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水玉消防団ヒストリー第11回 1980 年ハネムーンズ|K&Bパブリッシャーズ
取材・文◎吉岡洋美 協力◎地引雄一 「これは“声”で私がやれること」天鼓NYでの出会い ライブハウスや学園... 取材・文◎吉岡洋美 協力◎地引雄一 「これは“声”で私がやれること」天鼓NYでの出会い ライブハウスや学園祭のライブ出演によって、東京のパンクシーンで水玉消防団が頭角を表すようになった1980年。もともとメンバーたちが持っている恐れ知らずのエネルギーが楽曲、ステージでも体現されはじめたこの年。これだけでも充分パワーある話なのだが、実は’80年のトピックはまだまだこれだけに留まらない。 まず、1980年の春に戻って話を進めよう。天鼓が「しょっちゅう遊びに行くようになっていた」というNYを、何度目かに訪れたときのことだ。 天鼓「NYは特に音楽に触れたいとかそういうわけじゃなく、街自体がすごく面白くて、よく行ってたんですよ。で、2〜3回目かに遊びに行ったそのとき、街をたまたま歩いていたら、道で知り合いの日本人ミュージシャンの男の子にばったり会ったのね。彼が『面白いライブがあるんですよ、行きません
2023/08/08 リンク