ブックマーク / t-hirosaka.hatenablog.com (13)

  • 疲れているのか憑かれているのか - 恐妻家の献立表blog

    以下は、昨夜(日付的には今日10/8だけれど)の幻覚の記録。 日記を書いている最中だったのでリアルタイムの記録である。あとから手直ししたのは見出しのアステリスクを削除したのみ。 [哲学]ベンヤミン『暴力批判論』9警察 すっかりベンヤミンのことを忘れていたわけではなくて、むしろ、ひょんな所に引っかかって先を読みすすめなくなっていたのでした。 法措定的暴力と法維持的暴力は、「いわばオバケめいた混合体となって、近代国家の別の一制度である警察のなかに、現存している。」というところです。 「オバケめいた混合体」なんて言われれば、妖怪学愛好者としては夢中にならざるをえないではありませんか。 ところがこのたのしい比喩が私にとっては躓きの石でした。 邦訳で「オバケ」となっているのは、妖怪なのか、幽霊なのか、ということです。 「オバケ」というからには妖怪変化を思い浮かべるのがふつうでしょう。お岩様クラスにな

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    t-hirosaka 2015/04/11
    夢枠で書いたのか。せるくま。
  • はてなブックマーク壊れた? - 恐妻家の献立表blog

    つい先ほどブックマークしたはずの記事を確認しようとしたら、なんだかヘン。 サイト 恐家の献立表 ブックマーク数 6,247 お気に入り 0 お気に入られ 0 みんないなくなった。 t-hirosakaさんはまだお気に入り機能を使っていないか、表示できるブックマークがありません。 いいえ、つい先ほどまで使っておりました。 なおった この記事を自分でブックマークしたら、復旧しました。 お騒がせしました。

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    t-hirosaka 2012/03/27
    「お気に入り」「お気に入られ」ともに突然ゼロになりました。/このセルクマをしたら元に戻りました。
  • 古代人は神話を信じたか - 恐妻家の献立表blog

    この記事は昨夜、寝ぼけて書きなぐったので不備がありました。 コメントやブックマークもいただいたので、以下のように補いました。 先日、『史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)』滑稽列伝にある西門豹の逸話を取り上げたところ、コメント欄で、古代の人はどの程度まで神話や伝説を信じていたのか、という問題提起をいただいた。 http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20120115/1326560052 そういえば『ギリシア人は神話を信じたか―世界を構成する想像力にかんする試論 (叢書・ウニベルシタス)』というような題名のを読みかけたこともあったが、難しくて途中で投げ出してしまった。 なんだか以前に似たようなことを考えたことがあったように思って、日記を読み返したところ、このブログを始めて間もなくの頃プラトン『パイドロス (岩波文庫)』を材料にそういうことを考えた跡があった

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    t-hirosaka 2012/01/26
    すみませんが、大幅に加筆しました。
  • 『パイドロス』四 - 恐妻家の献立表blog

    「堂々と頭を出して」語られるソクラテスの持論は、狂気を積極的に肯定するところから始まる。 「われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。むろんその狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども。 まことに、デルポイの巫女も、ドドネの聖女たちも、その心の狂ったときにこそ、ギリシアの国々のためにも、ギリシア人のひとりひとりのためにも、実に数多くの立派なことをなしとげたのであった。」(p52) ソクラテスは予言術と占い術を比較して狂気は正気に勝っていると説く。古人は「技術の中でも最も立派な技術、未来の事柄を判断する技術」である予言術の名に、狂気(マニアー)という語を織り込んで「この技術を「マニケー」(予言術=狂気の術)と呼ぶ」ようにした。一方で「ひとが正気のままで、鳥の様子や、そのほかのしるしを手がかりにして、未来の事柄

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    t-hirosaka 2012/01/25
    自分のためのメモ
  • ハンス・ヨーナスのグノーシス論4 - 恐妻家の献立表blog

    ハンス・ヨーナス『生命の哲学―有機体と自由 (叢書・ウニベルシタス)』第十一章「グノーシス主義、実存主義、ニヒリズム」、グノーシス主義の特徴を素描し終えたヨーナスは、いよいよハイデガーとの比較に取りかかる。 古代と近代における反ノモス主義 まず、おさらいのために前回引いた文をもう一度引く。 グノーシス主義の個人が熱望したのは、全体から自分にあてがわれた部分を演じることではなく、自らであること、来的であること、「真正に(authentich)」実存することだった。彼が服している帝国の法則は、外からの暴力による命令であり、万有の法則、コスモスの運命は彼にとってこれと同一の性格をもっていた。その運命を地上で遂行しているのが世界国家だった。これによって全体それ自体の概念がそのすべての側面において、すなわち自然法則として、政治法則として、道徳法則として、打撃を受けたのである。(ヨーナス、p395-

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    t-hirosaka 2011/08/12
    自分用メモ
  • ハンス・ヨーナスのグノーシス論5 - 恐妻家の献立表blog

    まさかハイデガーで年を越すことになるとは思わなかった。 ハンス・ヨーナス『生命の哲学―有機体と自由 (叢書・ウニベルシタス)』第十一章「グノーシス主義、実存主義、ニヒリズム」の「古代と近代における反ノモス主義」と題された節の後半でヨーナスはハイデガー批判を始める。 グノーシス主義の特徴を、(ハイデガーの)実存主義と比較することを念頭に置いて描写していた前半は、グノーシス主義についての総復習的説明がなされながらなので、難しいなりに何とか読んでいたが、ハイデガーが出てくるとガクンとつっかえる。 ハイデガー『「ヒューマニズム」について』について まず、ヨーナスはハイデガーの何を問題にしようとしているのか。 ここで、ハイデガーの議論を比較の俎上に載せることができるだろう。ハイデガーはその著『ヒューマニズムについて』において、理性的動物(animal rationale)という人間の古典的な定義に異

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    t-hirosaka 2011/08/12
    ちょっと自分用メモ
  • 伊香保神社の祭神 - 恐妻家の献立表blog

    ここのところ働きづめだったのご機嫌を取るため、群馬県伊香保温泉に一泊旅行をしてきた。 最近の旅行はたいてい仕事とセットだった(遠隔地での用談のついでに観光地を経由)から、行楽のみの旅行は、貧しい私たちには久しぶりの贅沢である。 面白かったことはいくつかあったが、気になったことをひとつ。 温泉街の名物である長い石段を登り詰めたところが伊香保神社である。神社の鳥居の右手前には薬師堂がある。明治以前は一体のものであったろう。 さて、神社に行くと由来を書いた看板があり、主祭神は大己貴神となっている。いわゆる大国主命である(別の神格だという説もあるがここでは拘泥しない)。ほかにも幾柱かの神が列挙されているが、どれも記紀神話ゆかりのものばかり。 そんなはずはあるまい、と思った。元来は、ここ上州の古い神を祀っていたはずだろう。 伊香保神社は伊香保の山の恵みを神格化して、温泉の守り神としたのだろうから、

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    t-hirosaka 2010/01/12
    ずいぶん前の記事にコメントがついたので。
  • 続・絶対捨てないぞ。(児童ポルノ法について) - 恐妻家の献立表blog

    先日、実にくだらない法案だったのでカッとしたあまり、「絶対捨てないぞ。」と書いたがhttp://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20090711/1247283345、下記のブログを拝見して、捨てた方がいい場合もあることに気づいた。 http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090713/1247443606 いったん記録された児童性虐待の静止画・動画が自由に閲覧できる状態で放置されている現状に対し、なんらかの被害者救済を求めなくてはならない。 この点については、まことにうっかりしていた。それはその通りだ。 ただし、これは被写体が児童かどうかではなく、人または家族などからの申し立てがあれば誰でも、何歳でもそうすべきだ。 私も蔵書中、撮影・印刷・販売についてモデル人の了解は到底あるまいと思える性虐待の写真が鑑賞目的で掲載されているものが見つかった

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    t-hirosaka 2009/07/15
    id:kurahito師、私が参考にしたのは引用した部分だけです。
  • ベンヤミン『暴力批判論』13「殺してはならない」という戒律 - 恐妻家の献立表blog

    id:kurahitoさんがどんでん返しがあるというので、もう一度頁を開く。 この神的な暴力は、宗教的な伝承によってのみ存在を証明されるわけではない。むしろ、現代生活のなかにも、少なくともある種の神聖な宣言のかたちで、それは見いだされる。完成されたかたちでの教育者の暴力として、法の枠外にあるものは、それの現象形態のひとつである。(ベンヤミン『暴力批判論』p60) 「完成されたかたちでの教育者の暴力」とはどういうものなのか、具体例が示されていない以上、これについてはなにもわからないが、「この神的な暴力は、宗教的な伝承によってのみ存在を証明されるわけではない。むしろ、現代生活のなかにも、少なくともある種の神聖な宣言のかたちで、それは見いだされる」と言われる以上、ユダヤ教的伝統から切り離されたかたちでも理解されなければならない。 したがってその形態は、神自身が直接にそれを奇蹟として行使することに

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    t-hirosaka 2009/04/28
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  • 情けは人のためならず - 恐妻家の献立表blog

    私は『孟子』の「惻隠の心」の同心円的波及に、ベルクソンが「魂を全く主知主義的に理解することに由来する先験的な推論である」と評した考え方を連想した。 「われわれの共感は、このような漸進的進歩によって拡大し、同一のままで増大し、ついには人類全体をも包含することになろう」という発想をベルクソンは批判している。『孟子』の「惻隠の心」は世間一般によく見られるこの考え方にそっくりだと思ったが、参考にした『道徳を基礎づける』でジュリアンはルソーの「憐れみの感情」と比較して「ルソーは孟子とそっくりである」と言っている。 わたしたちの行ないの中にあるこの根源的な心の動きがどう広がるかを見ると、両者の比較を最後の地点まで推し進めることができる。ルソーが言うには、「一般化され」、「全人類に広がる」ことで、この初発の心の動きは公正さへと開かれる。中国では、すでに見た通り、「人間らしさ」(仁)と「公正さ」(義)が対

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    t-hirosaka 2009/04/26
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  • 誰かの善意 - 恐妻家の献立表blog

    x0000000000さんより、仁の端を家族から友人・同僚、地域社会の隣人、やがてはすべての人びとにまで、同心円的に波及させていく孟子の発想について、面白いコメントをいただいた。 http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060319/p2 x0000000000さんによれば「現代にも全く同じタイプの人間がいる」そうだ。「彼の名は「空想的サヨク君」」。いや、たしかに、そういわれてみれば思い当たる節がある。善意が先走っている人、世界の平和は一人一人の心から!みたいなスローガンを臆面もなく言える人、たいていは真面目で正直な愛すべき人物なのだが、ちょっとスピリチュアル系のトンデモな思い込みがあったりして、ときにけむったい感じも周囲に与えてしまう人、一昔前なら小さな親切・大きなお世話と言われてしまうような、そういう人のことを指すのだろう。 そして、x000000000

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    t-hirosaka 2009/04/26
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  • 『孟子』の「惻隠の心」 - 恐妻家の献立表blog

    孟子は、幼い子どもが井戸に落ちようとするのを見かければ、誰しも思わず助けようとするだろう、と言い、その気持ちこそが仁の萌しだという(惻隠の心は、仁の端なり)。(『孟子』岩波文庫、p141) この仁の端を、家族から友人・同僚、地域社会の隣人、やがてはすべての人びとにまで、同心円的に波及させていくのが孟子の考える仁の実践である。 ジュリアンは、『道徳を基礎づける』で次のように言っている。 これらの例から、普遍的な原則が導かれる。「誰もが、他者の身に起こることに忍びざるものがある(人皆有所不忍)」。この忍びざる感情を、他者の身に起こりながら忍びうるものにまで及ぼすこと、それが「仁」の感情である(尽心下31[達之於其所忍、仁也])。誰にとっても、他人が不幸に沈んでいる時に、無関心でいられず、反応を引き起こすものがあるということ、それが「仁」なのだ。 〈中略〉したがって、中国的な観点からすると、道徳

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    t-hirosaka 2009/04/26
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  • 『孟子』墨子対孟子 - 恐妻家の献立表blog

    天志篇に続いて『墨子』の宗教論である明鬼篇を読もうと思っていたが、墨家と儒家の対立について別のアプローチがあったことを思い出したので、急きょ『孟子』を読んでみた。 以下に、墨家の夷子という人物と孟子との、人を介しての論争の要点を抜き書きする。 まず、孟子による墨家の薄葬主義批判。 聞けば、夷子は墨翟の説を信じているそうだ。あの学派では、葬式をなるべく手薄(質素)にして倹約するのが主義だというが、夷子もやはりこの薄葬主義で、天下の風俗を改革しようと考えておるのに相違ない。だから、どうしてこれ(薄葬)を正しくないのだからといって尊重せぬ筈があろうか。ところが、私の腑に落ちないのは、夷子が自分の親を葬ったときには、たいそう手厚くしたとのことだ。それでは、つまり自分のふだん賤しんでいるやり方(儒家の厚葬主義)で、親に仕えたことになる。(『孟子』上、岩波文庫、p224) ここで孟子がしているのは、言

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    t-hirosaka 2009/04/26
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