川内は1920年(大正9年)、日蓮宗の寺に生まれた[1]。小学校を卒業後、様々な職業を転々とする。大都映画で大道具だった兄を頼って上京、新聞配達をしながら独学で文学修業を重ね日活のビリヤード場に就職、人脈を広げて日活の撮影所に入社する。 1941年(昭和16年)、川内は東宝の演劇部へ入社した。やがて撮影所の脚本部へ転属となり、特撮や人形劇映画を担当した[注釈 1]。その傍ら舞台の脚本なども執筆する。東宝を退社後、新東宝やテレビなどの脚本家、浅草の軽演劇の劇作家として本格的な活動を開始した。 東宝時代、人形劇映画『ラーマーヤナ』の脚本を執筆した[1]。川内は以前よりマリオネットに興味を持っていたことが誇張されて円谷英二の耳に入り製作に携わることになった[1]。製作中に召集令状を受け横須賀海兵団に入団する[1]。 1945年(昭和20年)、第二次世界大戦の戦没者の遺骨引揚運動を開始し、1955