笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』(講談社) 笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』(講談社)を読んだ。 最近、とある早大生と話したとき、笙野頼子で卒論かなにかを書くのだと聞いた。どう切るのかと尋ねると、女性文学やフェミニズムの方面だという。そんなものだろう、と思いつつ、強い違和感を覚えた。笙野頼子をフェミニズムで切っても、笙野のいう「イカフェミニズム」や「学者フェミニスト」を解説する以上のなにができるのか。 それ以来、笙野論の切り口をずっと考えていた。本書を読んで、答のひとつが見えた。公共性だ。 例えばお尻マニアの雑誌は一万部売れるという、しかしそれはただの欲望である。自己都合で売れる一万部が、そのまま思想支援の一万人にはならないだろう。無論、お尻の思想というものがあってそのために死ぬ人はいるかもしれない。だがそのような人が切実にお尻を擁護する理論構築をしたとしても、そこ