本来のトヨタ生産方式を説くために始めた本コラム「本流トヨタ方式」は、現在「自働化」のお話を進めていて、今回はその7回目になります。 先回は、大野耐一氏がトヨタ(当時は「トヨタ自動車工業」)の機械工場で、「人の仕事と機械の仕事の分離」の改善を進め、「着・着工程」と言われる究極の姿を実現させた経緯をお話ししました。その改善によって、工場では最高で17台の機械を1人で受け持つことが可能になり、生産性は約10倍になったのです。 今回は、その大改革の実態をもう少し丁寧にお話ししたいと思います。有名な「ニの字ライン」はどのような考えで生まれたのか、そして、それが半世紀経った今、どんな曲がり角に来ているのかというお話です。 1950年、トヨタの工場で本格的な改革に着手した大野耐一氏の目には、トヨタの倒産の危機の元凶が、徒弟制度に基づいた職人集団任せのモノづくりにあり、それが「生産性の悪さ」と「膨大な在庫