中世ラテン世界の宇宙観、すなわち当時の自然科学に関する認識を知る手がかりとして『天球について』という本があります。この本は、長い間自然科学を学ぶ学生の教科書として親しまれてきました。三村先生は、膨大なアラビア語の文献を調査して、この本の真の著者を発見しました。 Mimura, Taro. The Arabic Original of (ps.) Māshā’allāh’s Liber de orbe: its date and authorship. The British Journal for the History of Science. 2015, vol.48, no.2, p.321-352. 中世ラテン世界にアリストテレス自然学とそれに基づく宇宙観を伝えた最初期のラテン語作品として、中東地域を支配したアッバース朝(750-1258)の宮廷占星術師マーシャーアッラーフ(800年
久しく「日記」のようなものを書いていなかったので、ここらですこしやってみようと思った。 いや、実はもうちょっと理由があって。自分が置かれている環境の変化についてインターネットに書いていないことが、ひどく気にかかるようになってしまったのだ。そもそもの話として、自分には、プライベートのことや仕事なり学業なりのことをインターネットで進んで話したくないという想いがいまだにある。話すとしても、すでに思い出になってから。はじめてインターネットに触れたとき、そこにあったのが偶然にもそういうタイプのインターネットだったからというだけの話なのだが、それをいつの間にか内面化していたわけだ。ただ、いつまでもそれだけでインターネットをできるわけでもなかったようで。同じアイデンティティのまま長くやってりゃそうなるわという話なのか、それとも「プライベートでも仕事でもない領域」というのが狭まってしまったのか。どちらもあ
我々、否、私の目標は諸問題の解決や実生活の向上であるが、その際に必要なのはゲインの調整である。抽象的にいうとそこに評価関数があって、いくらかの変数があり、それらを日々調整しながら関数を最大化させることが目的となる。ゲインの調整を行うには安定した環境が必要である。だから私は安定化に努めなければならない。衣食住がある規定値を満たしてはじめて次のステージに望める。例えば、すんげぇお金持ちになりたいと思っても、住むところや食べるところに困っていたり、何らかのストレスを抱えているとあまりうまくいかない。不安定な環境から向上を目指そうとして、一発逆転を狙おうとする。よくないね。 そのようなくだらない思想が体を満たしていき、なぜだか心が軽い。いくつかの経験が結ばれて線や面となっていいかんじに形成されていた。読書もそのひとつだけれど、それが全てではなかった。 アンナカレーニナの下巻を読んだ。結局アンナは自
みんな努力や運にシビアだ - 意味をあたえる fktackさん(id:fktack)の言ってることはそのとおりだと思って、ぼくは好きなことを仕事にするのが生存戦略には有効だと書いたけれども、本当に言いたかったのは、その好きなことがはじめからある人はいいけれど、好きなことがない人は、それをわざわざ見つけたり作ったりしなきゃいけない大変な時代が来ちゃってる、ということだった気がしてきた。 それが良いことなのか悪いことなのかわからないし、あるいはひどく極端でマッチョな考え方だとも思うのだけど、しかしもしそうなのだとしたら、好きなことがない人は、どうやって好きを見つけていくのだろう。 ひとつ思うのは、好きという言葉が邪魔をしてしまっていて先の話に進みにくいのだけれども、怒りとか憤りとか恨みとかのネガティブな出発点の場合もあっていい気がする。 たとえば何か文章を書くのが好きな人の場合、もちろん文章を
何もしなくても気を遣われてしまうことを自覚する。非対称な関係だから、遠慮すべきところは遠慮するようにする。たとえいやでも、向こうからそうは言いづらいのだから。勘違いしてはいけない。あなたと後輩との距離は、あなたが思うほど近くない。あなたは、あなたが思うよりも先輩だ。過去の記憶を思い出すのだ。そしてこの感覚の非対称性を理解するのだ。良い先輩になることは、とりもなおさず「自分の感覚は正しくないと自覚するプロセス」にほかならない。 後輩のメンツをつぶしてはいけない。後輩がさらに後輩に対して何かを教えている時、あるいは単に先輩風を吹かせている時、たとえ言っていることが間違っていたとしても否定しない。きみが優秀なら、きみの後輩も優秀なはずだ。たまに間違ったことを言ったとしても、おおむねよい指導をしている(なんたってきみの後輩なのだから!)はずだから。きみの責務は後輩の後輩を直接指導することではなく、
先日、杉松とふたりでゴッホ展に行った。京都国立近代美術館でやっていた。それで実感したが、ゴッホのなまの絵を見ることはものすごく疲れる。すさまじく疲労した。昼食をとってから絵を見たのに、美術館を出た後、二人とも甘いものが食べたくなっていた。 なぜこんなに疲労したのか、杉松と話し合った。杉松は「頭のおかしい人の話をずーっと聞いたあとみたいな気持ち」と言った。たしかに、と思った。ガーッと脳の処理能力を使わされた感覚。この世でなにが危険かって、伝達能力をぎりぎりのところでそなえた狂人ほど危険なものはない。 アントナン・アルトーに「ヴァン・ゴッホ」という文章がある。アルトーのこの文章も、脳の処理能力を要求してくるという意味で、ゴッホの絵に似ている。たまにそういう類の文章がある。なお、私の手元にあるのはちくま学芸文庫のものである。 河出文庫の『神の裁きと訣別するため』にも同じ文章が収録されていて、こち
人口約33万人ほどの東部最大の町「花蓮」。先日、マグニチュード6.4、震度7の地震が発生した町として、日本国内でもニュースで取り上げられましたが、山や海などの大自然に囲まれた美しい町として知られています。台北から電車で約2〜3時間ほどで行けるとあって、観光客も多く訪れます。11歳まで台湾に住んでいたこともある、エッセイストの一青妙(ひととたえ)さんに、今回「花蓮」の見所を4回に分けて、紹介していただきます。1回目は一青妙さんが太鼓判を押す、花蓮のB級グルメについてです。 美しい名前の町「花蓮」 「花」に「蓮」を組み合わせた美しい名前の場所が台湾にある。日本語で読むと「かれん」という、これまた美しい響きになる。もともとは「回瀾」という地名だったが、のちに閩南語の同じ発音で「花蓮」という名前があてられた。花蓮は台湾の東側に位置して太平洋に面しており、人口は約33万人。行政区の面積としては、台湾
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