ブックマーク / oda-makoto.hatenadiary.org (18)

  • 宗教紛争と「客体化された宗教」 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    いま大学院の授業で、関根康正さんの『宗教紛争と差別の人類学』(世界思想社、2006年)を講読しています。こののなかで、関根さんは、インドの今日の宗教紛争を招いているヒンドゥー・ナショナリズムとイスラーム主義双方の「コミュナリズム(宗教対立主義)」の台頭に対して、セキュラリズム(世俗主義)を擁護しようという論調があるけれども、コミュナリズム対セキュラリズムの構図では、宗教紛争を解決することも読み解くことはできないと言っています。 すなわち、特定宗教を普遍的価値として主張するコミュナリズムと、すべての宗教の価値評価を保留し私的領域に押し込めるセキュラリズムの対立は、見せかけのものであり、両者は、「宗教を対象化して眺められるような近代思考としての世俗化した社会認識を共有している」(41頁)と言います。 つまり、セキュラリズム(世俗主義)もコミュナリズム(宗教対立主義)も、宗教を「客体化」してい

    宗教紛争と「客体化された宗教」 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
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    t-kawase 2009/10/12
    重要な指摘。とはいえ、実は僕自身はセキュラリストに近いのも自覚しているのだが。
  • 西ケニアにおける「女子割礼」について - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 2009-09-26

    アフリカの女子割礼について話題になっているようです。私は、ケニア西南部とタンザニア西北部の国境をまたいだ地域に住んでいるクリアという民族について、西ケニア側で現地調査をしており、1990年代後半に、クリア社会の男子割礼と女子割礼の調査をしたことがあります。 その成果の一部は、科研費の成果報告書ならびに博士論文という形で発表していますが、一般に読まれる形での発表ではありませんでした。アフリカの女子割礼への関心がすこしでも上がっているときに、現地調査したことのある人類学者として、現地の声を紹介する義務があるだろうと思い、緊急エントリーをアップします。 民族誌的事実を紹介する前に、まず、アフリカの女子割礼を廃絶するために人道的介入をすべきだという人権派と、現地の声や当事者にとっての意味を知ることが大切だという、文化相対主義的な立場をとる人類学者との間のディスコミュニケーションについて、私の意見を

    西ケニアにおける「女子割礼」について - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 2009-09-26
    t-kawase
    t-kawase 2009/09/29
    この手の問題では、誠実さと躊躇いがセットになる。
  • 子どもに左翼になってほしいと願うこと - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    2009年最初のエントリーは、心に残っている言葉を紹介したいと思います。発言者は、アメリカの哲学者リチャード・ローティです。どんどんナショナリストになりつつあるローティの書いていることには批判的になることが多いのですが、つぎの言葉は腑に落ちます。 デスクの前に座ってキーボードをたたいているわれわれが、手をよごしてトイレを掃除してくれる人びとの十倍、われわれが使っているキーボードを組み立てている第三世界の人びとの百倍の報酬をもらっているというのは耐えきれないと思うように、わたしたちの子供を育てるべきである。最初に産業化した国々が、まだしていない国々の百倍の富を有しているという事実について、子供たちが確実に憂慮するようにすべきである。子供たちは、自分たちの運命と他の子供たちの運命との不平等を、神の意志だとか、経済効率のために必要な代価とかでなく、避けることのできる悲劇だと見ることを早くから学ぶ

    子どもに左翼になってほしいと願うこと - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
  • [日記] 祝クロード・レヴィ=ストロース100歳の誕生日2008-11-28 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    きょう11月28日は、クロード・レヴィ=ストロースの100歳の誕生日です。予定原稿でも作っておいて気の利いたことでも載せればよかったのでしょうけれども、行き当たりばったりで。 主著の『神話論理』の最終巻(神話論理4)の第一分冊の『裸の人1』はようやく誕生日に間に合って刊行されたようですが、『裸の人2』は来年の4月ごろになるようです。これで『神話論理』4部作の翻訳が完結しますが、なかなか読む人は少ないでしょうね。もっと短く読みやすい神話論である『大山の物語』が翻訳されるといいのですが。原著の『裸の人』が出版されたのが1971年ですから、70年代に翻訳が出ればもっと読まれたでしょうが、もっとも「構造主義」ブームという形で消費されて忘れ去られてしまうよりは良かったのかもしれません。レヴィ=ストロースの思索は、「現代思想」として消費されてしまうものとは無縁の、消費されつくせないものを示しているの

    [日記] 祝クロード・レヴィ=ストロース100歳の誕生日2008-11-28 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
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    t-kawase 2008/11/28
    レヴィ=ストロースの偉大さについて。でも、どうして70年代の花盛りの時に訳されなかったんだろう。
  • 加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』を読む - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』日放送出版協会(NHKブックス)、2007年9月刊。 Isbn:9784140910948 C1312 加藤秀一さんが以前、井上達夫さんの「胎児の生命権」を尊重せよという議論を批判した「女性の自己決定権の擁護」*1という論文を読んだときには、正直に言って、書で展開しているような議論へとつながっていくとは想像していませんでした。加藤さんがその後も知的探究を続けて、新たな地平を切り拓いていっていることに、素直に敬意を表したいと思います。 書で、加藤さんは、「生命」や「人格」といった抽象的な概念を主語にしてしまう生命倫理を批判して、倫理にとって大事なのは「生命」などではなく、呼びかけることで現れる〈誰か〉――関係性の中で現れる交換不可能で比較不可能な単独性をもった〈誰か〉――がいるという事実を守ることだと述べています。 ……私がいいたいのは、私たちが人の

    加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』を読む - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
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    t-kawase 2007/10/26
    この本も買うか。
  • 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 『現代アメリカの陰謀論』を読む

    安部首相のあまりにも不可解なタイミングの退陣表明のあと、ウェブ上ではアメリカ・ブッシュ政権の陰謀とか某カルト宗教団体の陰謀など、「陰謀論」が飛び交っているようです。「陰謀論」は、マスコミではほとんど流れていないという点に特徴があります。逆に言えば、麻生クーデター説のように、マスコミに出ているものは「陰謀論」とは呼べないということです。マスコミにはけっして出ない「真相」があるという信念の背景には、外国やエリート集団や秘密結社や宗教集団や宇宙人などといった、影で社会を動かしている巨大な権力が、政府やマスコミをも動かして「真相」を隠しているのだから、むしろ政府の公式見解やマスコミに出てきたものはすべてまやかしだという信念があります。 「陰謀論」の人気は、誰も全体を見通せなくなっている現代社会の複雑さを一気に単純にして縮減してくれることと、自分だけが「真相」を知っているという自尊心を与えてくれるこ

    小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 『現代アメリカの陰謀論』を読む
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    t-kawase 2007/09/30
    M.バーカンの本も買わなきゃ
  • 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 〈地続き〉と「切断」——日本の人類学の理論的到達から

    さて、つづきです。 松田素二さんの「切断」という用語のほうから説明しましょう。松田さんは、『抵抗する都市』のなかでは、質主義的な語りを「均質化」の語り、構築主義的な語りを「異質化」の語りと呼んでいます。松田さんは、「抑圧者・被抑圧者を一元的に表象する定型的語りを脱ぎ捨て」て、構築主義的な「異質化」を行ってきた近年のニュー・ヒストリーやカルチュラル・スタディーズの植民地文化研究について、つぎのように言っています。 異質化を進めていくと、一人一人の思いと振舞いへと歴史の語りはシフトしていく。そこでは、生まれながらの弾圧者も、首尾一貫した抵抗の英雄も存在しない。頑固と日和見、良心と悪意を往来しながら生きる「当たり前の人間」が浮かび上がるはずだ。そこには抑圧する側とされる側の境界は消滅するか、ごく低い垣根に変わっている。こうした異質化された「人間像」の提示で、逆に見えなくなるものがある。それが暴

    小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 〈地続き〉と「切断」——日本の人類学の理論的到達から
    t-kawase
    t-kawase 2007/08/24
    良い解説
  • 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」-大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか』を読む

    戦時中に「慰安婦」にさせられた国外の被害者に対して、国民と政府によって償いを行なうために作られた「アジア女性基金」については、1995年の設立当時からほとんど批判しか聞かなかったような気がします。設立当時は、メディアにおいてのフェミニストや「慰安婦」たちの支援活動をしていたNGOや左派からの「国家としての責任と国家賠償を回避するための隠れ蓑」という批判が目立っていました。そして、今年の3月にアジア女性基金は解散しましたが、そのときは、そもそも「慰安婦」などなく「公娼」にすぎないのだから償いなど必要ないという、歴史修正主義者や右派ナショナリストからの非難のほうが圧倒的に多かった印象があります(もっとも絶対数はそれほどなく、目立ってはいませんでしたが)。書は、このように左右からともに批判・非難されたアジア女性基金の推進者であり前理事であった大沼さんが「失敗」と「達成」を総括した興味深いです

    小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」-大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか』を読む
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    t-kawase 2007/08/11
    過剰な倫理主義はそれだけでharmful
  • 沖縄の「スピヴァク不在のスピヴァク講演会」での本橋哲也さんの「妄言」 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    「討論の広場」というブログでのU君による「スピヴァク講演会」の連載記事も第14回となり、佳境にはいってきています。全部で16回ということですから、その完結を待ってコメントすべきかもしれませんが、今回の「スピヴァク講演会14」で紹介されている橋哲也さんの「妄言」がとても興味深いものなので、取り上げたいと思います。 前回のエントリのタイトルを「スピヴァクによる剽窃疑惑?」というあざといものにしましたが*1、私の興味は、エントリを読んでいただければ分かるように、スピヴァクの「剽窃疑惑」の真偽にあったわけではなく、「BOOKS Mangrooveの店長」さんが書かれていたような、「東京の関係者」と「沖縄の実行委員(コメンテーター)」との対立にありました。そもそも「剽窃疑惑」といっても、講演はしなかったのですから、実際に「剽窃」はなかったわけで、また、講演をしてそれを論文という形にするという段階に

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    t-kawase 2007/08/07
    ポスコロの陥穽。僕も陥りがち。内田樹先生も昔似たような批判をスーザン・ソンダグにしていた記憶がある。
  • 感情労働」と「キレる」客

    久しぶりのブログへの執筆です。忙しくて、自分でネタを考えて書く暇がありませんでした。これまでけっこう書くことができたのは、書き込んでもらったコメントをネタにして書いたりしていたからですが、こちらが書かないとコメントももちろん書き込んでもらえず、コメントを書き込んでもらえないと書くネタがなく、という悪循環でご無沙汰したというわけです。 きょう沈黙を破って(?)書こうと思ったのは、ある偶然の一致のせいです。きょうの朝、電車の中の雑誌『AERA』のつり革広告で「『感情労働』時代の過酷――ひと相手の仕事に疲れ果てるとき」という記事の見出しが目に留まりました。ちょうど偶然にも、きょうの講義で「感情労働」の話をする予定だったので、参考になるかなと乗換駅の売店で早速買って電車の中でぱらぱら読んでみました。記事そのものは講義の参考にはあまりなりませんでしたが、まあ、その日の朝に読んだ雑誌を資料になるかなと

    感情労働」と「キレる」客
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    t-kawase 2007/05/30
    「「よそよそしいもの」ではない自分の感情を取り戻し、「ほんとうの自分」を実感したいという欲望をもつからこそ、客は「キレる」のだ」なるほど、分かり易い説明。僕が今度講義で使わせてもらおう(笑)。
  • 自分のアイデンティティのために他者を他者化することをオリエンタリズムという - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    私はインドの専門家ではないし、もう誰か取り上げて批判していると思うので、放置しておいてもいいかなとも思ったのですけど、「釣り」にしてもちょっとひどすぎる「他者」の利用の仕方なので、あまり気は進まないけど、社会学者の内藤朝雄さんの「伝統を大切にする社会」というエントリを取り上げておきましょう。 内藤さんは、インドに関する朝日新聞HPの2つの記事、 子供の5割、性的虐待経験 2割「深刻な被害」 インド http://www.asahi.com/international/update/0413/TKY200704130356.html 異教徒との結婚にヒンズー組織激怒 学生2人の保護命令 http://www.asahi.com/international/update/0415/JJT200704150002.html を並べて、次のように言います。 ところで、インドやヒンズー教の神秘主義を

    自分のアイデンティティのために他者を他者化することをオリエンタリズムという - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
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    t-kawase 2007/04/19
    内藤朝雄氏のレトリックの「オリエンタリズム」性について
  • 東浩紀/北田暁大『東京から考える』を読む - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    久々の、そして2回目の「読書ノート」です。今回取り上げるのは、 東浩紀/北田暁大『東京から考える:格差・郊外・ナショナリズム』日放送出版協会(NHKブックス)、2007年 isbn:9784140910740 です。刊行されてからまだ2ヶ月ちょっとなので、新しいといえば新しいなのですが、けっこう話題になっているので、すでに「遅れてやってきた読書ノート」という感じになっているでしょうね。 このは、ポストモダンとリベラルを足すと、ライフスタイルの多様性を許容するという意味で政治的に正しく「人間工学的に正しい」バリアフリーでセキュリティの高い「安全で清潔な街」、どこでも変わらない「個性のない街」、すなわち、「郊外的」で「ファスト風土」的で「ジャスコ的」な平板化された街になるのは仕方ないのだとなるというお話のです。まあ、一言でいえば、ネオリベラル的な「環境管理社会」への移行は、政治的意思の

    東浩紀/北田暁大『東京から考える』を読む - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
    t-kawase
    t-kawase 2007/04/14
    うーん、ここまで深い読みはしなかった。小田先生すごい。僕なんか東君の言う「青葉台の清潔さ」くらいしか頭に残らなかったもんな。
  • 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 沖縄戦の「歴史修正」からなにを学ぶのか

    海とばばさんに続いて、黄色い犬さんとmacbethさんからもコメントいただき、ありがとうございました。海とばばさんの、「証言をできる人たちが世代的に減っている今、こんな歴史修正がおこなわれている。何のための『歴史』なんでしょう」という言葉を受けて、黄色い犬さんが、「こういう『歴史』から学べることって、すごくつまらないもののような気がします」と書いています。歴史修正主義(歴史見直し論)によって修正された「歴史」から学べることはごくつまらないことしかないということには賛成です。日国家や旧日軍の行なったことで、「美しい国・日」のイメージに都合の悪いことは、「修正」していくわけで*1、歴史修正主義者にとって、「歴史」とは自分たちのアイデンティティを増長させるためのものであり、最初から「学ぶ」ものではないということでしょう。 そして、そこからいまの学生たちが学んでいることは、自分にとって都合の

    小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 沖縄戦の「歴史修正」からなにを学ぶのか
    t-kawase
    t-kawase 2007/04/03
    非常に重要な指摘。「今回の教科書検定問題をめぐる議論が、どうも自分のアイデンティティ確立のための「大きな物語」(「歴史の真実」)を守ろうとする双方の議論になってしまっている」
  • 「ニューエイジ運動」との連続と不連続 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    現在のスピリチュアル・ブームについての文献というのは、まだあまりありませんね。当たり前ですけど、研究はかなり遅れてやってくるんですね。香山リカさんのと信田さよ子さんの『論座』(2006年6月号)の論文くらいしかまだチェックしていませんが、両方とも研究とは呼べないものです。香山さんにしろ信田さんにしろ、臨床心理士でカウンセリングをしているわけで(精神科医の香山さんが臨床心理士の資格を取ったことは今回はじめて知りましたが)、スピリチュアル・カウンセラーを名乗っている江原啓之さんはいわば商売敵(「同じ穴のむじな」と言ったら怒るでしょうか)だから、反応が早いのでしょうね。現在のスピリチュアル・ブームは、「オカルト」文化や「ターミナル・ケア」(死生学)をはじめとする「スピリチュアル・ケア」から出てきたわけではなく、広い意味での「セラピー/カウンセリング文化」の中から出てきたわけで、その点からすれば

    「ニューエイジ運動」との連続と不連続 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
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    t-kawase 2007/03/11
    確かに、過去のニュー・エージには「しがらみからの脱出」というモメントが現在より強かっただろう。
  • 戦略的本質主義を乗り越えるには(4) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    さて、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」について、戦略的質主義もコミュニタリアンも見落としているということ、この「真正性の水準」において、「役割連関」(有機的連帯)による関係性が、それだけでは留まらず、根源的な社会的連帯(機械的連帯)としての「〈顔〉のある関係」の相を帯びるということ、そして「真正性の水準」におけるそのような「関係の過剰性」(「しがらみ」と言い換えてもいいでしょう)においてこそ、差異や多様性を保持できるのであり、個人化による自己選択は、むしろ差異や多様性を失わせるということを述べたいと思います。 真正性の水準とは、「まがいものの(非真正な)社会」と「ほんものの(真正な)社会」を区別するということです。現代では、大多数の人々と、行政機構や文書、新聞、雑誌、写真、ラジオ、テレビなどの媒体(メディア)を通した交流をするようになっているが、それらの媒体は、そこに「まがいもの

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  • 戦略的本質主義を乗り越えるには(3) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    卒論面接やら修論面接やら書類作成やら入試業務やら学会の理事会やらが続き、きょうはなんと11日振りの休みです。もっとも明日には博士論文の口頭試問があり、その準備でゆっくりできない状況ですが。 さて、「戦略的質主義を乗り越えるには(3)」を書こうと思いますが、前回から間が空きすぎて、何から書いていいやら。 これまで、「個の代替不可能性」と〈かけがえのない私〉とを、相互入れ替え可能な語として使ってきましたが、この二つは厳密に言えば違います。「個の代替不可能性」というときの「個」は、他者にとっての「個」です。そして、〈かけがえのない私〉とは、他者にとって自分が代替不可能な存在となっていることの反照でしかありません。 他者にとっての「個の代替不可能性」は、典型的には死ないしは喪失によって顕在化します。いつも使う例で恐縮ですが、子どもを亡くした親に向かって、「子どもはまた作ればいいじゃない」とか「も

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  • 戦略的本質主義を乗り越えるには(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    少し思い出したので、「戦略的質主義を乗り越えるには(1)」の続きの(2)を書きましょう。 戦略的質主義が「質的アイデンティティ」を必要なものとしているのは、カテゴリーによって差別されたり周縁化されたりしている弱者が、差別している側である支配的マジョリティに押し付けられたカテゴリーの「質」をいったん引き受けることで、そのカテゴリーに属する他の人々とともに異議申し立てをすることが可能になるからであり、また、そのマイナスの価値を刻印された「質」を肯定的なものへと逆転させること(アフリカアメリカ人の運動での「ブラック・イズ・ビューティフル」という標語が好例です)によって、マイナスの刻印を押されていた自己を肯定できるようになるからです。 それに対する批判は、たいてい次の2点になります。一つは、自分は(脱)構築主義に立つのに、周縁化されている他者に対して質主義を認めるという態度には、「そ

    戦略的本質主義を乗り越えるには(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
  • 戦略的本質主義を乗り越えるには(1) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    きのうの夜は、センター試験の疲れ(受験したわけじゃないけど)と、他の仕事で、予告したコメントへのコメントを書けませんでした。改めて、養田さんと黄色い犬さんのお二人のコメントから、「物の自分」をどこかに求める志向と質主義的言説の関係を考えてみたいと思います。 養田さんが言及してくださった拙論「現代社会の『個人化』と親密性の変容」は、「小田亮の研究ホームページ」にアップしたものです*1。そこでは、若者たちの親密な関係の作り方が〈包括的コミットメント〉から、「参入・離脱の比較的容易な関係において、生活の文脈を限定的・選択的のみに共有するような親密性」を作る〈選択的コミットメント〉へと変化しているという浅野智彦さんの議論や、状況に応じたロールプレイをするような「キャラ的人間関係」へと変化しているという森真一さんなどの社会学者の議論を使って、現代の若者たちの親密な関係の作り方における「自己」につ

    戦略的本質主義を乗り越えるには(1) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
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    t-kawase 2007/02/17
    小田先生の連続考察。
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