五丈原の巻と新潮文庫に関するshiromitsuのブックマーク (36)

  • 吉川『三国志』の考察 篇外余録(3)「魏から――晋まで(ぎから――しんまで)」

    視点を魏(ぎ)に転じ、もうひとつの落日賦(らくじつふ)を描いた篇外余録の3話目。 蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)のたび重なる侵攻を防ぎきった魏の曹叡(そうえい)だったが、3代目のお約束にはまってしまう……。 篇外余録(3)の全文とポイント (01)三国、晋(しん)一国となる 孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)の歿後(ぼつご)、魏は初めて、枕を高うして眠ることを得た。年々の外患もいつか忘れ、横溢(おういつ)する朝野の平和気分は、自然、反動的な華美享楽となって現れだした。 この兆候は、下よりまず上から先に出た。大魏皇帝の名をもって起工された洛陽(らくよう)の大土木の如きがその著しいものである。朝陽殿(ちょうようでん)、大極殿(たいきょくでん)、総章観(そうしょうかん)などが造営された。 また、これらの高楼、大閣のほかに、崇華園(すうかえん)、青宵院(せいしょういん)、鳳凰楼(ほうおうろう

    吉川『三国志』の考察 篇外余録(3)「魏から――晋まで(ぎから――しんまで)」
  • 吉川『三国志』の考察 篇外余録(2)「後蜀三十年(ごしょくさんじゅうねん)」

    諸葛亮(しょかつりょう)亡き後、蜀(しょく)が急速にしぼんでいくさまを描いた篇外余録の2話目。 蜀にとって諸葛亮がどのような存在だったのか、痛いほど伝わってくる……。 篇外余録(2)の全文とポイント (01)孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)の没後、破滅したふたりと蜀を支えたふたり 孔明なき後の、蜀30年の略史を記しておく。 いったい、ここまでの蜀は、ほとんど孔明一人がその国運を担っていたといっても過言でない状態にあったので、彼の死は、即ち蜀の終りといえないこともない。 しかし、それは孔明自身が、以(もっ)て大いに、自己の不忠なりとし、またひそかなる憂いとしていた所でもある。従って、自身の死後の備えには、心の届くかぎりのことを、その遺言にも遺風にも尽してある。 以後、なお蜀帝国が、30年の長きを保っていたというも、偏(ひとえ)に、「死してもなお死せざる孔明の護り」が内治外防の上にあったからに

    吉川『三国志』の考察 篇外余録(2)「後蜀三十年(ごしょくさんじゅうねん)」
  • 吉川『三国志』の考察 篇外余録(1)「諸葛菜(しょかつさい)」

    吉川『三国志』の著者である吉川英治(よしかわ・えいじ)先生の三国志観から、諸葛菜(しょかつさい)と呼ばれ、現代でもべられているという蕪(かぶ。蔓菁〈まんせい〉ともある)の逸話までが語られた篇外余録の1話目。 吉川先生が、諸葛亮(しょかつりょう)の死をもって編の幕引きとした理由が興味深い。 篇外余録(1)の全文とポイント (01)吉川先生の三国志観 三国鼎立(ていりつ)の大勢は、ときの治乱が起した大陸分権の自然な風雲作用でもあったが、その創意はもともと諸葛孔明(しょかつこうめい。孔明は諸葛亮のあざな)という一人物の胸底から生れ出たものであることは何としても否みがたい。 まだ27歳でしかなかった青年孔明が、農耕の余閑、草廬(そうろ)に抱いていた理想の実現であったのである。 時に、三顧して迎えた劉玄徳(りゅうげんとく。玄徳は劉備〈りゅうび〉のあざな)の奨意にこたえ、いよいよ廬を出て起たんと誓

    吉川『三国志』の考察 篇外余録(1)「諸葛菜(しょかつさい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第311話「松に古今の色無し(まつにここんのいろなし)」

    生前の諸葛亮(しょかつりょう)が案じた通り、ほどなく魏延(ぎえん)が反乱を起こす。南鄭(なんてい)に入った楊儀(ようぎ)と姜維(きょうい)は、諸葛亮から託された計略に従い、あえて城外へ出たうえ、魏延にあることをしてみせるよう言う。 魏延が言われた通り叫んだところ、彼のすぐ後ろにいた馬岱(ばたい)にあっけなく討ち取られた。成都(せいと)で諸葛亮の葬儀が執り行われた後、その遺言により、遺骸(いがい)は漢中(かんちゅう)の定軍山(ていぐんざん)に葬られた。 第311話の展開とポイント (01)引き揚げ途中の蜀軍(しょくぐん) 旌旗(せいき)色なく、人馬声なく、蜀山の羊腸たる道を哀々と行くものは、五丈原頭(ごじょうげんとう)の恨みを霊車(霊柩車〈れいきゅうしゃ〉)に駕(が)して、むなしく成都へ帰る蜀軍の列だった。 ★原文「施旗色なく」だが、ここは「旌旗色なく」としておく。なお、講談社版(新装版)や

    吉川『三国志』の考察 第311話「松に古今の色無し(まつにここんのいろなし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第308話「銀河の禱り(ぎんがのいのり)」

    魏(ぎ)は渭水(いすい)に、蜀(しょく)は五丈原(ごじょうげん)に、それぞれ陣して、なおもにらみ合いを続けていた。 ここしばらく、諸葛亮(しょかつりょう)は体調を崩す日が増えていたが、ある夜、天を仰ぎ見て、己の命数を悟る。それでも姜維(きょうい)の勧めに従い、祭壇を設けて禳(はらい。神を祭って災いを除くこと)の法を執り行う。 第308話の展開とポイント (01)五丈原 諸葛亮の営 諸葛亮の病は明らかに過労だった。それだけに、ドッと打ち伏すほどのこともない。むしろ病めば病むほど、傍人の案ずるのも押して、軍務に精励してやまない。 近ごろ聞くに敵の軍中には、気負うこと盛んなる将士が、大いに司馬懿(しばい)の怯惰(きょうだ)を罵り、激語憤動、ただならぬ情勢がうかがわれるとしきりに言ってくる。 原因は例の、諸葛亮から贈られた女衣(にょい)巾幗(きんかく)の辱めが、魏の士卒にまですっかり知れ渡ったこ

    吉川『三国志』の考察 第308話「銀河の禱り(ぎんがのいのり)」
  • 吉川『三国志』の考察 第307話「女衣巾幗(にょいきんかく)」

    葫蘆谷(ころこく)で司馬懿(しばい)父子を討ち漏らしたものの、渭水(いすい)における大勝利に蜀軍(しょくぐん)は沸いていた。 その後、魏蜀(ぎしょく)両陣営ともに不穏な空気が流れだす。魏は司馬懿の消極的な姿勢への不満が、蜀は魏延(ぎえん)の諸葛亮への不満が、それぞれ高まってきたものだった。諸葛亮は五丈原(ごじょうげん)へ陣を移すと、司馬懿のもとに使者を遣わす。 第307話の展開とポイント (01)渭南(いなん) 諸葛亮の営 みな蜀軍の勝ちを、あくまで大勝と喜んでいたが、ひとり諸葛亮の胸には、遺憾やるかたないものが包まれていた。加うるに、ひとまず彼が自軍を渭南の陣にまとめた後、陣中しきりに不穏の空気がある。 ただしてみると、魏延が非常に怒っているという。諸葛亮は彼を呼び、何が不平なのかと尋ねる。 包まずに言うよう促されると、魏延は葫蘆谷でのことを話した。 「幸いにもあのとき、大雨が降り注い

    吉川『三国志』の考察 第307話「女衣巾幗(にょいきんかく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第306話「水火(すいか)」

    諸葛亮(しょかつりょう)が葫蘆谷(ころこく)に大規模な拠点を築いていると伝わると、ようやく司馬懿(しばい)も動きを見せた。魏軍(ぎぐん)は部隊を繰り出すたびに勝利を重ね、蜀軍(しょくぐん)の力を侮るようになる。 そのうち司馬懿は祁山(きざん)を総攻撃すると見せかけ、自身は途中で進路を一転。息子の司馬師(しばし)と司馬昭(しばしょう)を従え、中軍の精鋭200騎のみをもって葫蘆谷を急襲する。ところが、谷の内には恐るべき罠が待ち受けていた。 第306話の展開とポイント (01)渭水(いすい) 司馬懿の営 魏軍の一部は翌日も出撃を試み、若干の戦果を上げる。以来、機をうかがっては出撃を敢行するたびに、諸将がそれぞれ功(てがら)を得た。 その多くは、葫蘆(葫蘆谷)の口へ兵糧を運んでいく蜀勢を襲撃したもので、糧米や輸車、そのほかの鹵獲(ろかく)は魏の陣門に山積みされた。捕虜は毎日、数珠つなぎになって送

    吉川『三国志』の考察 第306話「水火(すいか)」
  • 吉川『三国志』の考察 第305話「七盞燈(しちさんとう)」

    蜀(しょく)に情報は届いていないものの、魏(ぎ)の側面を突く形で出兵した呉軍(ごぐん)が引き揚げたことにより、祁山(きざん)の諸葛亮(しょかつりょう)は、渭水(いすい)の司馬懿(しばい)を自力で討ち破るしかなくなった。 しかし、司馬懿は一向に動く気配を見せない。そこで諸葛亮は馬岱(ばたい)を葫蘆谷(ころこく)へ入れ、極秘裏に大掛かりな策を施す。 第305話の展開とポイント (01)祁山 諸葛亮の営 呉はたちまち出て、たちまち退いた。その総退却は弱さではなく、国策だったと言ってよい。なぜならば呉は、自国が積極的に戦争へ突入する意思をもともと持っていないのである。 蜀をして魏の頸(くび)をかませ、魏をして蜀の喉に爪を立たせ、両方の疲れを見比べていた。しかも呉蜀条約というものがあるので、蜀から要請されると無碍(むげ)に出兵を拒むこともできない。 そこで出兵はするが、魏に当たってみて、「これはま

    吉川『三国志』の考察 第305話「七盞燈(しちさんとう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第304話「豆を蒔く(まめをまく)」

    蜀(しょく)の要請を受けて魏(ぎ)へ出兵した呉軍(ごぐん)だったが、巣湖(そうこ)の諸葛瑾(しょかつきん)が満寵(まんちょう)らに敗れ、出鼻をくじかれる。 だが、呉の総帥たる陸遜(りくそん)は、魏の国力に驚きながらも冷静に状況を見極め、営の兵士に陣外を耕し豆を蒔(ま)かせるなどしたうえ、魏の裏をかいて総引き揚げを断行する。 第304話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう) 自国の苦しいときは敵国もまた同じ程度に、あるいはそれ以上、苦しい局面にあるという観察は、大概な場合まず誤りのないものである。 この前後、魏都の洛陽は、蜀軍より深刻な危局に立っていた。それは、蜀呉条約の発動による呉軍の北上である。 しかも、かつて見ないほど大規模な水陸軍であると伝えられたので、曹叡(そうえい)は渭水(いすい)の司馬懿(しばい)へ急使を派して厳命した。 「この際、万一にも蜀に乗ぜられるような事態を招いた

    吉川『三国志』の考察 第304話「豆を蒔く(まめをまく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第303話「ネジ(ねじ)」

    「そしておのおの黒衣に素足、手に牙剣を引っ提げて旗を捧げ、腰には葫蘆(ころ。瓢タン〈ヒョウタン。竹+單〉)を掛けて硫黄や焰硝(えんしょう。火薬)を詰め込み、山陰に隠れておれ」 「郭淮の部下が王平軍を追い散らし、木牛流馬を引いて帰らんとする刹那に襲え。必定、敵は狼狽(ろうばい)驚愕(きょうがく)、すべてを捨てて逃げ去るに決まっている」 「その後、木牛流馬の口腔(こうこう)のネジを左に回し、わが祁山へ指して引いてこい」 さらに魏延(ぎえん)と姜維(きょうい)が呼ばれ、何事かまた別の計を受けて去る。 ★井波『三国志演義(6)』(第102回)では、ここで廖化(りょうか)と張翼が、5千の軍勢をひきいて司馬懿の行く手を遮断するよう命ぜられていた。 最後に馬岱(ばたい)と馬忠(ばちゅう)も一方の命令を受け、これは渭水の南のほうへ駆け向かった。 (05)北原の郊外 すでにその日も暮れ、北原の彼方(かなた)

    吉川『三国志』の考察 第303話「ネジ(ねじ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第302話「木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)」

    これまでの北伐において、いつも諸葛亮(しょかつりょう)を悩ませたのは兵糧の確保だった。 そこで今回は葫蘆谷(ころこく)に極秘の作業場を設け、「木牛(もくぎゅう)」や「流馬(りゅうば)」と呼ぶ運搬車を製作。この車が使われ始めると、剣閣(けんかく)から祁山(きざん)の営へ大量の兵糧が運ばれるようになる。 第302話の展開とポイント (01)祁山 諸葛亮の営 ある日、蜀(しょく)の陣へ来て、このように言う者があった。 「それがしは、魏(ぎ)の部将の鄭文(ていぶん)という者です。丞相(じょうしょう。諸葛亮)に謁してお願いしたいことがございます」 諸葛亮が対面して何事かとただすと、鄭文は拝伏し、「降参を容れていただきたい」と、剣を解いて差し出す。理由を問うとこう述べた。 「それがしは、もとから魏の偏将軍(へんしょうぐん)でした。しかるに、司馬懿(しばい)の催しに応じて参軍した後、彼は私より後輩の

    吉川『三国志』の考察 第302話「木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)」
  • 吉川『三国志』の考察 第301話「具眼の士(ぐがんのし)」

    太和(たいわ)4(230)年7月、体調も回復した曹真(そうしん)が朝廷に姿を見せ、曹叡(そうえい)から蜀(しょく)攻めの許可を取りつける。魏軍(ぎぐん)40万が蜀の剣門関(けんもんかん)に押し寄せたのは、それから10か月後のことだった。 と... これは、「魏を討たずんば還らじ」となす諸葛亮の意志を、無言に儼示(げんじ。厳かに示すこと)しているものにほかならない。 ここでその一塁から一報が届き、敵陣に変化のあることを告げる。 「魏の郭淮(かくわい)と孫礼(そんれい)の二軍が、隴西(ろうせい)の軍馬を領して北原へ進出し、何事か為すあらんとするもののごとく動いております」 諸葛亮は、この情報を聞いて言った。 「司馬懿は前に懲りて、隴西の道を我に断たれんことを恐れ、手配を急いだものと思われる。いま偽って、蜀が彼の恐れる隴西を突く態をなすならば、司馬懿は驚き、その主力を応援に差し向けるだろう。敵の

    吉川『三国志』の考察 第301話「具眼の士(ぐがんのし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第300話「木門道(もくもんどう)」

    鹵城(ろじょう)にいた諸葛亮(しょかつりょう)は、永安城(えいあんじょう)の李厳(りげん)から急報を受け、にわかに総退却を命ずる。 司馬懿(しばい)は諸葛亮の計略を警戒したため、あえて追撃の速度を緩めていたが、再三の請いを容れ、張郃(ちょうこう)に先駆けを許す。喜び勇んだ張郃は蜀軍(しょくぐん)を猛追し、木門道(もくもんどう)の谷口まで入り込むが――。 第300話の展開とポイント (01)鹵城 永安城の李厳は増産や運輸の任にあたり、もっぱら戦争の後方経営に努めている。いわゆる軍需相(ぐんじゅしょう)ともいうべき要職にある蜀の大官だった。 その李厳から届けられた書簡を見ると、近ごろ呉(ご)が洛陽(らくよう)へ人を遣り、魏(ぎ)と連和したようだと急告している。 諸葛亮は大きな衝撃を受けた。事実、この書面に見えるような兆候があるとすれば、これは誠に重大である。 魏に対しての蜀の強みは何と言っても

    吉川『三国志』の考察 第300話「木門道(もくもんどう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第299話「北斗七星旗(ほくとしちせいき)」

    4輛(りょう)の同じ四輪車を用いた諸葛亮(しょかつりょう)の巧妙な計に、司馬懿(しばい)ひきいる魏軍(ぎぐん)は大混乱を起こす。 やがて司馬懿は、捕らえた蜀兵(しょくへい)から真相を聞きだすが、かえって諸葛亮の知謀に恐れを抱く。 第299話の展開とポイント (01)隴上(ろうじょう) 「なるほど、妖気が吹いてくる……」 司馬懿は眸(ひとみ)を凝らして遠くを望み見ていた。 ★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「隴上は地域名。隴山、現在の陝西省(せんせいしょう)隴県以西を指していう。現在の甘粛省(かんしゅくしょう)に相当」という。 陰風を巻いて駆けきたる一輛の車には、それを囲む28人の黒衣の兵が見える。髪をさばいて剣を佩(は)き、みな裸足。北

    吉川『三国志』の考察 第299話「北斗七星旗(ほくとしちせいき)」
  • 吉川『三国志』の考察 第298話「麦青む(むぎあおむ)」

    渭水(いすい)で司馬懿(しばい)に勝利した諸葛亮(しょかつりょう)が、祁山(きざん)の営に戻ると、兵糧運搬にあたる苟安(こうあん)が、予定より10日余りも遅れて到着した。 楊儀(ようぎ)の口添えもあり、苟安は死罪を許され、鞭(むち)打ちの... 苟安の隠れ家へ丞相府から保安隊の兵が捕縛に向かったものの、彼は風をらい、とうに魏へ逃げ失せていた。 諸葛亮は百官を正し、蔣琬(しょうえん)や費禕(ひい)などの大官にも厳戒を加え、意気を改めて漢中へ向かう。 (03)漢中 連年の出師に兵の疲れも思われたので、諸葛亮は全軍をふたつに分け、一半をもって漢中に残し、もう一半をもって祁山(きざん)へ進発。そして、これが戦場にある期間を約3か月と定め、百日交代の制を立てた。 要するに100日ごとに、二軍を日月(じつげつ)のごとく戦場に入れ替え、絶えず清新な士気を保ち、魏の大軍を砕かんとしたものである。 ★『

    吉川『三国志』の考察 第298話「麦青む(むぎあおむ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第297話「竈(かまど)」

    渭水(いすい)で司馬懿(しばい)に勝利した諸葛亮(しょかつりょう)が、祁山(きざん)の営に戻ると、兵糧運搬にあたる苟安(こうあん)が、予定より10日余りも遅れて到着した。 楊儀(ようぎ)の口添えもあり、苟安は死罪を許され、鞭(むち)打ちの刑で済まされたが、それでも恨みを含み、そのまま魏(ぎ)に降ってしまう。苟安が成都(せいと)で流言を広めたため、不安を感じた劉禅(りゅうぜん)は、前線の諸葛亮に帰還命令を下す。 第297話の展開とポイント (01)渭水 司馬懿の営 このときの会戦では、司馬懿はまったく一敗地にまみれ去ったものと言える。魏軍の損害もまたおびただしい。以来、渭水の陣営は内に深く守り、再び鳴りを潜めてしまった。 (02)祁山 諸葛亮の営 諸葛亮は、拠るところの祁山へ兵を収めたが、勝ち戦に驕(おご)るなかれと、かえって全軍を戒める。 そしていよいよ初志の目標に向かい、長安(ちょ

    吉川『三国志』の考察 第297話「竈(かまど)」
  • 吉川『三国志』の考察 第296話「八陣展開(はちじんてんかい)」

    魏(ぎ)の太和(たいわ)4(230)年8月、渭水(いすい)を挟み、司馬懿(しばい)ひきいる魏軍(ぎぐん)と諸葛亮(しょかつりょう)ひきいる蜀軍(しょくぐん)が射戦を交えた後、ふたりは陣頭で相まみえ、互いに陣法をもって優劣を競うことにする。 諸葛亮が、司馬懿の布(し)いた陣形を混元一気(こんげんいっき)の陣と見極めると、司馬懿も、諸葛亮の敷いた陣形を八卦(はっけ)の陣と見極める。司馬懿は戴陵(たいりょう)・張虎(ちょうこ)・楽綝(がくりん)に打破の法を授けて攻めかからせる。 第296話の展開とポイント (01)祁山(きざん) 諸葛亮の営 魏は渭水を前に、蜀は祁山を後ろに、対陣のまま秋に入った。 ある日、諸葛亮は敵のほうを眺めてつぶやく。 「曹真(そうしん)の病は重体とみえる……」 斜谷(やこく)から敗退した後、魏の大都督(だいととく)の曹真が病に籠もるとの風説は、かねて伝わっていた。 どう

    吉川『三国志』の考察 第296話「八陣展開(はちじんてんかい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第295話「賭(かけ)」

    陳倉道(ちんそうどう)の長雨で大きな被害を出し、蜀軍(しょくぐん)と戦うことなく退却した魏軍(ぎぐん)。 曹真(そうしん)は諸葛亮(しょかつりょう)が追撃してこないことをいぶかるも、司馬懿(しばい)の見解は彼と異なるものだった。そこで曹真は、司馬懿とふた手に分かれて蜀軍を待ち受けつつ、ある賭けに臨む。 第295話の展開とポイント (01)赤坡(せきは) 魏の総勢が遠く退くと、諸葛亮は八部の大軍を分けて箕谷(きこく)と斜谷(やこく)の両道から進ませ、よたび祁山(きざん)へ出て戦列を布(し)かんと言った。 ★『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)によると、赤坡は正しくは赤阪(せきはん)。 蜀の諸将は尋ねる。 「長安(ちょうあん)へ出る道は幾条(いくすじ)もございます。丞相(じょうしょう。諸葛亮)には、なぜいつも決まって祁山へ出られるのですか?」 諸葛亮は、祁山は長安の首である

    吉川『三国志』の考察 第295話「賭(かけ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第294話「長雨(ながあめ)」

    太和(たいわ)4(230)年7月、体調も回復した曹真(そうしん)が朝廷に姿を見せ、曹叡(そうえい)から蜀(しょく)攻めの許可を取りつける。魏軍(ぎぐん)40万が蜀の剣門関(けんもんかん)に押し寄せたのは、それから10か月後のことだった。 ところが諸葛亮(しょかつりょう)は、王平(おうへい)と張嶷(ちょうぎ)にわずか1千騎ずつをもって、陳倉道(ちんそうどう)の険に拠り、難所を支えよと命ずる。敵の40万に対して味方は2千、さすがにふたりは困惑を覚えるが――。 第294話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう) (魏の太和4〈230〉年の)秋7月、曹真は健康を回復して朝廷に姿を見せ、表を奉り、このように勧める。 ★『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第99回)では明確だったが、吉川『三国志』では、前年(229年)の祁山(きざん)夏の陣と称する戦いから1年以上経った

    吉川『三国志』の考察 第294話「長雨(ながあめ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第293話「天血の如し(てんちのごとし)」

    ひとまず祁山(きざん)から引き揚げ、漢中(かんちゅう)への帰還命令を出す蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)。魏(ぎ)の張郃(ちょうこう)は追撃を強く願い出、ついに司馬懿(しばい)の許しを得た。 張郃ひきいる精兵3万に続き、司馬懿自身も、中軍の5千騎をひきいて追撃にかかる。しかしこれこそ、諸葛亮が待ち望んでいた動きだった。ほどなく両軍の間で死闘が繰り広げられ――。 第293話の展開とポイント (01)祁山 諸葛亮の営 先に街亭(がいてい)の責めを負うて、諸葛亮は丞相(じょうしょう)の職を朝廷に返していた。 費禕(ひい)がもたらした成都(せいと)からの詔書は、その儀について、再び旧の丞相の任に復すべしという、彼への恩命にほかならない。 諸葛亮は依然として固辞したが、「それでは、将士の心が奮いません」という人々の再三の勧めに従い、ついに朝命を拝して、勅使の費禕が都へ帰るのを見送った。 それ

    吉川『三国志』の考察 第293話「天血の如し(てんちのごとし)」