれるか、学生たちに説明する。 このあたりの多摩丘陵の地形地質が桑畑に向いていて、それが地域の養蚕業を盛んにしたこと。そうして絹製品の産業基盤がこのあたりにあったところに、幕末期に盛んになった生糸輸出で、山梨や長野、群馬の生糸がいったん八王子に集まり、そこから輸出港横浜まで運搬されるルートができたこと。その流通加工拠点であった八王子には富が蓄積されたし、横浜までは生糸を馬の背に乗せて運ぶにも一日では歩ききれないので、行商人たちがその中間地点の町田で一泊してお金を落としたこと。横浜で生糸を売り捌いて懐が暖まった行商人たちが、おそらく帰路についた一泊目の町田で羽根を伸ばしたので町田には町の規模の割り
CDU党本部にあるアデナウアー元首相の写真の前を通るメルケル首相(09年) REUTERS/Wolfgang Rattay <日本がドイツ・モデルを見習って謝罪しても、東アジアの近隣諸国との関係改善にはつながらない。本誌「ドイツ妄信の罠」特集より> 日本と近隣諸国との歴史問題の原因は、日本政府が戦時暴力を謝罪しなかったことにあるという意見をよく聞く。しばしば日本と比較されるドイツは戦後に謝罪し、被害者への補償を行い、歴史教育や追悼行事を通じて戦争の記憶を忘れない努力をしている。日本もドイツの例に倣えば、いずれ近隣諸国と和解できる、というのがこの主張の骨子だ。 こうした既存の「常識」には問題がある。ドイツ・モデルから間違った教訓を得ていることだ。他の和解の事例と同様、ドイツの経験が示唆しているのは謝罪ではなく、真実を語ることの重要性なのだ。 アジアの人々は、戦時中の日本による暴力や収奪、ある
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「せんせい、みずをください」 消え入るような声で、たまたま通りかかった先生を呼び止めた13歳の女の子。 先生は水をあげることもできずに、女の子の手を握りしめることしかできませんでした。 数日後、女の子は、ひとり息を引き取りました。 (国際部・栄久庵耕児) 私(筆者)は東京で生まれ育ちました。 でも、幼少期を広島市で過ごした父は、私が小さなころから何度も、原爆で亡くなった、父の姉の話をしてくれました。 私の伯母にあたる彼女の名前は、栄久庵昌子(えくあん・ひろこ)。 13歳で亡くなりました。 会ったことはありませんが、親しみを込めて、ここではあえて「昌子さん」と呼びたいと思います。 今から75年前、広島市の山中高等女学校の2年生だった昌子さんは、空襲に備えて建物を取り壊す作業に加わり、炎天下の中で家の瓦の片づけをしていました。 しかし、そこから1キロほどしか離れていない場所に原爆が投下され、昌
『公研』2020年8月号 第 606 回私の生き方 富野 由悠季・アニメーション監督 父への疑念 ──「富野由悠季の世界」展が昨年6月より開催されています(現在中断中、再開は9月の予定)。 富野 今回の「富野由悠季の世界」展で「与圧服」の写真を展示しています。これの開発に父が関わっていて、家に資料が残っていました。 この機会でしかできない話を一つさせてください。父の経歴についてです。父は昔の中学を卒業したあと、東京府立化学工業学校(化工)という専門高等学校へ進んでいます。父のアルバムにあった化工の写真を見ると、3階建てのコンクリート校舎の中央に時計塔があり、石積みの外壁の正面には三つのアーチ状の飾りが施された扉がある立派な建物でした。その前に軍人たちが集まっている写真は、子供の頃は軍の部隊写真だと思っていた。ところが、父は「俺の学校なんだ」と言っていました。 僕はそのアルバム写真を子供の頃
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