ときに読み手であったりときに書き手であったりする主体をとりあえずは「私」と呼んでみたとたん、そこへぺたっと刻印された一人称にただよう僭称じみた白々しさがやるせないというか、しょせんは欺瞞されたプログラムみたいなもんじゃないか「私」なんてという嘆息を一度ならずこぼしたことがあるにせよ、いやだからこそ、巧妙に欺瞞されたプログラム、それが「私」ってことでいいじゃない。仮初めである私の悲しみがむしろ欺瞞なのであって、脱欺瞞化の賭金は欺瞞を欺瞞すること、欺瞞の徹底にこそある、といえばツァラトゥストラのように響くけれども。これはペシミスティックな口ぶりでそういうのではなく、エミリー・ディキンソンぽくいうなら、「脳は空よりも広い」かもしれないけれど、にもかかわらず/であるからこそやはり、「空は脳よりも広い」という認識で。はるか昔から悠然と繰り返されてきたカナダヅルの渡りの光景。その大いなる反復に驚いてみ