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人生と歴史に関するroseknightのブックマーク (6)

  • インパール作戦に従軍した祖父の詳細な手記が発見される「とんでもなく貴重な資料が発見された」「出版してほしい」

    田中智行 @t_tomoyuki77 帰省中。幼いころに亡くなった祖父がインパール作戦に従軍していたと聞いて、詳しい話を聞きたかったとずっと思っていたところ、「吾が一生 愛孫 智行君へ」と題された長大な手記が見つかったと教えられ、そのなかに詳細な戦争体験記があった。言葉にならない。 リンク Wikipedia インパール作戦 インパール作戦(インパールさくせん、日側作戦名:ウ号作戦〈ウごうさくせん〉)とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)のビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に大日帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。作戦はイギリスの植民地インドを独立させて、イギリスの勢力を一掃するという政治的な目的に加えて、ビルマ防衛のための攻撃防御や援蔣ルートの遮断を戦略目的としていた。 通俗的には、牟田

    インパール作戦に従軍した祖父の詳細な手記が発見される「とんでもなく貴重な資料が発見された」「出版してほしい」
  • 「むしろ凡庸だから生き残れた」秀吉、家康の天下になっても織田家が幕末まで続いたワケ 織田信長の次男・信雄の意外な生涯

    周囲から凡庸だと思われていた信長の次男 織田信雄は、信長の次男である。だから、能寺の変(1582)で、父・信長と兄・信忠が自害した後、来なら織田家の当主となり、父の天下統一事業を引き継ぐ立場にあった。ところが、羽柴(豊臣)秀吉の策略によって、織田家の当主は、清洲(愛知県清須市)会議であっけなく信忠の嫡男・三法師(まだ3歳の幼児)に決まってしまった。 ただ、信雄が当主になれなかったのは、ある意味、仕方がない。なぜなら、彼は凡庸だと思われていたからだ。 実際、清洲会議では織田家の重鎮・柴田勝家が三男・信孝を後継者に推したのに、信雄を押す重臣は誰もいなかった。信雄の低評価を決定づけたのは、信長が亡くなる3年前の天正7年(1579)のことだった。 当時、伊勢国南部(三重県)を支配していた信雄は、父に無断で隣国・伊賀(三重県西部)へ攻め込んで大敗を喫し、激怒した信長から激しい折檻状せっかんじょう

    「むしろ凡庸だから生き残れた」秀吉、家康の天下になっても織田家が幕末まで続いたワケ 織田信長の次男・信雄の意外な生涯
    roseknight
    roseknight 2021/12/17
    相手の意図を把握できず独断で動いたことが織田信雄の失敗だったのでは。本人を見ると、織田家という大きな看板を持て余して自分なりの目標を持たなかったようにも見える。凡庸よりも風見鶏の方が納得いくな。
  • 名君?暗君?「徳川慶喜」強情だけど聡明な魅力

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    名君?暗君?「徳川慶喜」強情だけど聡明な魅力
    roseknight
    roseknight 2021/04/25
    慶喜は江戸幕府の衰退を感じ取っていたのだろう。徳川家定の嫉妬感情や周囲の期待との乖離、朝廷との関係が本人を孤独にしたのだろうか。対人関係の複雑さが慶喜の強情さに少なからず影響を与えたのかも。
  • 文春に眠る「太平洋戦争の肉声」、浮かび上がる日本人の意外な姿とは

    きまた・せいごう/大阪キリスト教短大客員教授 元岐阜女子大学副学長、元週刊文春・月刊文芸春秋編集長。1955年京都市生まれ。78年早稲田大学政治経済学政治学科卒、同年文芸春秋入社。『週刊文春』『文芸春秋』の編集長を経て、2015年常務取締役、18年退社。現在、大阪キリスト教短大客員教授を勤める。関わった主な記事は、江川紹子との坂弁護士失踪事件追及、野坂参三密告の手紙、少年Aこの子を生んで、ジャニーズ追及キャンペーン、田中真紀子秘書給与疑惑、村木厚子独占手記、田中角栄の恋文、尾崎豊の遺書など多数。著書に『文春の流儀』。 文春は、お嫌いですか?元編集長の懺悔録 元週刊文春、月刊文芸春秋編集長が明かす週刊誌報道の舞台裏。記者たちの奮闘ぶりはもちろん、権力との対峙から文豪の素顔まで、40年間の文春での日々を赤裸々に振り返ります。 バックナンバー一覧 文芸春秋に入社して2018年に退社するまで4

    文春に眠る「太平洋戦争の肉声」、浮かび上がる日本人の意外な姿とは
    roseknight
    roseknight 2021/03/24
    山本五十六中将に課された期待、丸山豊を始めとした旧日本兵等の本物の声は現代にも通じるか。敵国人との未来を巡るやり取りは微妙なものだ。現代人は歴史とは何かを忘れていないか。価値観の交錯にも注目したい。
  • よきナンバー2に不要なもの 史記にみる成功者の条件 | NIKKEIリスキリング

    中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(81)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「多くを偽った役人の不幸 史記が語る『酷吏』の一生」) 国も組織も、ナンバー1の運命はナンバー2によって変わることが多いようです。ナンバー2はイエスマンであってはならず、国のため組織のために最善の方策を持っていなければなりません。そして、ナンバー2は、決してナンバー1から好かれていると信じてはいけないのです。そのことを心得てあざやかに身を引いた人物が史記に登場します。今回は中国

    よきナンバー2に不要なもの 史記にみる成功者の条件 | NIKKEIリスキリング
    roseknight
    roseknight 2021/02/14
    范蠡の成功の原因は名声を得た主君による処分を回避したことにある。一番の座を目指さず、布衣の極に拘らないことが生き残る秘訣か。安倍政権下でNo.2の立場であった菅義偉の末路は范のようにはなるまい。
  • 特攻隊員の自爆機が敵に突っ込んでいく時、なぜ基地の無線で「最後の瞬間」を聞いていたのか | 文春オンライン

    パイロットが搭乗したまま航空機を敵艦に突っ込ませる特攻隊の「体当たり作戦」は、「私には、100パーセント死ぬ命令をだすことはできない」と語った海軍航空部隊の隊長がいたというほど、生還の望みをもてないものだった。 作家・保阪正康さんの著書『昭和史七つの謎と七大事件 戦争、軍隊、官僚、そして日人』(角川新書)より、特攻の始まり、そして特攻隊員たちの知られざる音について一部を抜粋する。 ◆ ◆ ◆ 特攻の始まり 初めて戦術としての組織的な特攻隊の出撃は、昭和19年10月25日。海軍の神風特攻隊である。 この年、各地の守備隊が次々玉砕するなど、戦況は著しく日に不利となった。軍事指導者たちの無能ぶりからなんら打開策が見いだせないまま、戦争はズルズルと泥沼に陥り、犠牲者をいたずらに増やしていた。その中から出てきたのが「体当たり攻撃」作戦だった。 まず海軍が、人間魚雷「回天」を開発した。もっとも初

    特攻隊員の自爆機が敵に突っ込んでいく時、なぜ基地の無線で「最後の瞬間」を聞いていたのか | 文春オンライン
    roseknight
    roseknight 2020/08/07
    無条件降伏を突き付けられていたことが特攻が生まれた原因ではあるが、旧日本軍は同作戦を前例化し過ぎた。実際に特攻隊員の中には途中で引き返してきた人もいる。だが、人間の公人性を忘れてはならない。
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