2007年10月3日のブックマーク (4件)

  • 沖縄戦教科書記述問題 - Munchener Brucke

    当初この問題は沖縄県でもそれ程大騒ぎはされていなかった。流れを変えたのは民主党の川内博史議員が、教科書調査官の村瀬信一氏が「つくる会」教科書の監修者で日近代史の権威とされる 伊藤隆氏の門下生であることを指摘した国会質疑であったと思う。この問題はまだ真相が明らかになっていないが、教科書調査官の人選段階に於いてかなり政治的思惑が働いているという疑念を持たれて仕方ない事実である。 この問題については以下のブログが詳しい。 世界の片隅でニュースを読む 教科書改竄の「黒幕」 今日読売新聞が沈黙をやぶって、文部科学省よりの見解を出した。 沖縄集団自決 検定への不可解な政治介入(10/3読売社説) 「史実に基づいて執筆されるべき歴史教科書の内容が、「気持ち」への配慮や、国会対策などによって左右されることがあってはならない。」という一文だけ読めばしごくごもっともにも聞こえる。 ただ、沖縄県民は軍の命令の

    沖縄戦教科書記述問題 - Munchener Brucke
  • 『戦後責任論』 - Arisanのノート

    の死者への「哀悼」とは何か。もちろん私は、たとえ「侵略者」だった死者でも、死者となった肉親、友人、知人等を「哀悼」し、「弔い」たいという残された者の欲求を理解する。そうした欲求は、こういってよければ、"人間一般の基的欲求"であり、加藤氏が「国による死者の鎮魂」から区別しているように、「国家」には回収不能な欲求であろう。しかし、だからこそ、そうした「哀悼」や「弔い」は、「侵略者」たちが遂行した戦争、「侵略戦争」の被害者となった死者たちへの「哀悼」や「謝罪」と同じレベルのことではありえないし、したがって、これらの「先に置かれる」べきものでもない。もしも私たちが、あの戦争は「侵略戦争」だったという判断を自分の判断として引き受けるなら、当然「侵略者」たちの責任を問わなければならないが、そのことが、死者への「哀悼」や「弔い」によって曖昧にされてはならないのである。(『戦後責任論』文庫版p215

    『戦後責任論』 - Arisanのノート
  • http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20071002ig90.htm

  • 反「学力」反「規範」でいい - 今日行く審議会

    学習指導要領 「学力」「規範」の重視が基だ(9月28日付・読売社説) そこまで子どもの学びを“制限”していたのか、とあきれる保護者も多いのではないか。 何を今更と思う。この国では,学習指導要領から「試案」という言葉が消えてから現在に至るまでこどもの「学び」は「制限」されてきた。学習指導要領に制限され,学習指導要領に基づいて作成される教科書に制限され,それらに基づく授業に制限され,入試に制限され,評価によって制限されてきた。そうした「学び」の「制限」をいかに緩めるか,いかに拡大するかそういうことに現場の教員が腐心してきたことなど思いも付かないのだろう。 今回の学習指導要領の改訂は,単に「学ばなければならない」という制限の枠組みを取り替えているだけで,学習指導要領の枠は外さない。それは「学び」を制限したことにならないのだろうか。 また,近年の動きを見ていると○○という「教科」が存在し,そこで

    反「学力」反「規範」でいい - 今日行く審議会