Overview43200 Books1119 Series17902 Authors4618 Articles1 Event
Overview43200 Books1119 Series17902 Authors4618 Articles1 Event
少し前にインターネットを騒がせていた言葉に「キモくて金のないおっさん」というものがあります。これは社会的弱者であるが権利運動とか救済の対象として想定されていない男性を指す俗語です。 このおっさんたちはどうやら非常に社会的、経済的に苦しい状況に置かれている一方で、マイノリティとして見えづらいため女性とか少数民族、セクシュアルマイノリティ、障害者などに比べると自己主張しづらい状況に置かれているそうです。「キモくて金のないおっさん」については、こうした不可視化、つまり存在が認識されていないことが問題だと考えている人が多いようです。 しかしながら、私の見るところ、文学史上にはあまたのキモくて金のないおっさんが登場します。そこで今回は私が個人的にキモくて金のないおっさん文学の名作だと思っている、ジョン・スタインベックの『二十日鼠と人間』と、アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』をとりあげ、古典がど
幼いころから、絵本や子ども向けテレビ番組で触れる性別のイメージによって、後の価値観は左右されるのでしょうか。アンケートには、メディアが描く女性や男性の姿が子どもに及ぼす影響を問う意見が寄せられています。声の一部を紹介するとともに、児童文学作家と、テレビの「戦隊もの」番組の制作スタッフに話を聞きました。 ■リーダー役は男ばかり ●「絵本の読み聞かせをしているが、男の子が主人公と言うものが多い。また、古い作品かもしれないが、父親は冷静で大局的な判断をし、母親はやさしく、心配性で目の前のことにおろおろする、というような作品が気になる。冒険するのは少年であって、少女ではない。こんなところからも男らしい、女らしいというすりこみができるのではないだろうか?」(北海道・50代女性) ●「子どものうちから不適切な性的役割分担などを見て影響を受けてしまうことは避けたいのに、見せたいアニメがあまりありません。
私はChange.orgで繰り広げられている「三重県志摩市公認萌えキャラクター「碧志摩メグ」の公認撤回を求める署名活動」に賛同しています。海女という職業が春画の時代から性的な表象を付されてきた歴史的経緯を鑑みれば、どう見ても行政がその負の歴史を黙殺していると、解釈せざるをえないからです。(なぜか服の上からでも透けて見える)乳首や性器が出てこないのでOK、という類の言い逃れが仮にあるのであれば、そんな屁理屈は通用しないと心得るべきでしょう。 ふだん署名の際には、私は純粋に「数の一員」であることが大事だと思ってコメントは書かないのですけど、地元ご出身の笙野頼子さんがコメントを寄せておられ、内容的に重要性がきわめて高いものと考えます。もとのサイトだとすでに掘り出すのが困難になってしまっているので、こちらに採録しておきます(読みやすくするためレイアウトを少し整形しています)。 三重県出身の文学者で
ヒューゴー賞(Hugo Awards)は、世界中のSFファンが注目するSF、ファンタジー、ホラージャンルの重要な賞である。 受賞作は世界SF大会(ワールドコン, World Science Fiction Convention)に登録したファンの投票で決まり、大会の間に開催される授賞式で発表される。気取った文芸賞とは異なり、批評家ではなくファンが決める賞なので、必ずといって良いほど面白く、ベストセラーにもなる。そういった点で、とても信頼性がある賞だった。……少なくともこれまでは。 ところが、このヒューゴー賞が社会政治的なバトルグラウンドになってしまったのだ。 アメリカのSF作家のなかには、最近のヒューゴー賞は「マイノリティの人種、女性、同性愛者への公正さを重んじるリベラルな政治性を優先して選ばれている」、「文芸的な作品が重視され、娯楽的なSFが無視されている」といった不満を持つ者がいる。そ
作品の中身より受賞歴が前面に出てくるのがイヤなので、普段あまり賞関連の話はしないのだけど、今年のヒューゴー賞についてはやはり触れておかないといけないと思い、遅まきながら概要をまとめてみた。こんなに真面目にヒューゴー賞の情報を追ったのは初めてかもしれない。 何が起こったか 今年のヒューゴ—賞の候補作投票で「サッド・パピーズ」「ラビッド・パピーズ」と称する2つの集団による組織票が多数の部門にわたって行われ、大部分が実際にノミネートされた。 小説4部門に限ってみても、長篇部門では5作中2作*1、ノヴェラ部門で5作中5作、ノヴェレット部門で5作中4作、ショートストーリー部門で5作中5作*2と両パピーズの推薦作が多く含まれている。 その他にも、映像部門、編集者部門、ファンジン部門……と影響は多岐にわたる。組織票の対象となった作品の一覧はこのサイトでまとめられている。 経緯 今回の組織票の首謀者は「サ
私は男性の大島弓子ファンです。最近、福田里香・藤本由香里・やまだないと著の『大島弓子にあこがれて』(ブックマン社)という本を読んだのですが、収録されているやまだないとと福田里香の対談にあった以下の内容を目にしてとても悲しい気持ちになりました: やまだ「男の人は大島弓子をわかりたがる」よね(笑)。 (略) やまだ「まあ、その言葉のあとに、『少女にうまれなかったんだからあきらめな』ってのが続くんだけど(笑)。」 (略) やまだ「私は、男の人が大島弓子をわかりたがるのはね、大島先生に対抗意識をもっているからだと常々思っているのです。」 福田「なんか、男の人の逆鱗じゃないけど、何かに触れちゃってるってこと?」 やまだ「あれだよ。「君が夢中な大島弓子より、僕は君のことをわかってる」みたいな、「ほら、君って、こういうことを考えているだろう?」「僕が本当のことを教えてあげよう」って。ああ、大きなお世話(
→紀伊國屋書店で購入 オタク死んでも、やっぱマラルメは残るぞかし いってみれば機械マニエリスムが16世紀に始まったことを教えてくれる最近刊に次々と啓発された後、その20世紀末~21世紀初頭における再発を一挙総覧できるのも、有難いし、面白い。それが慶應義塾大学藝文学会2005年末の恒例のシンポジウムのプログラムに多少の稿を加えての今回作。 巽孝之氏の編というので、見ぬうちから安心。序に「わたしたちの人造美女エンサイクロペディア」を謳うが、書き手・読み手として以外に、編む人としての巽氏の目配りぶり、遺漏なき網羅への意志を誰よりも愛ずるぼくなど、目次案をじっと眺めて、もはや画期書と納得した。1954年にフランスで刊行されるや近現代セクシュアリスム論のバイブルと呼ばれて、東野芳明や澁澤龍彦といった論者の決定的霊感源ともなったシュルレアリスト作家・批評家、ミッシェル・カルージュの名著『独身者の機械』
「男泣き」の是非について我が国で歴史的にどう見られていたか、以前の記事で考察してみました。それによれば、どうやら徳川前期より前には男性が涙を流す事へのタブー感は薄かったという事が分かりました。 さて、源平合戦期に平知盛や熊谷直実といった歴戦の勇士すらも人目を憚らず涙で袖をぬらしていた一方、同時代の大江広元は『吾妻鑑』によれば一度も涙を浮かべた事がないと豪語していたとか。因みに広元の主君であった源頼朝はというと、弟の義経が彼の元に駆けつけた際には嬉し泣きして迎え、父の仇を討った曽我兄弟の遺書を読んでは貰い泣きしたりとかなり涙もろい部類だったようです。広元は都出身の実務官僚で別に戦場の勇者ではないですからが泣かないのは冷徹さゆえだと思われ、日本ではいわゆる「男らしさ」と「泣かない」こととは必ずしも一致しない事が分かります。 とはいえ、『万葉集』に ますらをと思へる我や水茎の水城の上に涙拭はむ(
「男は泣くものではない」というのは以前から言われている気がします。最近はジェンダー間の区別が緩くなったのか以前ほどではないようですが、それでもネットでのとある記事を見ても、男性は「泣いた」と言明するのが憚られるようですし、実際に「涙寸前でリミッターが自然にかかってしまいます」という証言も見られます(http://portal.nifty.com/special03/0314/)。 しかし、昔から「男らしい」男は泣かないものだったのでしょうか。古典などから例を挙げて検証してみることにしましょう。 まずは日本神話を編纂した「古事記」から。まず、日本を生み出したイザナギは、妻であるイザナミが火の神を産んで焼死した際、泣き悲しんでいます。そしてその子であるスサノオは、荒々しい振る舞いで知られ、ヤマタノオロチを退治した勇者でもありますが、亡き母を思慕して泣き叫び父を怒らせています。そしてヤマトタケル
This article originally appeared on Boston Review. In Stieg Larsson’s best-selling Millennium series—The Girl with the Dragon Tattoo, etc.—a disaffected teenaged rape survivor, Lisbeth Salander, kicks ass and takes names. Readers and critics hailed Larsson’s creation as groundbreaking. To pick just one representative case, Michiko Kakutani, in her review of The Girl Who Kicked the Hornet’s Nest, c
人の性情にも体質にも万人共通の点即(すなわ)ち類性と、個人独得の点即ち個性とがあります。前代の社会心理の公準は類性のみを見て人の全部だと誤解した嫌(きらい)がありました。似た所ばかりを集めて一つの型を空に作り、その型を標準として逆に一般の人間を律しようと致し、殆(ほとん)ど人の個性というものを眼中に置いていませなんだ。例えば初めから男というものはこういうものだ、女というものはこういうものだと決めてしまい、その「こういうものだ」という概念を土台にして更に男とはこうすべきものだ、女とはこうすべきものだという規範を立てて一概に万人を律し、その規範に合わない人は人間でないように軽蔑(けいべつ)する習慣を作るに到りました。昔から支那などは習慣を重んじ過ぎる国ですから、少し新しい人が出て自己の特性を発揮しようとすると、直ぐに不忠だとか大逆無道だとかいう悪名を著せて死罪に処したりなんか致します。人が尊い
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く