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ドゥルーズに関するshota_fのブックマーク (4)

  • 哲学のホラー――思弁的実在論とその周辺 - sensualempire's diary

    近年、スラヴォイ・ジジェクやアラン・バディウ、カトリーヌ・マラブーらの影響下で、英語圏において生じた大陸哲学への新しい関心は、何人かの哲学者や思想家を巻き込む形で思弁的実在論(speculative realism: SR)と称されるある哲学的立場、ないしフッサールが自身の創した現象学をそのように呼ぶことを推奨したやり方に従うならば、哲学的「運動」を生み出した。2007年にイギリスのロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ*1で開催された、クァンタン・メイヤスー、グレアム・ハーマン、レイ・ブラシエ(Ray Brassier)、イアン・ハミルトン・グラント(Iain Hamilton Grant)の四人をメンバーとする同名のシンポジウム*2が、一般的にはこの運動の直接的起源とみなされている。そこに読み取られるこの運動の基的方向性は、カント主義(Kantianism)の乗り越え、相関主義(cor

    哲学のホラー――思弁的実在論とその周辺 - sensualempire's diary
  • 浅田彰によるフーコーの整理 - Hello, How Low?

    週刊ダイヤモンドの記事「続・憂国放談」で、浅田彰×田中康夫の対談のゲストに宮台真司が来たときのこと。http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200512/ ぼーっと見てたら、浅田彰のフーコーの権力論(と統治論)の明快な整理があったので、ちょっと長いけれど引用。 (…)ギデンズやベックは第二の近代として再帰的近代ということを言っている。それに対して、ポストモダン思想などと言われる側では、ミシェル・フーコーが考え、ジル・ドゥルーズが延長した図式、ソヴリンティからディシプリンを経てコントロールへという図式があるんですね(フーコー自身は、早すぎた晩年の講義録などを見ると、ソヴリンティ/ディシプリン/セキュリティという三幅対で、ただし歴史段階論的にではなく考えていたようですが)。ソヴリンティ(主権)とは、要するに君主権ということで、神とか王とか父とかいうような超越的

    浅田彰によるフーコーの整理 - Hello, How Low?
  • 『千のプラトー』のインフォグラフィック

    ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』における「リゾーム」の構造を説明するとき、未だに浅田彰『構造と力』の図が引用される。 この図も決して悪い出来ではないが、さらに動的に、できればもっと立体的に視覚化できないものかと、常日頃から思っていたところ、Marc Ngui というイラストレーターの素晴らしいインフォグラフィックに遭遇した。 『千のプラトー』の緖言である「書は、章ではなく、プラトー[高原]によって構成されている」に従うと、今回紹介するグラフィックは、このの最初と2番目のプラトーの視覚化である。 まず最初の「序 リゾーム」は、『千のプラトー』全体の見取り図にあたる。つまりここのグラフィックは二重の見取り図になっている。そして、ツリーマップ状の「樹木」、もしくはルート/ディレクトリマップ状の「根」に対する、階層や中心を持たないダイアグラム状の「リゾーム」は、今ならハイパーリンク/ネットワ

    『千のプラトー』のインフォグラフィック
  • ドゥルーズにおける思考の概念

    ドゥルーズにおける思考の概念 O ドゥルーズはあるインタビューでこういっている。 現在のような貧しい時代には、超越性の復権と、「何かについて考察する」という意味の哲学への回帰が存在しています。それはまた、アカデミスムヘの回帰でもあります。ですから、今まさに取り戻さなければならないのは、創造としての哲学なのです。 つまり、「何かについて考察する」のではなく、概念を創造すること。超越性を探求するのではなく、内在野において概念を機能させることです。(1) ここには、終生変わることのなかった、ドゥルーズの哲学へのスタンスが集約されている。超越性への対抗と創造としての哲学。前者は「内在」という言葉で、後者は、「哲学とは概念を創造することだ」という有名なフレーズによって、ドゥルーズの哲学的スタンスとして、自明なものとされている。事実、ドゥルーズはそれを様々な場所で語っており言説をたんに言説と

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