坂上忍「俺は決めてるんです」 一緒に飲みたくない有名人を実名告白「ろくなもんじゃない」
新日本プロレスに所属しておりますオカダ・カズチカ選手に関して、お知らせいたします。 オカダ・カズチカ選手は、2024年1月31日をもちまして契約満了により新日本プロレスを退団することとなりました。 長らくオカダ選手を応援してくださったお客様には、突然のお知らせになりましたことを心からお詫び致します。オカダ選手の今後の活躍にご期待ください。 これに伴って、発表済の次期シリーズ『THE NEW BEGINNING』、2月以降のオカダ選手関連の対戦カードを一部変更とさせて頂きます(※のちほど発表)。 また、2月に関しましては、2月11日(日)大阪府立体育会館大会、2月23日(金・祝)、24日(土)北海道・北海道立総合体育センター・北海きたえーる、3大会のみの参戦となります。 何卒ご了承いただけますよう、よろしくお願いいたします 新日本プロレスリング株式会社 ■オカダ・カズチカ選手からのコメント
「今、心折れかけています」 「プロレスでは、ここ10年くらいで1回しかギブアップしていないですけど、育児では、ここ3か月で何十回もギブアップしています」 こう話すのは、数々の実績と圧倒的なパフォーマンスで現在のプロレス人気を回復させたとも言われる、新日本プロレスのスター、オカダ・カズチカ選手。 去年、第一子の長男が誕生し、プロレスラーとしては異例の2週間の育休取得を宣言しました。 “強さの象徴”ともいえるオカダ選手に待っていたのは、思わぬ“ギブアップ”の日々。 育児と向き合うオカダ選手の新たな素顔と、育児をする親たちに伝えたいメッセージとは。 (スポーツニュース部 記者 松山翔平) 去年8月、偶然1つの記事が目にとまりました。 “オカダ・カズチカ「育休頂けました」” 最強のヘビー級選手を決める新日本プロレスの大会「G1クライマックス」で連覇を果たし、その翌日、第一子の誕生と育休取得を宣言し
人気プロレスラーのオカダ・カズチカさん。2019年に結婚、2022年8月には待望の第一子が誕生し、所属する「新日本プロレス」のプロレスラーとしては初めてとなる育児休業を取得しました。自身の育児生活や、家事・育児を上手く分担するためのコミュニケーションのコツなどについて語っていただきました! 僕が育児休業を取得したワケ 育児休業を取った理由は、第一に楽しみだったからです。子供が生まれてからどういう生活をしていくことになるのかなと。プロレスラーは、巡業で家にいられないことも多いので大きな大会(G1 CLIMAX)が終わり、巡業が無い時期には、集中して育児をしたいと思いました。それに、僕にとっても初めてのことで、どんなことがあるかもわからない。出産後、もし何かあったらと不安でしたし、なるべく妻に負担をかけないように、僕ができることはやりたかった。 育児休業を取りたいと会社に伝えたら、すぐにOKし
元プロレスラーで、参議院議員を2期務めたアントニオ猪木(アントニオいのき、本名・猪木寛至=いのき・かんじ)さんが1日、自宅で死去した。79歳だった。横浜市出身。難病「全身性アミロイドーシス」で闘病中だった。 【写真】今年8月、24時間テレビに生出演したアントニオ猪木さん 2、3日前から低血糖で体調を崩し、自宅での療養生活が続いていた。前日持ち直したが、この日の朝、状態が悪化し自宅で息を引き取った。 1943年(昭和18年)生まれ。5歳で父親を亡くし、13歳で家族とともにブラジルへ渡り、コーヒー農場などで働く。現地の陸上競技大会の砲丸投げで優勝した際、ブラジル遠征中だった故力道山さんにスカウトされプロレスの道へ。日本プロレス入りし。60年9月30日、プロ野球からプロレスに転向した故ジャイアント馬場さんと同日デビューを果たし、62年からリングネーム「アントニオ猪木」を名乗る。 米国への武者修行
ゼロワンは14日、10日の両国国技館大会で「頸髄損傷」を負った〝炎の戦士〟大谷晋二郎(49)の近況を報告した。 10日夜に救急搬送された大谷は、気道確保を目的とした「ICU(集中治療室)」へ転院し、専門医による検査の結果、「頸髄損傷」と診断された。 13日に今後の悪化を予防するための手術が行われ、執刀医からは「予定通りの処置はできました。順調です」と報告を受けたという。 14日には次のステップとなる治療のため転院。本人の意識は安定しており、医師や家族と相談しながら治療に取り組んでいる。 また、ゼロワンは大谷の妻・江梨子さんからのメッセージを発表。「このたびは晋二郎さんの試合中のアクシデントでの負傷において、大会関係者の皆さまをはじめ、対戦相手の杉浦(貴)選手、プロレス関係者の皆さまに多大なるご迷惑をおかけしていることをお詫び申し上げます」 さらに「私はプロレスラー大谷晋二郎と結婚したのです
苦労人がプロレス界盟主の頂点に上り詰めた! 新日本プロレスの第3代IWGP世界ヘビー級王座決定戦(7日、大阪城ホール)は、“ザ・ドラゴン”こと鷹木信悟(38)が“レインメーカー”オカダ・カズチカ(33)を撃破し、悲願の最高峰王座を手に入れた。プロレスラーを志し、アニマル浜口ジムに入門してからちょうど20年目。山あり谷ありのプロレスラー人生だったが、自分の信じた道を貫き続けた。その裏に隠された苦難の物語に迫る――。 首を負傷したウィル・オスプレイ(28)のベルト返上に伴い行われた新王座決定戦は、36分の死闘となった。ラスト・オブ・ザ・ドラゴンを炸裂させてオカダを沈めた鷹木は、次期挑戦者に飯伏幸太(39)を指名。「ベルトをかけて俺とやるのか。『イエス』か『はい』か、ここで答えてみろ!」とジャイアニズムあふれる2択を迫り、V1戦での激突が決定的となった。 ついに頂点のベルトにたどり着いたが、その
※当記事は、検温や殺菌消毒・換気など可能な限りの感染防止対策を行った上で取材しています。 「黒のカリスマ」蝶野正洋さんのめし話 nWo JAPANやTEAM2000などを筆頭に、レスラーとして新しいヒール像を生み出し、プロレス界を変えた蝶野正洋さん。 1984年に新日本プロレスに入門、同期は橋本真也・武藤敬司らのちの「闘魂三銃士」。 その名を一躍有名にしたのはルー・テーズ仕込みの必殺技STF、そして始まったばかりの夏の大一番、G1 CLIMAX第1回・第2回大会連覇という快挙。 さらに94年のG1 CLIMAXで3度目の優勝を果たすと、それまでの白ベースのコスチュームから黒を基調にしたものに一新。ファイトスタイルもこれまでのテクニックの上に、反則・流血も辞さないラフ殺法を加えた荒々しい武闘派ファイターに変貌。 そして97年に天山広吉・ヒロ斎藤とnWo JAPANを結成すると、これまでにない
赤いベルトをかけた戦いはトリを飾ることはできなかったが、スターダムの女王の座にふさわしい名勝負となった 3月3日に開催されたスターダム初の日本武道館大会は、団体だけでなく女子プロレス界全体の大勝負だった。少なくとも運営側にはその意識があったはずだ。 オールスター・ランブルと題した時間差入場バトルロイヤルには現役の所属選手だけでなく引退した団体卒業生、他団体の選手、長与千種や井上京子といった“レジェンド”も出場している。初期スターダムの立役者であり2013年に引退した“ゆずポン”こと愛川ゆず季が長与に蹴りを叩き込むという、時空を超えたとしか言いようがない名場面も生まれた。リングインした長与に真っ先にぶつかっていったのはスターダムの新鋭、フューチャー王座を持つ飯田沙耶だ。最後は愛川を場外に落としてウナギ・サヤカが勝利。飛躍を期した七番勝負を終えたばかりのウナギが勝った意味は大きい。この試合は過
2021年03月02日08:37 俺の家の話の勝村の話⑰ボディスラムの話 「あのボディスラムじゃ長瀬さんが損しちゃいますよね。なんで誰も言わなかったんだろう。」 第6話放送終了後すぐに木曽さんからLINEが来てました。 あ、うちのジムはブラック企業なんで金曜22:00は勝村クラスがあって僕はリアルタイムで視聴できないんですよ…。笑 なわけで、帰って録画した第6話を確認。 なるほど。 ハワイアンズにさくらさんが来て「抱っこして」のシーンで、寿一が「ボディスラム?」って勘違いして抱えようとするシーン。 ツイッター等でも少し指摘する人もいましたが、あれはボディスラムでなくてファイヤーマンズキャリーの入り方、手の持ち方ですね。。。 智也ちゃんボディスラムの入り方、間違っちゃったー。 さすがにハワイアンズには僕らも付いて行ってはないのでそこまで気づかなかった!誰か周りのスタッフで言う人いなかったのか
東日本大震災で被災した子どもたちへの支援などに取り組んできた、プロレスラーのタイガー・ジェット・シンさんが、長年暮らすカナダで日本の総領事から表彰されました。 インド出身のタイガー・ジェット・シンさんは、日本でもアントニオ猪木さんと名勝負を繰り広げるなど昭和を代表する悪役レスラーとして活躍しました。 そのかたわら、長年暮らすカナダでは、みずからの名前がついた財団を通じ社会貢献活動に取り組んでいて、10年前の東日本大震災の直後にはおよそ2万カナダドル、日本円で160万円以上の寄付金を集め、被災地の子どもたちにおくりました。 こうした功績をたたえ、トロントの日本総領事は25日、タイガー・ジェット・シン財団を表彰しました。
新日本プロレス30日愛知県体育館大会で、「ユナイテッド・エンパイア」のグレート―O―カーンが天山広吉(49)との「敗者モンゴリアンチョップ封印マッチ」で適者生存を証明する歴史的勝利を収めた。 抗争が激化の一途をたどった天山とのシングルマッチは、互いに得意技とするモンゴリアンチョップをかけた一戦となった。勇猛果敢な奇襲こそ空振りに終わったが、雄々しき咆哮とともにモンゴリアンチョップの打ち合いを展開していく。そのスピード、威力、そしてフォームの美しさたるや他に比類なき完成度。先人レスラーたちが使用してきた同技は、この偉大なる支配者の手によってついに世界遺産の域に達したと言っても過言ではない気がする。 アナコンダバイス、アナコンダバスターで反撃を許したものの是非もなし。卓越した状況判断能力でムーンサルトプレスをかわし、王統流二段蹴りを決めて猛反撃ののろしを上げる。一流声優級の美声とどろくモンゴリ
まさかの大革命だ。ノア16日の東京・後楽園ホール大会で、闇王・齋藤彰俊(闇社会のため年齢非公表)率いるダークエージェント(DA=構成員は井上雅央のみ)が、何と「反選手会同盟」の結成を宣言した。 第2試合でモハメドヨネ、クワイエット・ストーム組を一蹴した齋藤は試合後、サイレンを鳴らして報道陣に招集をかけた。「お前らに今日ここでハッキリ言いたいことがある。現在ノアには杉浦軍、金剛と軍団が乱立している。しかるにどの組織もまとまっていないのが現状である。ノアに今一番必要なのは熱い刺激であーる!」と、闇王は久々に得意のアジテーション演説を始めた。 頭脳警察の伝説的1stアルバム冒頭を飾った「世界革命戦争宣言」(1972年)のようなアジ演説は延々と続いた。「俺自身の歴史をひもといてみてもその昔、某メジャー団体に少人数で殴り込んでいった実績がある。今の時代に欠けているのは反骨精神である。ここに我々は反選
ブランドと生活者の絆を作るクリエイティブエージェンシー・SIXのストラテジスト/プラナーである藤平達之が、マーケターとして尊敬している新日本プロレスのエース・棚橋弘至氏と対談。 「冬の時代」を打破して新日本プロレスの成長を牽引している棚橋氏の知見と、マーケターとクリエイターという2つの立場でブランドの成長を支援する藤平の知見が交わることで、これからのブランドが目指すべき姿が見えてきた。 ブランドらしさが置き去りになる「統合コミュニケーション」のワナ藤平 僕は、ブランドの成長戦略を描くマーケターと、アイデアを開発するクリエイターの、両方の立場で仕事をしています。その中で、自分は本当にブランドを成長させるマーケティング戦略を実行できているのかなという感覚がずっとありました。今回は、新日本プロレスを見事に復活させた棚橋さん、つまりマーケティングの実践を成功させた方からお話を聞くことで、いろいろな
新日本プロレスが魅せた「Hopes and Dreams」を目の当たりにした直後、このブログを書いている。未だ僕の涙は止まらないままだ。 2019年のイッテンヨン『レッスルキングダム13』がたった今幕を閉じた。新日本プロレスのエース・棚橋弘至選手が締めた東京ドームの来場者数は38162人。惜しくも4万人には届かなかったが、昨年から約4000人の増員を実現した。 うん。興奮のせいか、明らかに筆の進みが悪い。これも棚橋弘至選手がマイクで僕の涙腺を崩壊させたのが原因だろう。 だが、今しかないみずみずしい感情を書き留めなくてはならない。 この記事をいつか新しくプロレスファンになった方が読んだ時に、東京ドームへ足を運ぶキッカケになって欲しいと思うためである。 この日の東京ドームは全選手がMVP級とも言える活躍を魅せた。全試合がベストバウト級。全てのベルトが動くというサプライズあり、掟破りあり、絶対領
ぶっちゃけ、ここで訴えたいのはWWEの「ロイヤルランブル優勝」と「レッスルマニアで王座挑戦」というのは全米のスポーツ界…「ではないでしょ」というならエンターテインメント業界の中で、とんでもない事件で、例えば映画的にはアカデミー主演男優賞を日本人が獲った、みたいなレベルの話なのだと。 プロレスファンの驚愕と賞賛は当然なんだけど、これが物凄い快挙ということを「日本の、世間一般のニュース(ワイドショーとか)」として認識してほしいなぁ、と思うのです。よろしく。 ツイートを使わせていただいたアカウントはこちら(※追加は除く) @gryphonjapan @majan_saitou @WPW_News @yuta7259 @KJstylesclub @omasukifight @rinotokyo @maruc623 @Rennoka @HARDBOILED_RIKU @FortuneKK_0327
また世界一周もしたいと語るディック東郷選手 1991年にデビューし、キャリアの大半をフリーの悪役レスラーとして活躍してきたディック東郷。参戦した団体は日本国内のみならず、アメリカWWF(現WWE)まで多岐に渡る。“レスリングマスター”と呼ばれるほどの技術を持ち、試合だけでなく世界中で指導も行なってきた。 その東郷は41歳だった2011年6月、日本で引退試合を行なった後、約1年の世界引退ツアーに出発。しかもまさかのアポなしでバックパッカーとして自ら地元のプロモーターと交渉しつつ、終着点は敬愛するチェ・ゲバラ最期の地であるボリビアという破天荒なサーキットを成し遂げ、12年9月に引退した…はずだった。 ところが、2016年6月、47歳にして突如ツイッターで現役復帰宣言! 試合を観に行ったところ、引退前である30代の頃よりも迫力が増してキレッキじゃないですか! 世界サーキットを経て、引退したからこ
Investigation underway after ship collides with underwater object, takes on water in Lake Superior, US Coast Guard says
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