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ブックマーク / ish.chu.jp (10)

  • ish: 本当の友達

    suVeneのあれさんが「当の友達」というエントリを立てていて、気になっていました。 子供の頃に「当の友達とは何か」という問いにつまった時のエピソードなのですが、エントリは問いを開いたまま終わっています。 しかし、そんな俺もいつのまにか、「当の友達」について考えなくなっていた。 まさに「いつのまにか」だ。 では俺は「当の友達」が見つかったのだろうか。それとも、「当の友達」など必要なくなったのだろうか。そうではなく、「当の友達」など存在しないと考えたのだろうか。 その答えをここで書くのは今はやめておく。 suVeneさんがこんな身が捩れるようなベタなタイトルで書き始め、そして中途な形で〆たのは、計算があってのことでしょう。というより「計算あってのことだと思われるだろうな」と計算して書いたのだと思います。 「当の友達とは何か」という問いは、多くの重要な問いがそうであるように、答え

  • 「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか

    「わたしのことどう思う?」。 この問いを受けた男性諸氏はさぞかし煩わしいことでしょうが、もちろん、男女を問わずこの問いは発せられます。つまり、「他人にとってわたしは何なのか」系の質問です。 こうした質問が大変魅力的なのは、心理テストに夢中になる人々からもわかります。また「外国人から見た日」といった語らいが衆目を惹くのも、同じ魅惑によるものです。 「わたしのことどう思う?」の問い-答えの反復は、大変楽しいです。特に「外国人から見た日」系には、わたしもかなり惹かれます。 しかし、この問いは決して<わたし>のことを明らかにしませんし、それゆえにこそ独特の快楽をもたらします。そしてこの気持ち良さは、「寛容さと共存の何が問題なのか」で触れた「寛容」の気持ち良さと欺瞞につながっています。 「わたしのことどう思う?」の気持ちよさは、ナルシシズムに由来します。 ただし、ここで言うナルシシズムとは、問い

    suVene
    suVene 2007/07/20
    おもしろい。よくある男女間の話かと思いきや、思わぬ展開に。 30kmの原チャリこだわりすぎw
  • 交流、直流、コミュニケーション

    「なぜコメントの敷居を高くするのか」について、某所で「書き言葉の敷居とコミュニケーションの敷居が一緒くたになっている」というツッコミをみかけました。こっそりツッコんだものをネタにしてしまって申し訳ないですが、この指摘にはちょっとハッとするものがありました。 確かにごっちゃになっています。 書き言葉の問題はそれとしてあるのですが、これをクリアしてなお、コミュニケーションの敷居というのがあるように思います。 それを書き言葉の敷居に還元するような書き方をしてしまったことには、いくつか理由があるでしょう。 一つは、わたし自身がこの還元を意図せず行っていたこと、つまりこの問題をコミュニケーションの問題として取り上げることに対する心的防衛、という要素です。この背景にはおそらくわたしの深い心の闇が横たわっているのでしょうが、そんな痛い話を公開してしまってはせっかくの無意識的防衛が無駄になってしまうので、

    suVene
    suVene 2007/03/07
    ほぼ、「コミュニケーション=交流」という前提での話。俺はその前提に疑問を感じるが、他のブログで見かける大体の文脈でもその意味で使われている事が多い。
  • なぜコメントの敷居を高くするのか : ish☆走れ雑学女ブログ

    「くるさりんど」さんのエントリでやたら持ち上げられてしまい、クレンジングジェルのこととかばっかり書いてちゃダメだなぁ、ということで、前々から考えていたことをまとめています。 件のエントリでも指摘されている、ブログのコメントについてです。 しかし掛け値なしに面白いにもかからわず、コメント欄には反応が少ない。というのも、コメントするのに、なんかの登録とサインインが必要だからです。 自分を褒めてくれている記述を引用すると実にバカっぽいのですが、言いたいのはコメントについてです。 このブログのコメント機能はTypeKeyの登録が必要で、コメント一つにちょっと手間がかかります。トラックバックも開いていません。 これらは単にスパム対策が面倒だから、というのもありますが、意図的に「敷居を高く」している部分があります。 別段気取っているわけではなく、web上でのやり取りをまったくしたくない、というのでもあ

    suVene
    suVene 2007/03/05
    眠いからいつの日か
  • コンビニ店員はなぜ袋を渡してから財布を持つ手にお釣りを返すのか

    コンビニでお買い物するたびに思っていることがあります。 レジで店員さんが商品の袋とお釣りを渡す順序です。 一般的に、 ①商品をレジに置く ②代金が計算される ③代金を支払う ④商品が袋詰めされ、袋を渡される(大抵袋の持ち手をこちらに向けてくれる) ⑤お釣りが返される という順序で手続きが進みます。 しかし③の代金を支払った時点で、客であるこちらの左手にはお財布があり、右手でお金を渡しているのです。 ④で袋の持ち手をこちらに向けてくれても、左手にお財布、右手に袋を持ってしまったら、お釣りを受け取る手が残っていません。 せっかくお財布を開いた状態なのですから、できたらお釣りを先に受け取り、お財布をしまって、それから袋を受け取りたいのです。 ものすごい些細なことで、自分の人間に小ささに呆れるくらいですが、コンビニに限らず屋さんやその他の小売店でも大抵この順序で渡されるので、何か理由があるのかし

    suVene
    suVene 2007/02/25
    そんなコンビニが一般的か?手渡しするような。差し出す動作はするけども。俺が経験するのは、大抵おつりを受取るまでレジ台の上にのっかったままだが。
  • 『天才と分裂病の進化論』 脂肪酸と進化

    久々に素晴らしいヒットでした。めちゃくちゃ面白かったです。 『天才と分裂病の進化論』 デイヴィッド・ホロビン 人類の進化には脂肪酸が重要な役割を果たしており、その「創造的知的躍進」は「分裂病ゲノム」と関与している。そして統合失調症の現代における重篤化も脂質が鍵になっており、多価不飽和脂肪酸の利用が治療への道筋をつけるかもしれない、という大胆な内容です。 これだけ書くとオカルト的なだと思われてしまいそうで、確かにところどころ飛躍ぎみな箇所はあるのですが、全般的には生化学に基礎付けられた堅実な論調です(筆者は英国分裂病協会医療顧問のドクター)。それでいてグイグイ引き込む筆力があり、化学的記述があっても一般人に付いていけないレベルではなく、一気に読み通してしまいました。 ただ『天才と分裂病の進化論』というタイトルはちょっと違う気もします。原題もThe Madness of Adam & Eve

    suVene
    suVene 2007/02/11
  • ish☆走れ雑学女ブログ 2ちゃんねる型「正義感」、善意、価値判断と事実認識

    絵文録ことのはさんの「2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ」というエントリが話題になっていましたね。ちょっと気になってキチンと書こうと思っていたのですが、まとまる目処がちっとも立たないので、以下、とりあえず非常に乱暴にメモ。 はじめにおことわりしておきますが、わたしはこのエントリで素材として取り上げられている2ちゃんねるや「2ちゃんねらー」の行動や思考様式、「炎上」「祭」現象自体についてはそれほど興味がありません。また、絵文録ことのはさんの主張を正面から受け止めて論駁しようとか同調しようとかいうつもりもありません。 わたしが気になったのは善意と悪意についての論点で、しかも著者の意図とはおそらくかなりかけ離れた視点によるものです。ですから、以下は絵文録ことのはさんのエントリに触発されてわたしが勝手に連想した妄想だと思って頂いて結構です(絵文録ことのはさんの「好き嫌い」の趣味については個人的に

    suVene
    suVene 2007/01/21
    己と世界について。matsunaga氏のエントリに対する直接言及ではないが、書いてある内容はおもしろい。ただ、少し文章が冗長で読むのにだれる。/『実認識と信じられているものは、相対化困難』
  • 自分語り、解読されていない何か、山河

    「「誰が書いているか」派と「何が書かれているか」派」でsuVeneのあれさんの「文章から人格を読む人・読まない人」というエントリを引用させて頂いたところ、その続編?的「発言の一意性・連続性や発言した意図を汲み取る為の文脈は大事」で頂戴した言及が興味深かったので、しつこくて恐縮ですがまた続き(前置き長い)。 まず、こういう面白い話題を提供して下さったsuVeneさん(コレ、HNと解釈させて頂きます)、ありがとうございます。以下でぐちゃぐちゃ言っていますが、基的によく整理されていて触発されるエントリでした。 続いてエクスキューズ。 前回のエントリで、「自分語り」にあまり関心がない、というsuVeneさんのエントリ自体が結果的に「自分語り」になっている、といったことを書きましたが、それは「こういう自分と知って欲しい」というメッセージを受け取った、という意味ではありません。正にカッコ付きの「自分

    suVene
    suVene 2007/01/08
    結局「人格」をどう捉えるかってとこだなぁ。/ 自分も他人も知らない<ワタシ>は存在するだろうが同時にどちらかしか知らない<ワタシ>も存在する。
  • 日本のムスリム社会、日本人ムスリム

    『日のムスリム社会』 桜井啓子 日のイスラーム関係研究者でも、日におけるムスリムの実態について知悉している方というのは、ほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。「日のムスリム社会」というポイントはかなり鋭いところに目の付けています。おそらく国のイスラーム史研究やムスリム社会研究以上に困難で、かつ評価されにくそうな仕事に心血を注がれている著者に、まず敬意を表したいです。 日のムスリムと言っても、宗派的な相違もあれば、国籍的には様々です。主たる出身国にはパキスタン、バングラデシュ、インドネシア、イランがありますが、このうちイラン出身のムスリムだけちょっと毛色が違う、というのが新鮮な発見でした。 シーア派とスンニ派という違いもありますが、そもそもイランは戦争による疲弊があったにせよ、基的には豊かな産油国です。そこからやむを得ず出稼ぎに来ていた方たちは、教育水準も高めで、帰国し

  • 「誰が書いているか」派と「何が書かれているか」派

    suVeneのあれさんの「文章から人格を読む人・読まない人」というエントリがなかなか面白いです。 ネットを徘徊しているとたまに見かけるのだが、興味深い価値観がある。それは「文章(ブログ)を書いている人物の人格を想像、又は知ること・観察することが楽しい」という価値観である。何が興味深いかというと、俺にはほとんど皆無である価値観だからに他ならない。 ブログのエントリ等から、その著者の人格(人格の一貫性)を読み取るかどうか、ということですが、もう少し一般化すると、事象を行為者という観点から抽象するか、別の視点から抽象するか、という違いだと思われます。 著者が書かれている通り、「誰が書いているか」と「何が書かれているか」のいずれに重点を置くか、ということです。 また「『人間観察』に興味が無いということとは少し違う」とされていますが、おそらくこれは、行為者や語り手自体、例えば「インド人の○○さん」と

    suVene
    suVene 2007/01/06
    興味深い分析。あの記事がある意味「自分語り」になることは後で気付いた/ ただこの記事で一つ気になるのは人格(内面)と外への反応を一緒にしてしまっているところ(もともと境界は曖昧だが)/ ○○派ってのは傾向・指針
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