高橋源一郎の小説。あれはつまりボケだ。正しいツッコミが誰にも思いつけない困ったボケ。それを目指してボケを徹底して磨き抜いたのかもしれない。ただ最近は、ボケをむしろ緩く鈍くすることでツッコミをよろよろと回避する大リーグボール3号のごとき戦略とも受けとれる。 では、高橋源一郎の評論(とされる文章)はどうか。たとえば『文学界』の連載「ニッポンの小説」。これまたボケが手を変え品を変え延々続く。いったいどうなるんだ、と思いきや、最後にはきっちりツッコミが入って落とし前がつく。さすが評論だ。(小説のボケはボケ自体によって落とし前はついているのだろうが) というわけで、本当は、高橋小説のボケに対して、あるいは高橋評論のうちでもおそらく自身でもツッコミせず放っておいてあるボケ部分に対してこそ、ぜひツッコミたいのだが、それは非力で難しい。だから、高橋源一郎の自らのボケに対する自らのツッコミという、非常に限定