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ラカンに関するsuna_zuのブックマーク (77)

  • メビウスの自閉、あるいは残酷演劇

    メビウスの輪を考える。とっても簡略的に。参考として挙げておくならば、中沢新一著『芸術人類学』において、レヴィ=ストロースの神話公式に関連して提示されているものが近いだろうか。わたしの文章ならばこれ。 たとえば、自閉症者であろうが、分裂症者であろうが、「自閉」という共通する症状には、二種類あるのではないか。種類分けするのもバカらしく無意味な区分だと自分で思うが、垂れ流す。 メビウスの輪のねじれ部分は、特異点であるが、固定化されない。角度によってその位置は変わる。だから、これから述べる区分にはほとんど意味がない。最初にこう書いておけばなんとなく意味ありげに書けるだろう。動機としての言い訳だな。 見かけのねじれ位置から、輪として遠く離れた地点での自閉と、ねじれに近いところにある自閉。さっきも書いたようにこのねじれは移動可能だから、この二種の自閉には違いがないと言える。でも続ける。 前者の自閉は、

  • 菊地成孔×荘子it『構造と力』対談 「浅田彰さんはスター性と遅効性を併せ持っていた」

    浅田彰『構造と力 記号論を超えて』(中公文庫) 1980年代のニュー・アカデミズムを代表する一冊『構造と力 記号論を超えて』が中公文庫で文庫化され、大きな反響を呼んでいる。批評家の浅田彰がドゥルーズなどのポストモダン・現代思想を明晰に体系化した同書は、1983年の初版刊行当時、社会現象になるほどの大ベストセラーとなった。 40年ものあいだ読み継がれてきた名著の文庫化にあたって、リアルサウンドブックでは、音楽家・文筆家の菊地成孔氏とDos Monosのラッパー・トラックメイカーの荘子it氏が書について語り合う対談を行った。菊地氏は2003年、自身が主催するバンド・DC/PRGで『構造と力』と題するアルバムを発表するなど、浅田氏から影響を受けている。荘子it氏は、学生時代に菊地氏の著作などから遡る形で書『構造と力』を知って、読み耽ったのだという。第一線の音楽家の二人は、書をどのように読ん

    菊地成孔×荘子it『構造と力』対談 「浅田彰さんはスター性と遅効性を併せ持っていた」
  • 今、戦略的に「自閉」すること──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

    今、戦略的に「自閉」すること──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松卓也インタビュー ともすれば、過剰に「開かれ」すぎてしまったがゆえのディスコミュニケーションが目立つ現在、あらためて「自閉」という状態の持つ可能性を探る。精神科医・松卓也氏インタビュー。 一般に主体のあり方をめぐっては、外に向かって「開かれ」ている方がより望ましく、逆に自らのうちに「閉じて」しまうことは望ましくないという、なんとなくの印象がある。言い換えれば、よりコミュニカティブであることが素晴らしく、そうでないことは悪いことであるという、うっすらと、しかし広く蔓延した信念のようなものが存在する。 近年、精神分析においても注目を集めている「自閉症」や「アスペルガー」が治療すべき病、定型的な主体モデルから逸脱した異常性として捉えられている背景には、おそらく、そうした常に「開かれ」ていること

    今、戦略的に「自閉」すること──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー
  • ラカンの精神分析学と仏教|MORFO HUB

    ジャック・ラカンはフロイト以降で最も重要な精神分析家であり、言語学的、構造主義的な観点からフロイトの理論を解釈し、深化させた人物と言われています。 また、彼は、思想界、哲学界にも大きな影響を与えています。 ラカンの精神分析学には、禅や仏教と共通点があると指摘されることがあります。 実際、ラカン自身が、サンタンヌ病院で始めた有名な「セミネール」の第1回開講の挨拶の中で禅の教説を引用しました。 また、彼は、初来日した講演で、仏教の質について触れ、観音が「対象a」(ラカンの精神分析学の最重要タームの一つ、後述を参照)であるとの解釈を語りました。 ラカンの仏教に対する関心は、弟子にも継承されているようで、ラカン派の小林芳樹が、ラカンの後継者的存在であるアラン・ミレールと初対面した時に、道元の「正法眼蔵」を読んだかと尋ねられたそうです。 ラカンの精神分析学は、難解なことで有名で、専門家でない者が理

    ラカンの精神分析学と仏教|MORFO HUB
  • 書評 荒谷大輔著『ラカンの哲学──哲学の実践としての精神分析』 | CiNii Research

  • 「生き延びるためのラカン」斎藤環 | 宇宙クジラの日々

    はじめに ラカンはフロイトの唯一にして真正な後継者である。……などと書くとどうも宗教じみているが、まあそこそこ当たっているのではないか。彼はフランスで最も偉大な精神分析家であり、また哲学者1であり、その理論は晦渋で知られる。一方、ソーカル事件で槍玉に上げられた人物としてその名を記憶している人もいるだろう2。 ラカンは難しい だから、ラカンが語ったことは何だったのか、ラカンは何を言ったのか、当には彼は何と言っているのか――こう問い詰めていくだけで、われわれはラカンの罠に嵌まっていることになる。それは解釈学的な罠、あるいはそれ以上のものをも含むだろう罠だ。無限の詮索を、書き手の真意の切りもない忖度を誘う難解なる聖典を偽造しうると知ったものの罠だ。フロイトの聖典を註釈するラカンが偽造する聖典……(後略) 「夜戦と永遠」、第一部第一章第一節より、強調筆者。 ラカンは難解である。ラカンのことばは、

    「生き延びるためのラカン」斎藤環 | 宇宙クジラの日々
  • ジャック・ラカンのおすすめ本3選!私はいかにして「私」になるか?

    難解と言われる現代思想の中でもとりわけ難解な思想で有名なフランスの精神分析家ジャック・ラカン。超難解と言われるラカンの思想は、何故それでも多くの人を魅了するのでしょうか。ラカンの代表的な理論から、彼の思想の一端をご紹介します。 ジャック・ラカンの生涯と思想の背景ジャック=マリー=エミール・ラカンは、1901年にパリのブルジョワ階級の家に誕生しました。初めに高等師範学校にて哲学を学んだ後、1926年頃パリ大学に転学して医学、特に精神神経学の基礎研究を行うようになります。 卒業後、パリのサン・タンヌ病院で精神科医として勤務していたラカンは、1932年学位論文となる「人格との関係から見たパラノイア性精神病」を発表しました。パラノイア(=被害妄想を伴う人格障害)患者を観察したこの論文が、ラカンの思想的出発点となるのです。 1936年にマリエンバードで行われた国際精神分析学会(IPA)にて、現在でも

    ジャック・ラカンのおすすめ本3選!私はいかにして「私」になるか?
  • 吉川宏志とスラヴォイ・ジジェク - 内田樹の研究室

    入試の採点が当たっているので、昼過ぎに出勤。 採点を終えてから、「メディアと知」のレポートを読んで、成績をつけて提出。 後期の仕事がこれで終わる。とりあえず形式的には今日から春休みである。 とはいえ、私にはその間もほとんど休日はない。 机の上にはゲラが4つ積み上げられている。そのうち二つは今週中に返送しなければならない。 これを送り出しても、近日中にさらに3つ4つゲラが届くことになっている。 ということは、夏前には6冊ほどが出るということである。 何の因果でこんなにたくさんを出さなければならないのであろうか。 しかし、それは真夏に「暑いよお」と泣訴しているのと同じで、言っても何もならないのである。 わかっている。 黙って働こう。 吉川宏志さんという若い歌人の書いた『風景と実感』(青磁社)というが届く。 帯文を頼まれたので、ゲラを読んで、暮れに短い推薦の言葉を書いた。 知らない人の書い

  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●ブルース・フィンク『後期ラカン入門』が届いたので、パラパラみていた。それで何となく思いついたのだけど、ラカン特有の、話をわざわざ分かりづらくするために出しているとしか思えないような変な記号(マテーム)は、キャラとして考えるとけっこう分かりやすくなるのではないか。 たとえば「四つのディスクール」の話に出てくる「S₁」、「S₂」、「a」、「S(正しくは「S」が射線「/」によって消されている)」を四人の人物として考えてみる。「S₁」を、家父長制的な、暴君のような父として、「S₂」を、律儀で真面目で合理主義者だけど退屈な人として、「a」を、ミステリアスな美女/美男として、「S」を、公には存在していないことにされている、非理性的で分裂した狂人として考えて、それぞれのディスクールは、これらのキャラがどのように関係する場面になっているのかで決まる、と考えると、かなり分かりやすくなる気がする。 (四つの

    ■ - 偽日記@はてなブログ
  • 「みせかけsemblant」の国(ラカン=藤田博史)

    何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、 多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞いがちであります。 たしかに、そうすることで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解し たかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥りがちなのです。 だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態だといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」にな るためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされてはいな

    「みせかけsemblant」の国(ラカン=藤田博史)
  • アタシとボクの「おちんちん」

    なんだい、きみ? オレにきいてくんなよ、オレはラカン初心者なんだからさ、せいぜいこの五年ほど断片的にラカン、というかラカンまわりだな、それらを粗雑に読んだだけだよ。しかも幸か不幸か、日ラカン学者の論というのは、ウェブ上にある文献しか読んだことがないんだよ ………… ラカンは、‘master signifiers’(主人のシニフィアン)を‘points de capiton’(クッションの綴じ目)と呼んだが、解釈者によって、ボタンの結び目、ネクタイピンなどども言われることがある。すなわちひとびとの語り、シニフィアンのネットワークをピンで留めるシニフィアンであり、それは個々の主体だけではなくより広く社会においてもそうである(Stavrakakis 1999)。それがあるために社会は整合化(秩序化)される(ジジェク)。 どの「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫

    アタシとボクの「おちんちん」
  • ファリックマザーからファリックガールまで - kuriggen’s diary

    映画『プラネットテラー』において、一個のダンサーだったチェリー・ダーリンが、失った片足の部分にマシンガンを埋め込まれることによって、ファルスを持った女性として生まれ変わるというストーリーのことを考えて、そういえば斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』というが、やはり同様のテーマを扱った論考であったことを思い出した。ファルスを持った女性の像とは、ラカンによってファルスを持った母親−ファリックマザーとして示されているが、ファリックマザーのストーリーを一般的に紐解いたとき、それは権威を持って共同体を治める女性のイメージなどを示すが、それが特徴的な神話作用を帯びるとき多くの場合、外傷性の過去を有していると云う事がわかる。何かの外傷的なストーリーが転じて−レイプされた過去など、その穴を埋めるものとしてのファルス的な象徴性を、何かの特徴的な形象を媒介にし、女性がイメージし、承認されるようになって、ファリッ

    ファリックマザーからファリックガールまで - kuriggen’s diary
  • 仙台ラカンフォーラム

    スポーツ運動学という分野では、ある運動ができない生徒に運動指導をするとき、規範となる運動を客観的に説明するのではなくて、できない生徒の動きを観察しそれを指導者が自らの運動感覚(キネステーゼ)として捉え(潜勢自己運動)、目標とする運動の運動感覚に近づけるような類似の運動(キネステーゼアナロゴン)を練習させたりする、ということである。(運動指導におけるキネステーゼ理解の構造)<佐藤、2008> このような事は認知運動療法というリハビリテーションの分野でも行われている。外から見た身体の運動ではなく、運動と関連した身体感覚の認知が疾病や傷害によって変質しているという発想で、「する」よりも「感じる」リハビリテーションを行うというものである。(認知神経リハビリテーション学会) ここには精神分析的に興味深い点が2つある。一つは運動のイデア性と感覚性、その視像との関係における空間性であり、もう一つは運動の

  • 我無い、か、我思わない

    <我思う故に我あり>というデカルトのコギトをラカンがもじったものである。全てを疑っている間はまだ確実なものは現れていないのであって、そこではたと気づいて、考えている私は確実であるということになるのであり、つまり「我が無いところで私は考える、故に、私が考えないところで我あり」とラカンは言っている。(無意識における文字の審級1957) 別のところでラカンはこれを「アクテイングアウト」(アクトは演じるという意味) acting-out と「行動への移行」(リストカット、飛び降りなど) passage à act の区別に結び付けているが、シニフィアンの意味作用という点からは「ソシュールのアルゴリズムであるシニフィアンとシニフィエは同一の平面には無いが、どこにもないその共通な軸に自分がおかれているのではないか、と人間は思い込んでしまうのである。」ともラカンは言っている。 「私が<私>と言うとき、た

  • ラカン派精神分析の東京ラカン塾_publications

    HEIDEGGER AVEC LACAN (version française 20140609, PDF) HEIDEGGER AVEC LACAN (version française 20140609, Word file) ハイデガーとラカン (日語版新版 20140710, PDF) De petites réflexions théologiques sur la Sainte Trinité et le Filioque à partir de La science et la vérité de Lacan (20140620) ラカンの『科学と真理』における三位一体と Filioque について (20140619) 男女の性別の構造論的基礎について (20140625) Une petite réflexion sur les formules de sexuatio

  • 斎藤環【「精神分析」を回避することの困難さについて】

    20世紀が精神分析の世紀であった、とは良く指摘されるところではある。それでは21世紀はポスト精神分析の世紀ということになるのだろうか。おそらくそうであり、またそうではない。どういうことか。治療の場面における精神分析の直接的な有効性そのものは、今後もゆっくりと衰退していくに違いない。しかし「精神分析的言説」の有効性は、まさに様々な社会事象において、いっそう徹底した形で実現されるであろう。 急いで注釈しておくが、私が「精神分析」と言うときは、ほぼフロイト/ラカンによって拓かれた言説空間のことを意味している。もちろん留学も教育分析(パス passe)の経験もない私がラカニアンを気取るわけにはいかないが、この言説の強さに対抗して、体系的にこれを論駁し得た言説はいまだかつて存在しない。デリダやドゥルーズらの過激な反駁も、結局はラカンへのゲリラ戦において局所的勝利を収め得たに留まる。むしろ現在最もラカ

  • オタクにとっての対象aとは? またはオタク文化における「語らい」

    前の記事でも書いたように、オタク文化をラカン論を用いて分析するブログはたくさんある。直接の引用などは無くてもラカン「風」な言い回しを使っている記事もちらほら見かける。最近、ひきこもりの専門家でありオタク文化に造詣があり「ラカン萌え」な精神科医、斎藤環氏が、ラカン論の「入門書の入門書」とも言える著作を上梓したことも影響しているかもしれない。私も読んだがラカン関係のを二日で読了したのは初めてのことだった。 私は、ラカン論はポストモダンの文化を分析するのにとても適した理論だと思う。まあポストモダンでの臨床に基づいて構築された理論だから当然といえば当然なのかもしれないが。 そんなラカン論を用いてオタク文化に言及するいろんなブログがある中、ある一つの記事を読んで、前の記事に関することで少し言及が足りなかった点があると気づいた。今回はその辺を少し考えてみたい。 オタク文化の特徴として、これまで触れて

  • メモ:幻想の式 $◇a 、倒錯の式 a◇$

    わたしは、臨床において必要なものは、たった一つしかないと思っています。頭のなかにあるのは一つ、(……)ファンタスム、つまり人間の幻想(ファンタスム)の式です。 $◇a これが幻想の式。ファンタスム。これ一つでいいんです。このなかに全てが入っています。これだけ知っていればいい。これが何たるかを当に知っていれば、あとは何もいりません。(藤田博史「セミネール断章2012年2月」) ーーー$◇aは次のように読まれる、《斜線を引かれた主体は究極の対象を目指しながら永遠にこれに到達することができない。》 ーー想像的ファルスの欠如-φは、「去勢」とも読まれる。それは主体の去勢ではなく(少なくとも”だけ”ではなく)、「去勢の意味作用は,(子供の去勢ではなく)母の去勢によっておこる」(ラカンE687) ーー象徴的ファルスΦの注意:”The symbolic phallus is written Φ in

    メモ:幻想の式 $◇a 、倒錯の式 a◇$
  • 蚊居肢

    時代意識は自意識より大き過ぎもしなければ小さすぎもしないとは明瞭な事である。(小林秀雄『様々なる意匠』1929年) 小林秀雄の批評は、「ロマン派のディレンマ」を全面的に示している。彼にとっては「時代意識は自意識より大き過ぎもしなければ小さ過ぎもしない」(「様々なる意匠」)。いいかえれば、われわれが「現実」とよぶものは、すでに内的な風景にほかならないのであり、結局は「自意識」なのである。(柄谷行人「風景の発見」初出『季刊芸術』1978年夏号『日近代文学の起源』1980年) 窓の問題は『人間の条件』を生んだ。部屋の内側から見える窓の前に、私は絵を置いた。その絵は、絵が覆っている風景の部分を正確に表象している。したがって絵のなかの樹木は、その背後、部屋の外側にある樹木を隠している。それは、見る者にとって、絵の内部にある部屋の内側であると同時に、現実の風景のなかの外側である。 これが、我々が世界

  • -Φ を考える - ACEPHALE archive 3.X

    (※Twitterからの転載) 私は以前に、-Φ(マイナス・大文字のファイ)のマテームを考えていました。レエルの欠如、つまり“現実的な穴”を意味するものとして。 象徴的ファルスのシニフィアンが単にハリボテだとしても、原抑圧の吸引として反復強迫=死の欲動が働かないと、シニフィアンは連鎖しないとも言える。つまり、ここで自由連想が可能かどうか見極める必要性がある。この原抑圧の吸引力が、父性隠喩成立の条件ですね。 ラカンは象徴的ファルスについては逡巡しているところもあるから、この -Φ は私の読みでもあるんですけど、この -Φ により現実界に穴が穿たれ、S(A/) が取り囲むのが女性のセクシュアリティの在り方。 ――ある方からの応答:今日考えててふと思ったが-Φって倒錯でいいのか、って思った。 そう、その連関で考えてたんです。ラカンは倒錯者なんじゃない? みたいに。サディズムあるでしょ、彼は。それ

    -Φ を考える - ACEPHALE archive 3.X