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内田樹に関するtaraijpnのブックマーク (13)

  • 日本の外国文学研究が滅びるとき - 内田樹の研究室

    水村美苗さんの話題作『日語が亡びるとき-英語の世紀の中で』を鹿児島への機内で読了。 まことに肺腑を抉られるような慨世の書である。 『街場の教育論』で論じた日教育についての考えと通じるところもあり、また今書いている『日辺境論』の骨格である、日はユーラシア大陸の辺境という地政学的に特権的な状況ゆえに「政治的・文化的鎖国」を享受しえた(これは慶賀すべきことである)という考え方にも深いところでは通じているように思う。 とりわけ、「あらまあ」と感動したのは、「アメリカの植民地になった日」についての考察である。 明治維新のときに欧米帝国主義国家がクリミア戦争や南北戦争や普仏戦争で疲弊していなければ日は欧米の植民地になっていただろうということを言うひとは少なくないが、「植民地になって150年後の日」についてまで SF 的想像をめぐらせた人は水村さんをもって嚆矢とするのではないか。 「たと

  • アメリカの夢 - 内田樹の研究室

    リーマンブラザースが破綻した。 こういうときは「平川くんはこの事態をどうとらえているだろう」と思うので、さっそく彼のブログを読む。 http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200809160000/ なるほど、そのような理解でよろしいわけですね。 そうか。 私はアイボリー・タワー(最近わりと娑婆臭くなってはきたが)の人間なので、リーマンとかメリルリンチとかAIGというのが「なんぼのもん」なのか実感としてはさっぱりわからない。 つい二週間ほど前のある雑誌(気の毒なので名を秘す)がこの外資系金融機関で働く女性たちを特集していた。 先端的ビジネスで、複雑怪奇な金融商品を捌いて、年収数千万円というようなサクセスフルな女性のアクティヴでアグレッシブな生き方を、「ロールモデル」としてご呈示したいというような内容であったかに記憶している。 間の悪い話で

    taraijpn
    taraijpn 2008/09/18
    『無意味にえらそうにしている人間がそこここに目に付いたら、その組織は「末期的」であると判じて過つことがない。』
  • 『学び合い』フォーラム (内田樹の研究室)

    8月8日、9日は新潟に「第四回教室『学び合い』フォーラム2008」の講演に出かける。 『学び合い』というのは上越教育大学の西川純先生が提唱しているきわめて斬新な教育法である。 小中学校において劇的な効果を上げて、今全国の教室に拡がり始めている。 フォーラムはその実践者(およびこれから実践しようとしている)教員たちが日中から集まって、公開ゼミや模擬授業をするというイベントである。 と、わかったようなことを書いているが、そんなことは行くまで知らなかった。 教育現場からのお声掛かりであれば、できるかぎり講演のオッファーは受諾すると言っている手前、引き受けたものの、「この暑い中、新潟は遠いなあ」とぐったりしながらでかけたのである。 行ってびっくりした。 教師たちの集まりにはずいぶんお呼びいただいたけれど、正直言って、聴衆の熱意には天と地ほどの差がある。 ぼんやり講壇を見ているだけで、寝ている人間

  • 大学が生き延びるために - 内田樹の研究室

    いつも大学情報を教えてくれるコバヤシさんから、「ちょっとショッキングな話」を教えていただいた。 大阪府吹田市のある大学(気の毒なので名を秘す)に、08年、現代社会学部が新設された。 しかし、来年(09年)、この学部は募集停止になる。 おそらく大幅な定員割れだったと想定される(受験者は20人余。入学者は非公開)。 もう一つ、これも関西のある大学の話。 この大学は08年度から人間教育学部を新設した。 1966年に開学したときの文学部を94年に募集停止して、国際文化学部を設置(文化学科、言語コミュニケーション学科)。02年に情報コミュニケーション学科を設置した。 文学部から国際文化学部への事実上の改組であるが、それも12年しか保たなかった。 06年に国際文化学部が募集停止。そして人間教育学部に衣替えしたのである。 冷たいことを言うようだけれど、この人間教育学部も長くは保たないように思う。 これら

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    taraijpn 2008/08/10
    現代GPって『頑張れプロフェッサー』(文科省的な意味で)だと思ってた。もちろん嘘です。
  • 忙しい週末 once again - 内田樹の研究室

    金曜日はゼミのあと、会議が二つ。それから温情会。今回は大阪ヒルトン。 温情会というのは学校法人神戸女学院の教職員の懇談会である。日ごろあまり会う機会のない、中高部の先生がたや、法人の職員のみなさんとテーブルを囲んで会をするのである。 このところいろいろな用事とバッティングしていたので、出るのは久しぶりである。 今回はイタリアン。 音楽学部の先生がたと同じテーブルになる。右隣が斉藤言子先生で、左隣が島崎徹先生。 左右に首を振りながら、ワイン片手にずっとしゃべり続ける。 岡田先生のピアノをはじめて聴く。 すばらしい。 眼福という言葉があるが、これは耳福。 週末は東京。 新宿住友ビルで願寺(こんどはお東さん)の市民講座。 聴衆は100人くらいの市民のみなさん。雨の中をお運びいただき、まことに申し訳ない。 このところのテーマである「呪いのナラティヴ」について90分お話する。 私たちの時代に瀰漫

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    taraijpn 2008/06/23
    『呪いを祓うとはどういうことか。 それについてお話をする。』とこのように一番見聞きしたいことが出てこないのが受動的インターネット利用者(私)の限界というか。
  • 拡大鏡から神の視点へ - 内田樹の研究室

    クリエイティヴ・ライティング今週の課題は「カラフルな人生」である。 これまでは「ヴォイスを発見する」ためのエクササイズとして、「割る」ということをやってみた。 通常であれば、一行で書き終えてしまうようなことをその細部にわたって書き込んでゆく。 もちろん単に細分化するということではない。 「批評性」を機能させるための訓練である。 批評性を機能させるにはいくつか技術があるが、その一つは「立ち止まる」ということである。 自分が何かを感じている、何かを思考している、何かに欲望を感じている、何かに怒りを感じている・・・そういう「ひとまとまり」の行為をいくつかの工程に割ってみる。 「私は怒っている」という記述と、「この対象のどの要素が私を怒らせるのか?」「私の怒りは、どのようなレベルにおいて、どのような形態を選択するのか?」「私は怒ることを通じて何を実現しようとしているのか?」といった一連の記述では批

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    taraijpn 2008/05/29
    視野の変化と視線の変化を同時に起こすと、不思議なことに『時間の流れ』も変化しているように思える。
  • 妄想のすすめ - 内田樹の研究室

    月曜日。午前中、下川先生のお稽古。昼から部長会。そのあと3回生ゼミ。それから杖道のお稽古。 新人がたくさんいるので、たいへん楽しい。 帰宅後、ひさしぶりに帰郷したるんちゃんと歓談。 歓談しすぎて、二日酔い。 火曜日。朝、湊川神社で申し合わせ。盤渉楽。とりあえず間違えずに最後までゆくが、最初のうち身体が硬い。 着替えてから大学。ゼミ二つ。ゼミのあいまに原稿書き。 大学院ゼミは戦後世代論。 黒田くんの発表を聞いているうちに、カッキ的な世代論を思いつき、それをご披露する。 家に戻って、るんちゃんと近くのイタリアンで晩ご飯。 ワインのみつつ歓談。 昔話にふける。 震災のときの山手小学校の校長先生(たいへん立派な方であった)の話など。 家にもどってバカ映画を見る。 あまりにバカな映画だったので、タイトルを思い出せない。 るんちゃんに「読むべきマンガ・リスト」を作ってもらう。 ただちにアマゾンに発注。

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    taraijpn 2008/05/29
    『最後に出てきたシビル・ダニング風女奴隷の胸部のあたりに想像が固着していた可能性は高いが』こういうことをさらっと言えるおっさんになりたい。
  • X氏の生活と意見(内田樹の研究室)

    クリエイティヴ・ライティングの授業で先々週の宿題に学生たちに「・・・さんの生活と意見」というタイトルを課した。 さきに高橋源一郎さんの『タカハシさんの生活と意見』の一部を読み聞かせ、これが『伊藤整氏の生活と意見』、『得能五郎の生活と意見』、『江分利満氏の優雅な生活』といった先行作品を踏まえたもので、さらには遠くロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディの生活と意見』にまで遡る伝統的なタイトリングである、という話をしたのである。 『トリストラム・シャンディ』について日で最初に言及したのはおそらく夏目漱石である。 漱石はこの奇書についてこう書いている。 「今はむかし、十八世紀の中頃、英国にロレンス・スターンという坊主住めり。最も坊主らしからぬ人物にて、最も坊主らしからぬ小説を著し、その小説の御蔭にて、百五十年後の今日に至るまで、文壇の一隅に余命を保ち、文学史の出るごとに一頁または半頁の労

    taraijpn
    taraijpn 2008/05/20
    第3回? 『「私」の筆先から溢れるようにほとばしる言葉が、よくよく見たらすべてレディ・メイドの「ストックフレーズ」であった・・・という身も凍る経験』
  • 4 月 20 日の十大事件 - 内田樹の研究室

    日の十大事件。 (1)朝ご飯お代わりしちゃった事件。合気道合宿帰宅後ひさしぶりに計量したら78.3キロというテラ・インコグニタを記録して以来、減量に心がけている私であるが、76キロと77キロの間を行き来するばかりで、76キロの壁の前で苦しんでいる。ようやく昨日、合気道稽古後に75.6キロを達成したが、調子に乗って晩ご飯に「カレーうどん、豚肉大盛り」を作成し、ビールとともに飲したのが災いしてか、今朝の計量では77キロに逆戻り。がっくりして気の張りが抜け、朝ご飯にご飯、味噌汁(わかめ、油揚げ)、納豆、生卵、キュウリの漬け物、塩鮭でご飯を二膳べてしまったら、お腹がいっぱいになり、そのまま寝てしまった・・・ (2)『現代霊性論』幻のゲラ事件願寺のフジモトさんにせかされているまま放置されていた『現代霊性論』のゲラ直しに昨日よりとりかかる。釈先生との漫才授業の講義録であるが、その中に「名前は

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    taraijpn 2008/04/21
    fooにおけるnのbar、のパターンのひとつ?
  • Voiceについて - 内田樹の研究室

    今日から授業。 最初の日からクリエイティヴ・ライティングの授業がある。 これは2006年度に難波江さんとふたりの「合同演習」というかたちで半期行い、去年は難波江さんがおひとりでされた。今年は私の担当である。 ものを書くというのはどういう営みであるのか、それについて原理的に、かつラディカルに究明しようではないかという意欲的な教科である。 二年前の学生たちは「物書き」志望の人が多かったので、ずいぶん真剣に受講してくれた。 「書くこと」をめぐって難波江さんと毎回長い時間話をした。 授業の準備としてではなく、ふだん私たちが差し向かいで話していることを、そのまま学生たちの前で公開して、その話の中で浮かび上がったトピックでエチュードを書いてもらうという形式が何となくできあがった。 このやり方はたいへん面白かった。 最初は「ヴォイス」というトピックから入った。 これはもう何度も書いていることだけれど、「

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    taraijpn 2008/04/17
    第0回、クリエイティヴ・ライティングをめぐる講義。続けて読んでみよう。
  • クリシェと割れた言葉 - 内田樹の研究室

    新学期になってフランス語とクリエイティヴ・ライティングの授業が始まる。 フランス語は仮履修者名簿には18名とあったので、教室に行ったら40人ほどの学生が待っていた。 残りの方たちは聴講生だそうである。 イントロダクションとして、「なぜ外国語を学ぶのか」について話す。 クリエイティヴ・ライティングの授業は10名から15名程度の学生たちを相手に、膝つき合わせてしみじみと文章修業をする予定で、資料を少し多めに20枚刷って教室に行ったら、学生が廊下に溢れ出していた。 広い教室に移動してもらったけれど、それでも100名近くいる。 100名を相手に文章修業の添削なんかしてられない。 申し訳ないけれど、「冷やかし」の方と、それほどモチベーションがない方はご遠慮願いたいと申し上げたら、ぞろぞろと帰って行った。 授業が始まって私が話している間も、二人三人と席を立って帰って行く。 要するに私の話を聴いて「つま

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    taraijpn 2008/04/17
    第1回。ヴォイスとかクリシェとか。
  • ヴォイスを割る - 内田樹の研究室

    クリエイティヴ・ライティングの二回目。 宿題をして来たものだけ受講を許すといったら、一気に半分以上いなくなって(やれやれ)、40人ほどになる。 これなら、まあなんとか課題を出して読めない数ではない。 二回目は「ヴォイスを割る」ということについての課題でたぶんほとんどの人が「勘違い」をしているであろうというお話から入る。 「割る」というのは水平的、空間的に割るのではなく、「次元を割る」ということである。 「ご飯をべる」という一行を、「箸を手に取り、茶碗をたぐりよせ、口を開いて、口中に投じた米を咀嚼し・・・」というふうに書くのは「割る」でもなんでもなくて、ただの「引き延ばし」である。 町田康さんの一文を読んで、そういうふうに解釈した人はその段階で課題の理解を誤っている。 町田康の文章のもつコミュニケーションの深度は、「いまこの文章を書きつつある私のメカニズムそのものへの批評的自己言及」によっ

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    taraijpn 2008/04/17
    第2回。これはある意味オープンコースウェアなのではなかろうか。男子禁制の大学講義の内容に触れられるだけでもありがたいことだ。
  • テレビ的成熟 - 内田樹の研究室

    青山さんが府知事選のあとの新聞の底意地の悪いコメントに怒っている。 http://yummyao.at.webry.info/ 私も同感である。 済んでしまったことについて、後から「だから言ったじゃないか」みたいな訳知り顔をされても得るところはない。 そんな訳知り顔をする暇があったら、この「災厄」がもたらす被害を最小限にい止めるにはどうすればよいのかを考えることに知的リソースを投じる方が生産的だろう。 外洋航海士であった池上六朗先生から伺ったことだが、船が座礁したときには、「だから言ったじゃないか」みたいなことを言ってせせら笑う人間に用はない(というか、そんなやつはその場ではり倒される)。 とにかく、この苦境から脱するためには「使えるものはすべて使う」という姿勢でなければならない。 の手も借りたいときに人間の手を使わない法はない。 こういう場合に必要なのが「ブリコラージュ」的な知性運用

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    taraijpn 2008/02/01
    『上から目線』って何なんだろうともやもやしていたことが端的に書かれているように思えた。慈母かはともかくとして。>歯に衣着せぬ批評性と慈母のような寛大さ。
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