ケータイ配信で人気に火がついた『東京都北区赤羽』。メジャー誌で連載失敗を重ねた作者が語る、漫画家という職業 伯父が、昭和20年代に発売されていた『漫画少年』という雑誌に投稿して掲載されたりしていたんです。手塚治虫先生も連載していた、由緒ある雑誌なんですよ。 伯父は漫画家のアシスタントをしたりイラストの仕事をしたりしていたんですが、ウチの家族と同居していて、子供の僕とも遊んでくれた。ヒザの上に座ると、伯父が真っ白い紙を広げて、スラスラと新幹線や動物園の絵を描くんです。それが魔法のようで……。それから絵を描くのが好きになりました。初めて漫画原稿を描いたのは高校に入ってからですけど、道具の使い方のいろはを教えてくれたのも伯父ですね。 僕が高校生の頃は、新人漫画賞の受賞作がよく誌上に掲載されていたんです。そこでギャグ賞の受賞作を見て、「くだらない、この程度なら自分にも描けるかも」って思った(笑)。
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