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punkと革命に関するstonedloveのブックマーク (10)

  • 水玉消防団ヒストリー最終回 天鼓1988年—現在 |K&Bパブリッシャーズ

    取材・文◎吉岡洋美 水玉消防団活動休止後、ヴォイス・パフォーマーとしてヨーロッパはじめ海外でのライブ活動が多くなっていった天鼓。常に自分の直感と興味にブレることなく歩み続け、表現の可能性を広げてきた彼女だが、連載最終回は天鼓の水玉消防団休止以降から、ここ最近目を見張るほどライブ活動を行っている現在までを話してもらった。 日の即興ミュージシャンたちの台頭 ——‘88年に水玉消防団が活動休止になった頃は、子育てと海外ツアーで多忙を極めていたと話されていました。 天鼓「その頃はヨーロッパのツアーでNYのメンバーばかりとライブしていて、NYに行ったら行ったで、たまたま出くわす友人のミュージシャンに『テンコ、NYに来てるんだったら明日レコーディングするから、ちょっと1曲やってくれ』とか、そんなのはお互いしょっちゅう。そうした、ちょっとだけ参加している作品も私には結構あるんですね。皆、いいものを作り

    水玉消防団ヒストリー最終回 天鼓1988年—現在 |K&Bパブリッシャーズ
  • 水玉消防団ヒストリー第17回 カムラ1988年—現在 |K&Bパブリッシャーズ

    取材・文◎吉岡洋美 それぞれメンバー個々の仕事や活動が活発になるなか、1988年のライブを最後に活動休止した水玉消防団。ここからの2回は連載のストーリーテラーで、現在も現役で音楽活動を続ける天鼓、カムラに、それぞれ水玉休止以降から現在までをインタビュー形式にして、連載を締めることにしよう。 まず今回は、水玉休止のあと日を離れ、現在ロンドン生活が35年となるカムラにその後の音楽活動の軌跡を聞いた。 ◇ 水玉活動休止前年の1987年、カムラは天鼓主宰の即興ユニット「UZO-MUZO」に竹田賢一、石渡明廣とともに参加、ヨーロッパツアーを行い、ツアーが終わったその足で在ロンドンのある日人女性を訪ねる。その女性こそ、カムラにロンドン在住のきっかけを与えた、フランク・チキンズのホーキ・カズコだ。フランク・チキンズは1982年、ホーキとタグチ・カズミの在英日人女性によってロンドンで結成された音楽

    水玉消防団ヒストリー第17回 カムラ1988年—現在 |K&Bパブリッシャーズ
  • 水玉消防団ヒストリー第16回 1986—1988年 カムラ山猫、天鼓ソロアルバム、水玉活動休止|K&Bパブリッシャーズ

    取材・文◎吉岡洋美 協力◎糸川耀史、松永もうこ 水玉消防団はセカンドアルバムを発表し、天鼓はメールスで大喝采を浴びた翌1986年。海外からオファーを受けることが多くなった天⿎は、ソロのヴォイスパフォーマーとしても国内外で忙しい日々を送るようになっていた。 天鼓「メールスのあとはNYノイズのミュージシャンたちと、ほとんど毎年のようにどこに行っても会うような感じでしたよね。日以外のライブが多くなって、ヨーロッパから頻繁に声がかかるようになって、デヴィッド・モスのバンドのメンバーとしてだったり、フレッド・フリスとのデュオ、自分でもグループをつくってツアーに行ったり」 ‘86年、天鼓とカムラのハネムーンズも、NYのCBGBはじめ、ヨーロッパでもライブを重ねることになり、同行した水玉マネジャーの松永もうこ曰く「ハネムーンズはNYでもライブは大盛り上がりでスタンディングオベーション。ライブ後、二人に

    水玉消防団ヒストリー第16回 1986—1988年 カムラ山猫、天鼓ソロアルバム、水玉活動休止|K&Bパブリッシャーズ
  • 水玉消防団ヒストリー第15回 1985年『満天に赤い花びら』、天鼓メールス・フェスティバル|K&Bパブリッシャーズ

    取材・文◎吉岡洋美 協力◎松永もうこ 2ndアルバム『満天に赤い花びら』 演奏も活動も「自分たちのやり方でしかできない」(カムラ)し、「あくまでも自分たちの面白いこと」(天鼓)を重ね続け、必然的に大手レコード会社からのリリース話を断った水玉消防団は、’84年秋、自身のレーベル「筋肉美女レコード」からリリースする新アルバム制作に入る。翌’85年3月、『満天に赤い花びら』のタイトルで発表されたこのセカンド・アルバムは難産の末に完成したという。 カムラ「セカンドは当に産みの苦しみだった。1枚目と違って立派なスタジオも借りて、サウンド・クラフトにレコーディング、ミキシングをやってもらったんだけど、荒削りでも1枚目にあったライブ感、ドライヴ感がどうしても出なくて、ミキシングを何回もやり直してもらったんだよね」 天鼓「それでも結局、私がミキシングにどうも納得いかなくて、プロデュースを別に頼み直したん

    水玉消防団ヒストリー第15回 1985年『満天に赤い花びら』、天鼓メールス・フェスティバル|K&Bパブリッシャーズ
  • 水玉消防団ヒストリー第13回 1981年 全国ツアー、すぺーすJORA閉店|K&Bパブリッシャーズ

    取材・文◎吉岡洋美 協力◎地引雄一 ハイエースに機材を積み、26箇所のライブツアー ‘81年5月、1stアルバム『乙女の祈りはダッダッダッ!』を自分たちのレーベル「筋肉美女レコード」からリリースした水玉消防団。これと同時に、バンドはレコ発ツアーを行う。彼女たちのツアーは、毎回、機材を積み込んだ白いハイエースにメンバーたちが乗り込み、運転も自分たちで行う。そうして各地のライブハウスをまわる。 天鼓「と言うか、運転してたのは結局、免許と一番体力のある私(笑)。あとは可夜さんが時々。その頃はナビがないから地図を見ながら、メンバーともう1人マネジャー役の女性の6人でトヨタのハイエースに乗ってね。全員があまりにぐっすり寝てるのを見るとちょっとイラッとして運転席から『起きろー!』みたいな(笑)。‘81年のツアーは、割とLPが売れちゃってたから、その余波で色々な地方から声がかかったり、大きなフェスティバ

    水玉消防団ヒストリー第13回 1981年 全国ツアー、すぺーすJORA閉店|K&Bパブリッシャーズ
    stonedlove
    stonedlove 2023/10/02
    こんな痛快なフェミニズム革命がかつて日本にあったんだ! 吉岡洋美さんの水玉消防団ヒストリー、時代の空気をブチ破るアナーキーなエネルギーとバイタリティの熱量と密度がもんのすごい。毎回読むたびわくわくする
  • 水玉消防団ヒストリー第12回 1981年「乙女の祈りはダッダッダッ!」|K&Bパブリッシャーズ

    取材・文◎吉岡洋美 「いいときも目もあてられないほど悪いときも、ライブのアップダウンは激しかったけど、気づけばそんな1年を乗り切った」と、カムラも言うように、ライブハウスとパンクシーンへの参入、相次ぐオファーに地方ツアー、ハネムーンズ結成と、怒涛の’80年をバンドはひと通りくぐりぬけ、翌’81年。ライブの場数をハードにこなしていくなか、「ライブハウスでも、“足元の黒い箱はモニターって言うんだ”とか、”ステージ上と観客側では聴こえる音が違うんだ”とか、少しずつわかってきて」(天鼓)、「ギグでも演奏が安定して、水玉消防団の動きも軌道に乗ってきた」(カムラ)ころ、まるで見計らったかのように面白い偶然と展開が彼女たちのもとにやって来る。 「棚ぼた」のアルバム・レコーディング  その偶然とは、JORA併設のカフェバー“マヤー・ジーズニー”の常連客からもたらされた。 天鼓「早稲田のJORAの近所に、た

    水玉消防団ヒストリー第12回 1981年「乙女の祈りはダッダッダッ!」|K&Bパブリッシャーズ
    stonedlove
    stonedlove 2023/09/06
    ついにアルバム『乙女の祈りはダッダッダッ!』制作・リリース。自由奔放な発想と行動力が強運を呼び込む引き寄せパワー、資本主義のオルタナティブを地でいく自前の資金繰り・流通システムもすごい。
  • 水玉消防団ヒストリー第11回 1980 年ハネムーンズ|K&Bパブリッシャーズ

    取材・文◎吉岡洋美 協力◎地引雄一 「これは“声”で私がやれること」天鼓NYでの出会い ライブハウスや学園祭のライブ出演によって、東京のパンクシーンで水玉消防団が頭角を表すようになった1980年。もともとメンバーたちが持っている恐れ知らずのエネルギーが楽曲、ステージでも体現されはじめたこの年。これだけでも充分パワーある話なのだが、実は’80年のトピックはまだまだこれだけに留まらない。 まず、1980年の春に戻って話を進めよう。天鼓が「しょっちゅう遊びに行くようになっていた」というNYを、何度目かに訪れたときのことだ。 天鼓「NYは特に音楽に触れたいとかそういうわけじゃなく、街自体がすごく面白くて、よく行ってたんですよ。で、2〜3回目かに遊びに行ったそのとき、街をたまたま歩いていたら、道で知り合いの日人ミュージシャンの男の子にばったり会ったのね。彼が『面白いライブがあるんですよ、行きません

    水玉消防団ヒストリー第11回 1980 年ハネムーンズ|K&Bパブリッシャーズ
  • 水玉消防団ヒストリー第10回 1980年 神奈川大学、京大西部講堂|K&Bパブリッシャーズ

    取材・文◎吉岡洋美 協力◎モモヨ、地引雄一 78年秋にバンド結成して3か月足らずで初ライヴ、翌年の野外フェス出演を経て、80年の年明けにライヴハウスデビュー。ここまでほぼ1年半にも満たないスピードで展開してきた水玉消防団。さらに初ライヴハウスでパンクシーンに足を踏み入れたこの80年は、カムラが言ったように「1年が10年ぐらいに思える」ほど、バンドのスピードとパワーは加速していく。 天鼓「ライヴハウスにも出ることが多くなると、音がどう出るのかライヴのやり方も段々分かってきて現場に慣れていったし、この1年はバンドとして曲を当に真剣に作るようになった」 JORAでセッションのようにそれぞれが思い思いに音を出しながらオリジナル曲を作るようになったのは前述したが、それにしても「曲の作り方なんか分からなかった」(カムラ)どころか、バンドもロックにもほとんど縁のなかった女性たちが1年数ヶ月で「ジークフ

    水玉消防団ヒストリー第10回 1980年 神奈川大学、京大西部講堂|K&Bパブリッシャーズ
  • 水玉消防団ヒストリー第9回 1980年 ジークフリードはジッパーさげて|K&Bパブリッシャーズ

    取材・文◎吉岡洋美 協力◎地引雄一 いつも、何かがそこで起きている バンド結成から約1年数ヶ月の1980年、新たな年代の幕開けとともにライブハウスデビューした水玉消防団。 東京のパンク、ニューウェイヴシーンの勃興期、この初ライブハウスで、音楽センス、個性、存在感ともに共感できるフィーメイル・パンク・バンドたちと出会い、「そもそもバンドはミーハーで始めた」(カムラ)彼女たちが、「他のバンドと何が違うかというと、その目的のなさ」(天鼓)というパワーのまま、結果的にJORAを超えて東京パンクシーンの扉を開けることになった。共演した女性パンクバンドたちとは、ライブ企画を重ねる度にネットワークも広がってくる。 カムラ「個人的にもライブ情報をゼルダのチホちゃんたちとシェアするようになって、当時、とにかく東京ではパンク、ニューウェイヴのシーンがヴィヴィッドに日々動いていた時期。“ライブ”というより“出来

    水玉消防団ヒストリー第9回 1980年 ジークフリードはジッパーさげて|K&Bパブリッシャーズ
  • 水玉消防団ヒストリー第8回 1980年1月 新宿ロフト|K&Bパブリッシャーズ

    取材・文◎吉岡洋美 協力◎地引雄一 女性パンクバンドとの邂逅 楽器未経験のバンド結成から約2ヶ月足らずで初ライブ、1年も経ずして野外フェスに参加。カムラ曰く「無知蒙昧、傍迷惑をものともせず」、天鼓曰く「今さらながら、その厚かましさに脱帽、脱力」するほど、何の躊躇も迷いもなく突き進む水玉消防団。そのパワーは身内以外の耳にも止まり、79年末のある日、パンク・ミニコミ誌「CHANGE2000」の編集長、チホこと小嶋さちほのJORA訪問を受ける。 丁度、東京のライブシーンでは同年の夏、東京、名古屋、関西のパンク、ニューウェイヴの24バンドが登場する6日間連続のライブイベント「DRIVE TO 80s」*が新宿ロフトで開催され、連日満員の大成功をおさめていた。前年に東京ロッカーズらが起こしたストリート・ライブシーンが、より大きなうねりになっていたときである。 こうした流れのなかで水玉消防団は、チホか

    水玉消防団ヒストリー第8回 1980年1月 新宿ロフト|K&Bパブリッシャーズ
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