著者: 出川 光 今でも、池ノ上に引越して2日目の夜のことを思い出す。1日目はコンビニ弁当を引越しの段ボールに囲まれながら食べた。荷ほどきを終えて2日目にやったこと、それが直感で決めたこの街一番のバーの扉をひとりで開けることだった。 というか、初めてこの街を訪れたときからもう開けるべきドアを決めていた。くる人を試すようなその佇まい。唯一の窓からもほとんど中の様子をうかがうこともできないけれど、入り口に置かれたメニューには親しみやすい家庭料理がならぶ。木製の重いドアを勢いよく開けたその時、池ノ上は私の街になったのだ。 わかりやすく言えば下北沢の隣。曖昧に言うなら池尻大橋からちょっと入ったところ。はぐらかすなら代々木上原あたり。便利な立地にありながら東京大学と下北沢というアイコニックな場所に挟まれてメジャーになりきらない池ノ上の名前を、あまり人に言ったことはなかった。この小さな街に、誰にも引