690年に即位した則天武后が執政した時期は羈縻支配地域に対する収奪が激しくなり、唐によって営州都督府の管轄下にあった松漠都督府(現在の遼寧省朝陽市)の支配地域に強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて、粟末靺鞨人は指導者乞乞仲象の指揮の下で高句麗の残党と共に、松漠都督府の支配下から脱出し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下に高句麗の故地へ進出、東牟山(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震国を建てた。「震」という国名は『易経』にある「帝は震より出ず」から付けたものであり「辰」に通じ「東方」(正確には東南東と南東の間)を意味することから渤海の支配層が中国的教養を持っていたことが窺える[11]。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝することにより、崔忻が冊封使として