1924年には西部スロバキアのバーノウツェ・ナド・ベブラボウ教区司祭に就任した。一方で1925年には国会議員に初当選した。 1927年にはシュヴェフラ率いる連立政権の内閣に厚生労働・スポーツ担当大臣として入閣し、1930年にはスロバキア人民党の副党首となり、1938年8月にスロバキア民族主義者で人民党党首のアンドレイ・フリンカが死去すると事実上の指導者となった。 スロバキアの領土の変遷。赤色の地域がウィーン裁定によりハンガリーへ割譲された。 1938年9月、ナチス・ドイツのズデーテン地方要求に端を発したズデーテン危機が発生し、チェコスロバキアは大きな動乱に見舞われた。『民族自決』の名の下にチェコスロバキア国内では各民族の分離独立運動が高まった。 9月22日、ハンガリー王国はマジャル人の多く住む、ハンガリーの旧領であるスロバキアとカルパティア・ルテニアの割譲をチェコスロバキア政府に要求したた