2006年5月2日のブックマーク (8件)

  • 高原基彰blog: 姜尚中・吉田司,2006,『そして、憲法九条は。』晶文社.

    研究室の後輩に風邪を移され、咳など出しながら更新している春の夕方。 ところで、姜尚中という人は、大学院における私の指導教授であり、大学の世界では普通に「師匠」という言い方をする。 といっても、何か直接「指導」してもらったことなんてほぼないし(笑)、単著にしろ雑誌にしろ、仕事に口をきいてもらったことも一度もないし……というか、私が彼の「弟子」になってから、早いもので8年近く経ったのだが、その間に二人きりで話したことなんて7-8回しかないし(笑)。ちょっと前までの日の大学院というのは、大体どこでもそんな雰囲気だったんじゃないでしょうか。良くも悪くも。 なので、そうでなくとも当然のことなんですが、とりあえず私と彼は「別人格」ということでお願いできないかと思っている、今日この頃です。はい。 彼の著作や来歴などについても、私なんかより、コアなファンの方々の方がよっぽど詳しいと思います。 私が知って

    shin-ohara
    shin-ohara 2006/05/02
    姜尚中評。自分語り。>>自分の外にだけ敵を見出して「左翼」とか「右翼」とか呼んで批判する思考回路を、その内容の如何問わず、なんか受け付けなくなってしまった:何となく分かるが世代論になりげなので判断留保。
  • 内田樹の研究室: うなぎくん、小説を救う

    2024 1月 - janvier 2月 - février 3月 - mars 2023 1月 - janvier 2月 - février 3月 - mars 4月 - avril 5月 - mai 6月 - juin 7月 - juillet 8月 - août 9月 - septembre 10月 - octobre 11月 - novembre 12月 - décembre 2022 1月 - janvier 2月 - février 3月 - mars 4月 - avril 5月 - mai 6月 - juin 7月 - juillet 8月 - août 9月 - septembre 10月 - octobre 11月 - novembre 12月 - décembre 2021 1月 - janvier 2月 - février 3月 - mars 4月 - avril 5

    shin-ohara
    shin-ohara 2006/05/02
    >>父のいない世界において...:以降文末に尽きる。ハルキ読みでないので村上春樹の作品からこれを抽き出すのが妥当かは知らんが、妥当ならそれはそれで価値あること。
  • 笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その6) - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

    これは以下の日記の続きです。 →http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060505#p1 最初から読みたい人はこちらから。 →http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060430#p1 今日は、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵・文藝春秋2005年12月号)に対して抗議したレスター・テニー氏の日語文テキスト(文藝春秋2006年3月号に掲載されたもの)を、編集部の言葉とあわせて紹介します。例によって「調べることのメモ」つきです。けっこう長いので、覚悟して読んでみてください。 ただし、英文テキストはインターネット上で、だいぶ前に公開されているので、 →Letter from: Lester Tenney, Ph.D., Former POW of the Japanese and a survivor of the

    笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その6) - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
  • 愛・蔵太の少し調べて書く日記:笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その5)

    これは、以下の日記の続きです。 →http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060504#p1 最初から読みたい人はこちらから。 →http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060430#p1 今日もコツコツと、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵・文藝春秋2005年12月号)の引用を続けます。このテキストの引用は、今回で終わりです。 兵隊はすっからかんになる さて、実際に歩いてみてわかったことがある。それは、第一に「この距離を歩いただけででは人は死なない」ということである。今回、私は、準備はおろか栄養失調状態でこの行進に臨んだが、無事に歩き終えた。筋肉や関節が痛み、足の指には三つのマメができた。しかしそれでも、足は惰性で動くのだ。このことは、移送計画自体が、そう無理なものではなかったということも示している。実際に道をたど

    愛・蔵太の少し調べて書く日記:笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その5)
  • 笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その4) - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

    これは、以下の日記の続きです。 →http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060503#p1 最初から読みたい人はこちらから。 →http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060430#p1 今日もコツコツと、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵・文藝春秋2005年12月号)の引用を続けます。 百二キロを踏破 ▼十月十五日(三日目)。天候晴れ。 夜中にスコールが降ったが、午前七時の時点で太陽が照りつけている。kろえから味わう暑さを想像すると、うんざりしてくる。 午前八時半、気温三十四度。アブカイ教会から行進を開始する。今日は、デナルピアンからパンパンガ州に入り、ルバオ付近を目指す予定である。 四十分ほど歩くと、五十キロ地点の道標が確認できた。もし「死の行進」が百キロを超えるのだとしたら、ようやく半分ということになる。昨日

    笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その4) - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
  • 芸術は所有の対象にならない事 - 売文日誌

    http://d.hatena.ne.jp/ululun/20060429/misc0604295 アカデミズムの限界 - あんとに庵◆備忘録 どちらも芸術の階級主義に違和感を感じているエントリ。いわゆるオタク とかサブカルとかがそんなのに混ざるとつまらなくなるからという事らしい。 だが変だ。そこでそんなのに混ざるのはどうよみたいに言ってはいるけれど、 その実口ぶりはとても知的で、とても階級主義的な言い方になってしまって いる。それで悪いとここで言うのではないが、少なくとも言っている内容と 言っている言い方がい違っているのは心的な健康のためにもよくないかと。 で。 ニーチェ主義者的に言えば芸術に優劣があるのは自明であって、そこへの 反論や違和感と言うのは何をしたいのか解らない。あるいは、より説明的に 言うなら感性の動きについてよりよく動かすものとよりよく動けるものとが あるというところは

    芸術は所有の対象にならない事 - 売文日誌
    shin-ohara
    shin-ohara 2006/05/02
    >>既存のでなく自前の価値序列を仮設的に構築し続けることが重要、というのは同意。でもそれと、サブカルの人が「サブカルコンテンツがアートに取り込まれて変容するのはイヤ」と感じるのは別レイヤの話と思うな。
  • アート、教養、ポピュリズムとかとか - Living, Loving, Thinking, Again

    アート、それからその享受の前提となる教養、そしてポピュリズムというか、エリート主義/反エリート主義といった問題系について、ちょっとは原理的に考えてみないといけないなと思った。石原慎太郎の現代美術を巡る言いたい放題についてのLiberationの記事(の翻訳)*1、そして九谷さんのロックを巡るメモ*2を読んだのが直接のきっかけであるとはいえるのだが。 九谷さんのメモ(というよりも久谷さんがネタにしている南田さん)に対してコメントを差し挟めば、先ず(これも古くて新しい問題だが)フォーク・タームとテクニカル・タームというか、当事者視点と研究者(批評家)視点の関係について、もっと考えるべきだろうと思う。例えば、ロックの「アート」志向云々という場合、その「アート」という概念の意味(定義)について、研究者側が想定している「アート」とミュージシャンが想定している「アート」とファンが想定している「アート」

    アート、教養、ポピュリズムとかとか - Living, Loving, Thinking, Again
    shin-ohara
    shin-ohara 2006/05/02
    >>〔ロックファンの一部は〕「アート」志向が強い。しかし、その「アート」の内実たるや、吃驚するほど保守的なものである。例えば...:他ジャンルの通俗的理解による崇拝対象を箔付けする話の例。
  • わかる・わからない - あんとに庵◆備忘録

    どうも、芸術というか美術はコムズなモノとして認識されることが多いようで、これに関して昨日のエントリでsumita-mさんが書いているような「世界は判りにくいものだ」という辺りは同意してしまう。 ○Living, Loving, Thinking http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060428 ■「難しい」ことが問題なのか 私は世界というのはそもそも複雑すぎてわからないものと思っている。だから、整然とした、わかりやすい説明というのに接すると、引いてしまう。 しかし他方で鑑賞者のほうで「判らねばならない」という強迫観念があり、その強迫観念がどうして産まれたのか?とまぁ、そういう現象に対して不思議に思うこともある。 ピカソなんて能丸出しのタダの馬鹿アートだし。だからその馬鹿っぷりの痕跡を愉しめばいいはずなんだけど「キュビズムを理解しないといけないか?」とかそっち

    わかる・わからない - あんとに庵◆備忘録
    shin-ohara
    shin-ohara 2006/05/02
    >>鑑賞者のほうで「判らねばならない」という強迫観念:「正解(往々にして唯一の)」があるはずだ、という先入観が蔓延してる(た)気はするかな。表面上「強制力が低下してるからネグる」と見がちだが実は逆かも。